サーカス編9

 依頼された絵がオーカーさん達に気に入ってもらえたことよりも、シアンさんの心を慰められる海の絵を描けたことの方が私には嬉しかった。

 きちんとした依頼の方を軽視するみたいで問題ありありなんだけど、絵描き冥利に尽きると言うか、誰かの心に影響を与えその反応が見られる機会は滅多にない。


 もらった青い石をどうしようか。


 アクセサリとして描こう……いや加工して身に付けることも考えたけれど、石は二つある。片方を手元に、もう一方を絵の具に出来たらさぞかしきれいな青が出せるだろうと、帰ってそのまま工房に持っていき親方のバフさんに見せることにした。


「これ、顔料になりますか?人魚の涙なんですけど……」


 私がそう言った途端、親方だけでなく作業をしていた職人たちも手を止めて、一斉にこちらを見た。その目が殺気立っているようにも感じられて、少し怖い。一緒に帰ってきた浅葱さんはにこにこしている。


 トープはまだ人魚の涙を教えてもらっていないらしく、私と同じように周囲の異様な雰囲気に戸惑っているようだ。


 沈黙が痛い。私、変な事言ったかな?バフさんの顔がすごく面白いことになっていた。口の端が引きつって、笑っているのか泣いているのか分からない顔。

 バフさんは道具箱からルーペを取りだし、人魚の涙が乗っている私の手ごと持ち上げ細かく観察している。プルプルと震えている振動が伝わってきて、この上なく緊張しているのが分かった。ビー玉より少し大きいくらいの滴型なので落としはしないと思うけれど、少しだけ怖い。


「あのー」


 私が声を掛けるとバフさんは慌てて離れる。ふうーとため息を吐きながら首を振り、おもむろに口を開いた。


「顔料として加工するなんてとんでもない。これがどんな石なのか知っていて言っているのか?」

「人魚の鱗が顔料になるなら涙もなるのかなと思ったんですけど、違いましたか。二つあるから一つはアクセサリにしてもう一つは絵を描くのに使えるかなって考えてました」


 思い出の品として取っておきたかった。着飾ることにあまり興味は無いけれど、手元に置くなら宝飾品に加工するしか思いつかない。寧ろ絵の具にして描いた方が私らしい使い方だと思った。


「トープも覚えておけ。鱗も相当価値が高いが、涙はそれ以上だ。人魚を泣かせて無理やり採取しようとしても水になって消えちまう。希少価値や美しさから青の女神とも称されるほどだ。ほとんど幻とも言えるその石の価値は……」


 もったいぶっていいところで間を置くバフさん。私とトープは思わず前のめりになってごくりと唾を飲む。


「い、いくらなんですか?」

「質の良さ、大きさからして……そうだな、二つ合わせてざっと三十億ぐらいだろ」


 あまりの額の大きさに息が止まった。じわりと冷や汗が落ちる。


「まあ俺だって宝石の鑑定士ではないし、原石だからこれから加工することを考えれば目方は減るだろうが、それでも一つ十億は下らないと思うぞ」


 私の手の上に三十億が乗っている。そう思うと緊張からか涙目になって、途端に足元が震えだした。トープもあわあわしている。


「どうしよう、これ」

「おおお落ち着け、ノア。落とすんじゃないぞ」

「売る?売っちゃう?お金の事を全く気にせずに絵が描けるよ」


 浅葱さんがにこにこしながら悪魔のように誘惑してくる。サーカスを出てからずっと笑顔だったのはそのためか。


「か、返してくる。サーカスの運営だってひっ迫しているみたいだったし、今ならまだ間に合う―――」

「オーカーさんだって知っていて止めずに見ていたのよ。それだけノアちゃんに感謝しているの。返しに行ったら思いが無駄になるわね。いらないならちょーだい?」


 浅葱さんが手のひらを上にして突きだしてくる。パニックになっている私が渡そうかどうしようか迷っていると、バフさんが最大級の音量で怒鳴った。


「あほかっっ、何言ってんだ浅葱。ノアがまっとうな対価として受け取ったんだ。横からかっさらうならアトリエ中を敵に回すぞ」

「やだなー何勘違いしているんですか。ノアちゃん、処分に迷うんだったら事務所の保管庫に入れておいてあげるって意味ですよ」


 ごめんなさい、私も浅葱さんが自分の物にしようとしているのだと思ってました。浅葱さんが再度手の平を突きだしてくるけれど、今度は素直に渡せなくて戸惑っていると、浅葱さんが顔色を変える。


