サーカス編1
ここディカーテは王都ほど大きくは無いにせよ、街道沿いにある町なのでいろいろな人間や物資が集まる町でもある。流行なども王都から少し遅れはするものの、割と早い段階で広がりを見せる。逆に、王都を目指す者もこの街を通過することは多い。
「そう言えば、近々サーカスが来るらしいぞ。見世物の目玉は人魚だそうだ」
絵を描き始めれば引きこもりがちな私とは対照的にお遣いで外へ出かけることも多いトープが、朝食の時に仕入れた情報を披露してくれた。どこかそわそわしながらおかずの豆をつついているところを見ると、サーカスを楽しみにしているらしい。私はポリポリと歯ごたえのあるピクルスを食べながら返事をした。
「へぇ、人魚。私サーカスってまだ見たことないから行ってみたいな」
この世界でのサーカスがどんなものか、当然のことながらまだ知らない。前世では子供の頃に一度見たことがある。空中ブランコ、ジャグリングとか玉乗りとか、トランポリン。動物が出てくる演目もあるし、自転車に大勢で乗るのとか綱渡りもあるよね。それとも人魚がいるなら見世物小屋の意味合いが強いのかもしれない
テレビやゲーム等の娯楽が無いから、興行はかなり人気があるらしい。歌劇やコンサートは富裕層で、サーカスは庶民の味方。まあでも、たまに物好きな貴族が見に来たりもするみたい。
サーカスを見て、厳密に言えば人魚を脳裏に焼き付けるほど見てアトリエで絵に起こしてみるか。
「それで、な、ノア。もしよかったら一緒に―――」
「なぁに、サーカスの話?」
トープの声を遮って、食事のトレーを持った浅葱さんが話しかけてきた。そのまま私の隣に座って食事を始める。食堂は朝昼夜それぞれ二時間ずつほど開いていて私とトープ、それに浅葱さんはほぼ毎日同じ時間に来ている。他の人は仕事のタイミングを見計らって来るので、少しずつずれるのが普通だ。
「王都に行く前にチラシやの絵を一新したいって依頼が来てるけど、ノアちゃんやってみる?」
「本当ですかっ!やる、やります」
夢の第一歩が転がり込んできた。ファンタジーならではの生き物、人魚が間近で見られる依頼。まさかこんなに早く機会が訪れると思わなかったから、じーんと来て涙がこぼれそうだった。そうか、町の外へ出なくてもこんな事もあるんだ。
「良かった。低予算で出来ないかってサーカスの団長さんに相談されたから、丁度うちに入った新人がいますって立候補したのよ。詳しくは朝ごはんの後で説明するね」
「はい!」
ああ、もう楽しみだなぁ。トープのそわそわが移ってしまったみたいだ。チラシかぁ。写実的なものよりは装飾的、イラストよりなものの方が受け入れられるかな。構図は出来るだけ人目を引くものを描くとして、色使いは極彩色にするか、それとも抑え目にして雰囲気を出すか。
浅葱さんは既に頭の中が絵でいっぱいの私の横に座りながら、トープにも声を掛けた。
「トープ君ももちろん行くよね?ノアちゃんの保護者として」
「……行きます」
トープがため息交じりに返事をした。きっと表だけでなく舞台裏もみられるから、一緒に行って損は無いものね。
サーカスのイメージとして、火に照らされているように橙色をベースに暖色系でまとめようか。それとも人魚を前面に出して青系でまとめようか。実物を見てみない事にはそれも決められない。
事務所での浅葱さんの説明では版画で何枚も刷られるらしい。だから私はその原画を描いてほしいという事だった。
「低価格で済ませたいという事だから、色は抑え目にして五、六色ってところかな。多分出演者の名前や開催期間、開演の時間帯を入れる為の余白も取ると思う。文字は別刷りで他の開催地でも使えるようにして欲しいって言われたよ」
「版画って、木版画ですか。それとも銅版画ですか」
木版画ですぐ思い浮かぶのは浮世絵だ。銅版画はどちらかというと細かい線で描かれた外国の書物の挿絵と言うイメージがある。
