サーカス編8

「色合いはこれでいいか?」


 紫苑さんや親方、トープが刷り上がった絵を取り囲んでいる。メイズさんや先生も見に来たが依頼主であるオーカーさんはいない。本来ならこの時点でもう一度確認してから大量に刷り始めるけれど、王都の下見やら取引やらで忙しいので構わず進めてほしいとの事だった。


 経費を抑える為か真っ白では無く少し黄みがかった紙を使っていて、それが却ってとてもいい感じになっている。紙に合わせた色を使っているのか、私が意図していたものよりもうまくまとまっていて、しっかり商業用の作品となっていた。


 鱗のモルフォ蝶のような輝きは、緑を含んだ明るい水色―――シアンとラピスラズリの深い青を組み合わせて刷られている。

 海の底の絵を見られ、先生に個性の指摘を受けて沈んだ気分で見たけれど、思いがけずとても素敵なものに仕上がった。他人の手が入ったら個性も何もないのではないかと、思う。

 優れているかどうか、と言えばこの絵は確かに優れている。


「ノアール?」

「あ、はい。素敵だと思います。細かいところも指定通りに刷り上がっているようですね」


 無理なようなら、模様の部分も白く抜かず帯状にのっぺりと色を載せて下さいとお願いしていたのだが、最初の指示通りにできたようだ。


 ―――今更、描き直しは出来ない。個性が無いかもしれないなんて私個人の迷いを言わず、これで刷ってもらうより他にない。


 先生をこっそり見るが、何も言わない。特に失望するでもなく、ただただ刷り上がっている物を見ている。

 これで納得できるのかと詰られるのも嫌だけど、無反応が、何よりも怖い。


 自分ではこれで良いと思っているが、このまま印刷を進めてしまったらもやもやが解決できずに自信の喪失につながりそうだ。


「先生の意見も伺いたいのですが、いかがでしょうか」


 我慢できずに聞いてしまった。救いが欲しかったのかもしれない。そんな私の心を見透かしていたのか、先生は苦笑した。


「ダメだと言われたら、描き直すのかのう?」


 紫苑さんや作業に携(たずさ)わった人たちがギョッとする。ほぼ完成までこぎつけたのに一からやり直しでは、間に合わない。

 私は首を振って否定する。


「……いいえ、皆さんのおかげで素敵な仕上がりになったので直しはしません。今後の作品の為に聞いておきたいと思いまして」


 先生はふむ、と頷いた。


「絵の価値と言うのは画家が生きている間にも変わっていくものだ。私はこれよりも海の絵の方に君の個性が表れていると言ったが、君がこちらの絵を描き続ければ後世ではそれが君の個性とされるだろう。作品の中の個性を感じ取るのは、見る者の視点によっても変わる。メイズがいい例じゃ」


 急に話を振られたメイズさんは戸惑ったけれど、話は聞いていたみたいで頷いた。


「景色や人物問わず美しいものが描きたかったのに、いつの間にか人間の美人画専門になっていたよ。抗っている最中なんだけど、呪縛はなかなか解けないね。美人画の大家と呼ばれるのは良いけど、美人画しか描けないと思われるのは癪に障る」


 貴族や富豪の御嬢さん相手が多いので相当な金額で取引はされるけれど、ここはアトリエ・ベレンスだ。アトリエ・ヴィオレッタなら何も悩むことは無かったのかもしれない。

 メイズさんは人物画の中でも、労働階級の生活一瞬を切り取った絵を描きたいらしい。そちらの方が自分の個性だと思っているけれど、評価されるのは肖像画ばかり。


 オークションの値を見る限りでは羨ましいばかりだったけれど、同じような事で悩んでいるなんて思いもしなかった。


「これが自分の個性だと胸を張って言える者なんておらぬ。絵だけでなく、音楽も、小説だってそうだ。評価と同じように後から付いてくるもの。誰かに認められたくて作風をあれこれ変えてもがく気持ちは分からないでもないが、それで描けなくなってしまっては本末転倒だのう」


 好んで使う色、筆のクセ、線、構図、題材。例えば今回は海の絵に個性が表れていると言われて好きでもないのに海の絵ばかり描いてしまっては、きっと私はつぶれてしまう。


「あまり気にする必要はないって事ですか?」

「自分の作品の方向性を決めるにはまだ早い。いろいろなものを描いて画力を上げる方が先決だと思うが、どうじゃろう?」

「そう……ですね。私ももっと足掻いてみます」


 はっきりとした答えは出ていないけれど、納得はできた。私が考えた抜いたとしても、思ったような個性がぱっと現れるわけでもない。

 描いて描いて描きまくるのみ。今のところは海の絵を完成させることが先決だ。



 チラシは何百枚と刷られた。サーカスの一座がどこにいても連絡があれば増刷して送るらしい。刷り上がった物の間に空気を入れてずれの無いように揃え、コピー用紙を包むような茶色の紙できっちりと包む。

