旅
明け方には自然に目が覚めた。もそもそと起き出して馬車の外に出ると、夜には見えなかった草原が広がっている。
朝独特の穏やかな風を受けて、草が波を作り出している。
私は適当な画材を馬車の中から失敬して、無言で描き始めた。秒単位で光の加減が変わっていくので、下描き無しのいきなり絵の具塗りだ。
空は独特の色合いに染まっていた。ピンク色の空に薄紫色の雲が浮かんでいる。時間が経つにつれて日が昇り、色が変わって行ってしまった。必死になって最初に見た空を描きとめていると、ガガエから声が掛かった。
「ノアールは、見るもの全てに心を動かされるんだね」
「動かされなければ絵に描こうとは思わないだろうからな。おい、朝飯だぞ」
気づけばスマルトさんは既に食事を済ませて馬に餌をやっていた。私も慌てて少し硬いパンに齧り付き、スープを飲む。昨日とほとんど変わらない食事だ。今まで一人で旅をしていたのか、きっと頓着が無いのだろう。
「スマルトさんは描かないのですか?」
「ああ、あの色合いの空は何度も見てる。見るたびに描いてたら画材がもったいない。食べたら出発するぞ」
馬車の速度を上げているせいか、風景は物凄い速さで流れていった。幌に覆われているせいで見える範囲は少なく、絵を描くのは諦めなければならない。
「そう言えば王都はまだですか?」
「何言ってんだァ、そんな所は通らないぞ。大きな街道をこの馬車で通ったら、大変な事になる」
私は頭の中で地図を思い描いた。最後に見たのは孤児院だ。と言ってもかなり大雑把なもので国の配置と山や川、大きな街道を記しただけのものだ。
私は必死でマザーに教わったことを思い出していた。ディカーテが東西を結ぶ街道沿いにあるのは知っている。エボニーに連れて行かれた領都アンツィアは街道から少し北側に外れたところにある。街道を東へ向かうと領境を越えて王都があって、ずっと先にウォルシー。他の領や町や村など、細かいところは知る術が無かった。
「一本南側の小さな道を通ってる。ウォルシーの関所は大街道にしかないから最後には合流するけどな」
時々、北や南に分岐する道を見かけるし、同じように走っている馬車も見かける。大抵が狭い範囲の移動で、私たちのように国を横断する為にこの道を使う人は滅多にいないみたいだ。
「地図って持ってますか?」
「ああ、後ろのどこかにあるだろ。自分で探せ」
世界を廻って絵を描くならもう少し地理を覚えないといけないな。折りたたまれた地図には周辺の道が細かく載っていて使い勝手が良さそうだ。それをしばらく見ていたが、気持ち悪くなりそうだったので途中で止めた。
夕方になると馬車はコリピサと言う小さな町に入って行った。ほとんど村と言ってもいい規模だ。どこかバスキ村を思わせる、のんびりした田舎町。
宿の裏手に馬車が止められるようになっていて、馬の面倒も見てくれるそうだ。降りて伸びをした後にしわが付いてしまったスカートの端を整える。
今着ている服は、メイズさんの家で絵を描く作業をしていた時の物だ。作業服とは言っても、ツナギやオーバーオールではない。平民からしてみればちょっとしたお出かけ用の服。
借りているのかもらって良いのか分からない状態だ。アトリエに戻ったらどうするかメイズさんに聞くつもりだったから。
そんな服を着た私が、スマルトさんと一緒にいればどうなるか。
「部屋は二階の角部屋とその手前。階段を上がって左だよ」
「ああ、ノアールは角でいいな」
「はい」
宿屋で受付を済ませスマルトさんについて私も部屋へ行こうとすると、おかみさんに腕を掴まれ小声で囁かれた。
「あんた、攫われてきたんじゃないのかい?」
「え?」
「親子には見えないし夫婦って感じでもない。山賊と攫われたお嬢様にしか見えないよ」
「山賊……」
言い得て妙だ。私が笑い出す前にガガエがぷぷっとふき出した。
「心配してくれてありがとうございます。私たちは絵描きです。あの人は兄弟子。まぁ、無理やり連れて来られたのは間違いないんですけどね」
そう言って笑うとおかみさんも納得したようで、掴んだ腕を放してくれた。厳密には兄弟子とは違うのだが、うまい言葉が見つからない。
「そうかい、それならいいんだけどねェ。近頃は物騒だからさ、悪かったね」
有難うございますとお礼を言って階段を上がると、スマルトさんがむすっとした顔をして待っていた。
「飯を食う前にその服をどうにかするか」
「あらら、聞こえてましたか。別にいいですよ、このままで。もったいないし」
「全く、しっかり準備して来ればこれほど出費も無かったのに。……って俺のせいか」
自分で言いながらがっくりと肩を落とすスマルトさん。その横をすり抜けて入った角部屋は、しっかりと掃除がされていて清潔感のある可愛らしい部屋だった。
まともなベッドで寝られることがこんなに嬉しいなんて―――
そのままうつぶせにベッドに倒れ込む。ピクリとも動かなくなった私を心配してガガエが「ノアール?」と声を掛けた。
くるりと仰向けにひっくり返ると、ガガエが顔を覗き込んできた。
「大丈夫。何となく疲れただけ」
返事をしながらも起き上がらない私の上で、ガガエは羽ばたいている。
「気分、悪いの?」
「ううん、多分違う。何だろう、説明できないよ」
自分でもよく分からないので理由になりそうなものを片っ端から上げていった。
馬車の中では酔ってしまいそうなので全く絵は描けなかった。でも今朝は朝焼けの空を絵に描けたから、絵が描けなくて不満を持っているわけでは無い。
基本座っているだけの状態で朝から夕方まで同じ体勢で、食事をとる時は馬車を止めるけれどそれだって三十分もない。
エコノミークラス症候群にならないように体を少しずつ動かしていたから、多分大丈夫。もともと、じっとしているのは嫌いではない。
時間を潰せるような物を持っていなかったから。でも、ガガエと話したりスマルトさんに質問したりして、気は紛れていたと思う。
貴族のような生活から一転して放浪生活みたいになったから不満は少しはあったけれど、絵を描くために旅をするならそうも言ってられない。旅が嫌いなわけでは無いからこれも違う。
「何だろうね。やっぱり勝手に馬車に乗せられて勝手に連れて来られて…と言うのが気に入らないのかな。私ね、闇の日生まれで長生きできないかもしれないって言われてたんだ」
「ん?ちっともそうは見えないけれど」
「うん、だから出来るだけ好きな事をやろうって生きて来たんだ。自分で納得してこれなかったのが気に入らなかったのかな」
そうなると、結構私は我がままなのかもしれない。答えが出そうにもなかったので無理やり結論付けた。もう一つの可能性に気付かぬふりをして、心のふたを閉める。
扉をノックする音が響き、スマルトさんの声が聞こえた。
「おーい、飯行くぞォ」
「はーい、今行きまーす」
部屋の鍵を閉めて一階の食堂へと降りていく。貴重品なんて首からぶら下げている精霊石だけだ。
食事はこの地方独特な味付けで少し濃いめだった。少し前まで貴族のお屋敷で摂った食事とはまた違って美味しい。特に芋のようなものの煮物が気に入った。
メイズさんに続いてスマルトさんととる食事も、会話はむしろたくさんしている筈なのに。どこかほんの少しだけ、違和感のような物が心の奥底から湧いてくる。
―――トープに会っていないから調子悪いなんて、そんなはず、無い。
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