サーカス編7

「あ、その角度いいね。すごくかっこよく見えるよ~」

「ぐぎゃーぉ」

「照れない照れない。ほんのちょっとだけ火を吹いてもらえるかな」


 まんざらでもなさそうな顔をして、火吹きトカゲは小さな火を吹いた。なるほど、口から少し離れたところから炎の色が付くのか。蝋燭の芯の周りに何も見えないのと同じかな。でも青い部分は見えない。


 一応シアンさんかオーカーさんの目の届くところで描いてほしいと言われたので、水槽の前で団員たちを順番にスケッチブックに描いていく。後で本格的な絵に起こす時にも困らないように、色も付ける。せっかく目の前にいるのだから、手を抜くなんてもったいない。


「何だか私を描いていた時よりも楽しそうに見えるわね」

「十分楽しかったですよ。でもやっぱり仕事なのでいろいろと考えなくてはいけない事が沢山あって」


 水槽のへりに肘をつくようにして、シアンさんは気だるげに私が描く様子を見ている。他の団員のように何かを練習するわけでもなく、暇を持て余しているようだ。


「シアンさんは何か練習しなくてもいいんですか?」

「歌うのはね、ちょっとまずいのよ。他の子たちに魅了が掛かってしまうから」

「あ……なるほど」


 どれだけ抑えるようにしても、多少は掛かってしまうらしい。お客さんが一度だけ本番で聞くなら大丈夫だが、練習とは何度も歌うものだ。心の奥深くまで刻み込まれたら、廃人になってしまう。

 時折水の中にチャプンと潜る音がして、ぐるぐる泳いでいるのは知っている。他の団員達とは違い水の外に出られないのは少し寂しそう。話をしていれば気が紛れるそうだが、海原をどこまでも泳いでいける人魚にとっていくら広い水槽だとしてもストレスはたまるもの。


「私に出来ることがあれば何でも言ってください。暇つぶしにおしゃべりだってなんだって付き合いますから」


 私が思わずそう言ってしまったのだって、仕方がないと思う。いくら本人が望んだとしても、陸に上がった人魚ができることなんて限られる。出来るだけ欲求を満たすお手伝いをしてあげたかった。例えば欲しいものがあったら買ってきてあげるとか、話をたくさんしてあげるとか……それしか思いつかないや。

 シアンさんは少し考えてから、こう言った。


「海が見たいわ。海の絵、描ける?」

「前にもそう言って画家に描かせただろう?結構かかったのに気にいらなくて結局売ってしまったじゃないか」


 丁度通りかかり会話を聞いていたらしいオーカーさんに窘められて、シアンさんはそれきり口を噤んでしまう。


「気にしないでくれ、時々こんなわがままを言うんだ。海が恋しいらしいけどシアンがいなくなったらほとんどこのサーカスは立ち行かなくなる」

「私だってそれくらい理解しているし、海に帰るつもりもない。水槽から出る事さえできないのだからそれくらい望んだっていいじゃない」


 少しずつ雲行きが怪しくなってきた。傍で練習していた団員たちも練習を止めて不安げに見守っている。オーカーさんが無理やり言う事を聞かせていたのなら私はシアンさんの味方になって逃がす算段をするつもりだ。でもどちらの言い分も決して理解できないものではなく、絆だって私が簡単に入りこめるものでもない。


「潮の香りや海風を浴びて気持ちよさそうにしているから、機会があれば海の傍だって通るようにしている。今は内陸だから無理だ。我慢してくれ」

「分かってる。分かっているわ」


 そう言いながらもシアンさんの顔はどことなく不満そうだ。やっぱりストレスがたまっているのかもしれない。


「あの、描いてみましょうか?お代はいりません。その……忘れてましたがシアンさん以外は私の個人的な趣味で描かせていただいているので皆さんのモデル代を払わなければいけないんでした。けれど私もまだまだ駆け出しでお金が無いので、その代わりにしてもらえれば……」