 それを浅葱さんが持ち、私は布で包んだ海の絵を持ってサーカスを訪れた。


 昨日の夜で最終公演を終えて片づけを始めている中、まだ水の抜かれていない水槽に近づくとシアンさんとオーカーさんに出迎えられる。


 ひっそりと恋に破れた浅葱さんは、それを微塵も感じさせず事務的な愛想をオーカーさんに向けていた。

 ……大人だなぁ。


「こちらが依頼の品となります。うちのアトリエの奥付も貼っておきましたので、いつでもご連絡ください」

「助かります。あなたのいるアトリエに依頼できて本当に良かった」


 オーカーさんの笑顔も商売用のものなんだろうけれど、今となってはひどく女たらしに見える。……うわぁ、流石の浅葱さんも固まってるよ。あなたに会えて良かったと口説いているようにも聞こえるからね。

 私は口を挟むわけにもいかないので逃げるようにシアンさんの水槽に近づき、脚立を上って布から出した絵を見せる。


「どうですか?シアンさんがどこの海のご出身か聞きそびれたので、勝手に描いてしまいましたけれども」


 シアンさんは息を飲んで目を見開いた。私が持つ絵の方へ手を伸ばしかけて、慌てて引っ込める。額縁を持つように進めても、水の中に落としてしまうのが怖いそうだ。


 まるで、もう二度と戻れない故郷を偲んでいるようなその様子が少しだけ切なくて。

 水に耐性のある絵の具を使えばよかったかもしれないと少しだけ後悔した。


「どうして……どうしてこんな絵が描けるの。あなた海の中を、それも沖の方まで泳いだことがあるの?」

「いえ、あの、小さい頃に夢の中で見ました。記憶が朧気で正しく描けているのか分かりませんけど……」


 誤魔化すのもちょっぴり気が引ける。色合いも、生き物だってこの世界の物が描けている自信は無い。


「きっと、魂に刻まれている記憶なのね。子供の頃に前の人生の記憶が残ってしまう場合もあるらしいから。もしかして人魚だったのかしら?」


 実は今でも残ってます。残念ながら全く泳げない人間でした。私の口から乾いた笑いが漏れたけれど、シアンさんは気にせず絵を堪能している。ひとしきり見て気が済んだようで、絵から目を離して私を見た。


「今まで誰に頼んでも陸地からの絵しか描いてもらえなかったわ。そんなの私だって旅をする途中で見る事が出来るのにね」

「歴代の団長さんは、少しでも海に入ることを許してくれなかったのですか?」


 ほんの少しの里帰りも許可してくれないなんて横暴だと怒ると、シアンさんは首を振る。


「何度か言ってくれたんだけど、私の方から断ったわ。海の中に入ったら最後、戻ってくる自信が無いの。私自身の気持ちもそうだけど、同族に連れ戻されそうで」


 人魚からすれば、陸の上はとても過ごしにくく生き物は残虐で地獄のような場所なのだそうだ。たとえ家族でなくても種族の連帯感は強く、戻ろうとするシアンさんをきっと無理やりにでも引き留める。そんな海へ戻ってしまえば、今までと同じように旅が出来なくなるのは明白だ。


「陸で生きると決めたから、未練はないわ。でもどうしても時々夢に見てしまって。私が生きて居たのはこの絵のように少し深い場所なのよ。そうそう、海底は白い砂地では無く黒い岩盤が多くて……」


 私が描き上げた絵は、故郷の景色にぴったり当てはまったらしい。


「有難う……本当になんてお礼を言ったらいいか……有難う、ありがとう」


 彼女の瞳から大粒の涙がこぼれた。涙はぽたり、ぽたりと水に落ちても溶け込まず、石となってゆっくりと水槽の底へと沈んでいく。恋心を昇華させることは出来ても懐郷の念はどうすることも出来ない。日本に二度と戻れない私と同じように。


「その絵が気に入ったのか」


 不意に声がした方を見ると、いつの間にかオーカーさんも脚立を上がってきていた。


「ええ、この絵があれば今よりもっと頑張れるわ」

「それは良かった。申し訳ないが……チラシの方の代金で精いっぱいだ。王都での開催費用が思ったよりも掛かりそうなんだ」

「あ、ちょっと待って―――」


 シアンさんは水槽の底から何かを拾って私の手のひらに乗せた。海のように青くて透き通るような、とても綺麗な涙滴型の石が二つ。


「人魚の涙、よ。海の絵の代金替わりって事でどうかしら?」

「綺麗……透明な涙だったのにこんなに青くなるんですね。でも、皆さんのモデル代としての絵なのに、良いんですか?」

「いいのいいの。私の感謝の気持ちと友情の証として、受け取ってくれると嬉しいわ」

「そう言うことなら、遠慮なく」


 脚立から降りて絵をオーカーさんに引き渡すと、脚立の位置を変えてシアンさんから見えるように絵を立てかけた。一連のやり取りを黙って見ていた浅葱さんは何故かとても上機嫌で、私の頭を撫でまくる。一体何があったんだろう?


「なんですか?」

「ん~ん、良い絵が描けたんだなって思って。さ、帰ろっか」


 水槽のある天幕を出ると、スケッチのモデルになってくれた団員たちが集って見送ってくれた。王都での興業の成功を祈りながら、私たちは広場を後にした。

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