「もしかして私、ノアちゃんに信用されてない?」

「う……あ……そうじゃなくて……」


 何だろう。浅葱さんは信用できるのに渡してはいけない気がする。理由が分からないけれど、勘と言うか、何かが動くのを妨げているような。

 浅葱さんはとうとう泣きの表情に変わった。


「ノアちゃん……」

「待って。そうじゃなくて石が―――」


 手のひらの上の石の一つが、何かを訴えるようにちかちかと青く瞬いている。すぐ傍に居たバフさんも気付いて覗き込むと、石の周りがぶわっと青い炎のようなものに包まれた。


「うわっとと。何だ、びっくりしたな」

「熱くないの、ノアちゃん?」


 炎は燃え続けているのに、私の手のひらは全く熱を感じなかった。

 代わりに感じていたのは、強い魔力。周りを軽く威嚇するような圧を掛けられているようだ。

 手放そうとする私に抗議しているように揺らいでいる炎は、一向に消えそうにもなかった。


「どうしよう、これ」

「こりゃあ、まるで精霊石だな。何か話しかけてみればいい。浅葱が取ろうとしたから怒っているんだろ」


 バフさんの言うとおり、宥めるように話しかける。


「大丈夫、誰かに渡したりしないから」


 炎はしゅるんと揺れると徐々に小さくなり、やがて収まった。まるで生き物のようだ。


「ただの人魚の涙じゃねェな。今じゃ天然の精霊石なんて今じゃ滅多に拝めねぇのに。そのシアンって人魚はかなり力の強い人魚なのか?」

「さあ、神秘的ではありましたけれど、特に魔力などは何も感じませんでした」


 この世界の精霊とは、自然界に漂う純粋な魔力を指す。妖精のように個体が存在している生命とは全く違い、割とどこにでも流動的に存在していて、強い力を持って結晶化するとそれが精霊石となる。

 もっと強くなると意思を持つようになり、さらに強くなると石以外の形をとって、その頂点が七色の女神だとも言われる。ただしこれは人間の学者の見解であって本当はどうなのか、定かでは無い。

 神殿の教えでは、世界よりも先に女神たちが存在しているはずだから矛盾が生じてしまう。


 人工の精霊石、特に青い水属性の物はいたるところで水道のように使われている。もちろん無限に使えるものでは無いが、それも魔力を固めて作ったものだ。


 バフさんが言う様に、流した涙がそのまま精霊石になるなんてどれだけシアンさんは強い魔力を持っているんだろう?


「ん……んんん?待てよ。確か水の精霊石と言えば、天然物は海岸沿いに落ちている物を採取することでしか手に入れられないはずだ。という事は今までの精霊石は人魚の涙が打ちあがった物なのか。でもこんな反応見たことないぞ。持ち主を選ぶほど強い精霊石なんて」


 石に対する探究心が湧いたのか、バフさんは独り言を言い始めた。延々と続きそうな解析に浅葱さんが終止符を打つ。


「魔力の吹き溜まりにだって発生するんだから全部が人魚の涙とは限らないでしょ。そんなことより問題はこの石をどうするかよ。金庫に入れることもできないならノアちゃんに持っててもらうしかないけれど……」


 三十億の石を持ち歩く。―――どうやって。

 アクセサリに加工するにしても職人の手に渡る前に石が拒絶するかもしれない。困り果てているとバフさんが提案してくれた。


「精霊石をアクセサリに加工する職人が王都にいると言うのは聞いた事がある。何でも特殊な技術が必要だそうで、それなりに費用が掛かるんだそうだ」

「お金、そんなに余裕ないです」

「だよねぇ。仕方がないから袋に入れて首からぶら下げとくしかないんじゃない?」


 浅葱さんの言うとおり、放っておけば何が起こるか分からない物を自室の部屋に置きっぱなしには出来ない。私は布の小さい切れ端をチクチクと縫い、首からぶら下げることにした。


 落とさないように気を付けようっと。

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