「特に指定は無いけれど、前のチラシは木版画だったらしいから今回も多分同じだと思う。あ、これがその古いチラシだよ」
見せてもらった物は随分と古臭い絵だった。なんていうか、ファンシーともリアルだとも言い難く、ショーの目玉になるはずの人魚は不細工で線もガタガタ。外国の古い絵本の微妙に気持ち悪い絵に、どこか似ている。色も何色か使ってはいるがまとまりが無い。
原画が悪いのか、それとも木版画の技術レベルが低いのか。後者だとどれだけ良い絵を描いても無駄になってしまう。もしかしてサーカスではこれが受けるのかな。
私の微妙な表情を読み取ったのか、浅葱さんが木版画の作品集を見せてくれた。浮世絵よりは西洋画に近い感じだったけれど、綺麗な線で色も鮮やか、まるで普通の絵画と見紛うようなものだった。
「ここまでたくさんの色は載せられないけれど、線の参考にはなるかな。木版画なら彫るのは兄さんにやらせるからあまり気にしなくてもいいよ」
「えっ、印刷は外へ委託する物だとばかり思ってました。紫苑さんはそんな仕事もするんですか」
アトリエに依頼されたのは原画のみで、版画専門の業者がいるのだと思っていた。浅葱さんは首を振って否定する。
「予算が低めだと言ったでしょう?人手も技術も紙やインクもうちで揃えられるから余計な経費は掛からないからね。お店のチラシなら商業の上での付き合いもあるからアトリエ・ヴェルメリオに頼むのが普通なんだけど、サーカスはここに居る期間が短いって理由もあってうちが引き受けられたの」
長期間営業するお店なら、商業ギルドと結びつきの強いアトリエを選ぶ。増刷する時、或いは何かトラブルがあった時など繋がりを持っておけば融通が利くからだ。ただし仕事は分業なので経費がかさむ。
その点うちのアトリエは学術的に残る物を目指しているので経費は安い。あちこちで興業をやるから絵の良い宣伝になるかもしれないけれど、余程良い絵でなければ芸術とはみなされないからそれなりの物を描かなくてはならない。ちょっとだけプレッシャーだ。
さらに収入もそれほど見込めず不特定多数にばらまかれる上、法律が整っていないので著作権を保護されることも無い。アトリエ・ヴェルメリオは初期費用を釣り上げることで、予想される損害を補おうとするんだと浅葱さんは言った。
そのほかにも私では思いつかないようないろいろな事情が絡んで来るらしい。
例えば原画と版木の扱い。うちでは二つともアトリエで保管されるけれど、分業制でやるとどこか一か所ががつぶれたら行方不明になる可能性もある。今回依頼を受けたサーカスは百年以上続いていて、再版を頼もうとしても出来ない事があったそうだ。その度に一から依頼をしていたのではお金だってかかる。
もし私が個人でやっていて何も知らずにほいほい依頼を受けていたら。原画だけ渡してお金をもらうだけで終わらなかったら。刷りやすいように手が加えられた上に別物となり、権利を主張されたら。
いろいろな人や団体に搾取されていたかもしれないと思うとぞっとする。
ちなみにオークションのカタログに載っていた絵は精霊石による特殊な技術で印刷とは違うらしい。道理で現代の写真と変わらない鮮明さだったわけだ。高価な精霊石を使う上に複製防止の魔法陣が入ったりするので、莫大な費用が掛かり富裕層向けにしか使えない。
「期間はサーカスがいる間の二か月間なんだけど、印刷もあるからどれだけ遅くとも一か月以内には描き上げてね」
絵を描いていただけでは到底知ることも無い利害関係の知識が少しだけ増えた。でも、結局私に出来るのは良いものを描き上げる事だけだ。いろいろと制約がある中でどれだけの物が描けるのか―――
不安を振り払うように私は「はいっ!」と元気な返事をした。
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