「ワタシはそれでいいと思うワ。オカネをもらっても使う機会もナイシ。シアンの為に描いてアゲテ。ミンナモそれでいいわよネ」


 ハーピーが周囲に呼びかけると、皆頷いた。人魚であるが故の不自由さは、誰もが気に掛けていたみたい。人間では無い団員も買い物に行ったり食べに行ったりはしていたらしく、交代だったり変装したり、誘拐を防ぐ為に複数で出かけると言う制約はあるものの、出かけられない事は無い。―――人魚であるシアンさんを除いて。


「そうね……お願いできるかしら」

「分かりました、任せて下さい」



 シアンさんの話を聞いていて思った事がある。シアンさんの故郷である『海』は陸地から見たものでは無い。海の中を自由に泳ぎ回る人魚が恋しがるのはきっと海中の絵だ。魚やヒトデやイソギンチャク、サンゴや海藻、岩盤や砂地。海面から降り注ぐ太陽の光。そして、どこまでも広がる青い世界。


 前世ではテレビのドキュメンタリー番組でよく見た。金槌なので海で泳ぐなんてほとんどしなかったから、海の映像が流れるとテレビを独占してしまう程憧れた。


 ただ、はっきりと鮮明に覚えているわけでは無い。海中の生物に関してもこの世界で同じものがいるかどうかわからない。何度も塗り直せるように画材は油絵の具を選び、輪郭をぼやかした。


 私が今住んでいるディカーテやバスキ村はヴァレルノという国にある。ルングーザ大陸の東端から二番目の国で海には面していない。食卓に上がる魚はほとんどが淡水魚だ。国から出たことのない私が海を描けるのはおかしいかもしれない。でも、夢で見たとか誤魔化すことならいくらでもできる。最悪、記憶喪失を引き合いに出そう。


 ルングーザ大陸は広く、北へ行けばロシアのような雪国、南へ行けば東南アジアやハワイのような熱帯の国になる。


 シアンさんの出身の海がどのあたりか分からず、もしも南国の海なら白砂やサンゴなど色鮮やかに描いた方が良いのかもしれないけれど、抑え目にした。全体的にぼんやりとしていても、深く透明感のある青でまとめる。


 水面は描かずに上から差し込む光の筋だけを描く。実は苦手なんだよね、あの無造作に描く感じの水面の網目状の白い筋が。どうしても妥協が出来なくなると言うか、どれだけ描き直しても納得のいかないものになってしまう。

 小魚の群れも遠くに泳がせる。

 奥に行くにしたがって暗くし、海独特の怖さと広がりを見せた。丁寧に絵の具をのせて、違和感のないグラデーションにする。


 シアンさんには元気でいてもらいたいから、妥協はしたくなかった。どことなく、無理やり転生させられた自分に重ねているのかもしれない。シアンさんは自分で選んだかもしれないけれど、郷愁の念は厄介なものであることは分かる。


「仕事の引き継ぎは終えたのに何を描いているかと思えば、これは……海の中の絵かね?」


 後ろからいきなり声を掛けられて、思わず息が止まる。扉の音も気配も感じない程集中していたようだ。振り返ると先生がいた。


「あ、先生。そうです。人魚のシアンさんから依頼を受けて描いてます」


 見せるつもりのない絵を見られるのは、恥ずかしい。けれど、何か指摘をもらえるかもしれない。


「あのチラシの絵よりも個性が出ている。様々な青の使い方がとても良い。人魚が癒されて欲しいとの願いが表れている、良い絵だ」


 先生の言葉にはっとさせられる。ミュシャ風の絵ならば大多数の人に受け入れられると言う打算があったから、私の絵かどうかなんてどうでも良いと思っていた。この絵があちこちにばらまかれて自分の絵が有名になればいいと言う欲があった。期待に応えなければならないのはどちらも同じだけれど、海の絵の方が純粋な思いで描いているのが他人から見ても分かってしまうなんて。


 それに加えてチラシの方はさっさと終わらせたいと言う気持ちもあった。時間が余れば余った分だけ他の団員たちが描けたから。手を抜いたつもりは無いけれど、お金を頂いている方が駄作になるなんて大問題だ。


「紫苑が呼んでいる。初刷りの様子を見てほしいそうだ」

「……はい」


 私は、筆をおいてアトリエの一階へと降りた。

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