試験前
孤児院のあるバスキ村から市場と三つのアトリエがある街、ディカーテへ作物を売りに行くタイミングでフリントさんと一緒に馬車で向かう。成長して一人で歩き回ることを許されているけれど、私の行く先は画材店一択だ。
アトリエに入るには、どうすれば良いのか。すっかり馴染みとなったアトリエ・ベレンスの画材屋の店員さん―――名前は浅葱(あさぎ)さんと言う―――に聞いてみた。髪の色は黒に近い茶色なんだけど、瞳の色が浅葱色のお姉さん。
「んーと、ノアちゃんはまだ未成年だよね。えー、こほん。申し込みをして説明を聞いた後に、ここで試験を受けてもらうことになります。ベレンスさんが出した課題で合否が決まって、大体は制限時間内に一枚絵を描くって言う物なんだけど、ちょっと待ってね」
浅葱さんは慌ただしく店の奥へ引っ込み、誰かとやり取りする声がした後に書類を一式持って来た。
「この書類に必要な事を記入して、次は保護者の方と一緒に来て下さい。その時に説明と試験を行います。試験は三時間ほどで、道具はこちらで用意します。合格したら誕生日を待たずにアトリエに入るって事でいいのかな?」
「はい、有難うございます」
何だか本当に受験みたいな気がする。願書に保護者同伴の説明会に……もっと気楽なものかと思っていたのに、受からなかったらどうしよう。ネットが無いから情報収集もろくに出来ないし、絵描きになる道以外のことも考えてなかったよ。第二志望も決めなきゃダメなのかな。
不安が顔に出ていたのか浅葱さんが笑う。
「大丈夫だよ。うちはアトリエ・ヴィオレッタみたいに多額の寄付金が必要と言うわけでは無いし、アトリエ・ヴェルメリオみたいに売上第一主義じゃないから競争が物凄く激しいって事もない。必要なのは向上心だけってね。ただ画家にチョーっと変な人多いけど」
「え、変な人?」
「先生は茶目っ気があって面白い人なんだけど一人は朴念仁で一人はナルシスト。もう一人は放浪しまくって私もあんまり見たことない。事務方や画材工房の人は割とまともなんだけどね」
かなり不安になってきた。基本的に絵は一人で描くものだと思っているけれど、アトリエの中でぎすぎすするのは嫌だなぁ。かと言ってフレンドリーすぎてプライベートに踏み込まれ詮索されるのも物凄い嫌だ。私にはあまり大っぴらにしたくない過去がある。
封筒にまとめてもらった書類は大切に孤児院へ持ち帰り、マザーへ渡した。
「しっかりした組織ですね。うちの子たちが入るのはほとんど口約束で済ませることが多いのですけれど」
マザーは目を通しながら、必要事項を記入している。
「労働の契約書を交わしたりとかしないんですか?」
「働く場所によっては有りますが、それもごく簡単なものです。最初は教わることばかりで戦力になりませんし、成人してから契約を結ぶ場合には私がかかわる事はありませんからね」
十六歳で一人前の大人。前世で成人できなかった私があと一年もしないうちに社会的に一人前扱いされる。まあ、両方合わせれば三十はとっくに超えているわけだけれど、それはそれ。誇らしさよりも恐怖の方が多く、じりじりと追い詰められていくような気さえする。知らない事はまだまだたくさんあってこれからもっと成長していくつもりなのに、もうすぐ大人として扱われる実感が湧かない。
今現在、私の戸籍はここの孤児院になっており、保護者はマザーだ。アトリエに入れば籍も移動し、誕生日を過ぎれば親権を持つ者がいなくなる。気持ちの上ではマザーがお母さんだけど、血縁者の名前が残る他の子とは違って、本当に一人になるのだ。
誰にも言えないけれど、私がアトリエに入りたい理由はそこにもあるのかもしれない。集団に所属して家族ごっこがしたい、不安を取り除きたい、そんな甘えがあるのかもしれない。
そんな事を考えているうちに、書き終ったマザーが書類をトントンと整える。七年も経てばマザーも年をとり、最近では髪の毛に白いものが混じるようになってきた。
「闇の日生まれでどうなることかと思いましたけれど、よく無事に育ちましたね」
「マザー……」
巣立ちの時を予感させるような言葉に思わず涙が滲む。同じ闇の日生まれの子供を一度亡くしているので、突然命が失われる恐怖にもひょっとしたら怯えていたのかもしれない。
マザーの為にも私は生き続けなくてはと、心に強い意志が湧いた……のに。
「私の手を離れるまであと一息です。ノアがもう少しうまく立ち回れるようにならないと、正直かなり不安です。相変わらず鈍くさいし不器用だし、絵を描く以外の事は褒められるものではないし」
感動がぽきっとへし折れる音がした。あははと、自虐的な乾いた笑いが漏れる。
「ですよね。私なんかまだまだ……」
「ノアの小さなころからの夢だったから反対することはしませんでした。夢を持つことで前向きになり、死を遠ざける可能性も否定はできませんでしたから。けれど絵描きと言う仕事は他のどの職業よりも不安定なお仕事です。だまされたりしないかも心配で心配で」
十六までに出て行けと、私が孤児院に来た早々言っていたマザー。そのマザーが目の前で涙ぐみながら私を心配している。七年と言う歳月は長いようであっという間だったけれど、まるでゆりかごの中にいるように大切に育てられてきた。甘やかすばかりでなく間違えればきちんと叱ってくれた。正直、ここまで心配してくれるとは思わなかったけれど。
私はマザーを安心させるためににっこりと笑う。
「そのためにもアトリエに入るんですよ。一人で絵描きになるのがどれだけ無謀な事かくらい、私にだってわかります」
放浪しながらの絵描きになるか雇われ絵描きになるか。前世は後者一択だけど、現世ではどちらを選ぶのにも抵抗は無いと思っていた。甘えの部分はそう一度に消し去ることは出来ないようだ。
けれど貴族のお抱えの画家になるのではなく、自分で絵を描いて出展したり依頼を受けて描いたりできるアトリエを選ぼう。そうやってすこしずつ成長し、世界を広げていけば放浪しながら描くことだって選択できるようになるはずだ。
「住むところもあるし、市場でフリントさんにだって会えるし。あ、そうだ。いつか有名になったら私の絵を孤児院へ寄付しますよ」
「ええ、楽しみにしてます。孤児でも夢が持てるように是非とも成功してくださいね」
自分で言っておいてなんだけどちょっとプレッシャーを感じる。でも、頑張れば夢は叶うんだよってチビちゃん達のお手本に成れればいな。
「そう言えば、トープの進路ってもう決まっているんですか?聞いても全然教えてくれなくて」
「えーっとそれについては……トープから口止めされているので教えられません」
マザーが言い淀むなんて珍しい。そこまでして私に知られたくないなんてどんな仕事に就くんだろう。今までのトープの行動を思い返してみても、想像もつかない。
「まさか犯罪まがいのとんでもない職業についてしまったとか」
「いいえ、ちゃんとしたお仕事です。ノアが一発合格すれば同じ時期にここを出ることになります」
「それは……チビちゃん達寂しがりますね……」
上の二人が一度に抜けてしまうのだ。みんな慣れて成長してきたとはいえ、きっと不安になるだろう。今思えば、トープは一人取り残されてしまったから意地悪をしてきたのかもしれない。感情をぶつける先が偶々私だったのだ。
時々様子を見に来ようと思っていると、マザーは呆れた声で言った。
「トープはトープで歩きだしてますよ。ノア、人のことを心配する前に自分はどうですか?合格する自信はありますか?」
そう言われると途端に不安になってくるのが人の性ってもの。おそらくデッサンであることは予想がついているし、三時間って限定されているから美大の試験みたいなものかなと思っている。学力の試験が無い分楽勝だと予想してたけれど、どうなんだろ。まさかあなたの思う希望や未来を絵にしなさいとか抽象的な課題ではないよね。
「うう……ちょっとデッサンの練習してきます」
それから次の市場の日まで、私は籠って静物画を描きまくった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます