二章

十六歳になったら

 右手に筆、左手にはパレット。イーゼルに立てかけた絵にはほぼ描き終えたバスキ村の風景。もちろん昔描いていたような白黒ではない。

 色が付いていて、目の前に広がる黄金色の麦畑も、日が沈みかけの金色に輝く空も全部閉じ込めてある。頬を風が撫でるように、見た人が空気の流れまで感じられたらこれ以上嬉しいことはない。


 私、ノアールは冬が来れば十六歳になる。あまり高い画材には手を出せないけれど、絵の具も少しずつ揃えられ、こうして絵を描けている。生活の事を考えずに描けるのは今のうちかもしれないので、前々からお金を少しずつ貯めているのだ。

 ……キャンバスの使い回しは何度目か分からないくらい。描き終った上から別の絵を描くなんて、ざらにある。


「ノアー、そろそろ帰るぞー」


 ある程度成長するまで私とほぼ同身長だったトープは、今では頭一つ分大きくなっている。声もすっかり変わってしまい、低くなったよく通る声でわざわざ遠くから私を呼ぶ。

 どうせ近くまで来てイーゼルを持ってくれるのだから、傍で呼べばいいのに。


 画材を取っ手付きの木箱に詰めてキャンバスを持つと、トープは慣れた手つきでイーゼルを畳んだ。


「今日は魚を釣ったからな。外で焚火して焼くんだ」

「厨房で魚焼くの、マザーは嫌がるもんね。フリントさんは?」

「先にチビ達連れて帰ってる。どうだ、売れそうな絵は描けたか?」


 教科書代わりに使うような書物でしか絵を見たことのないトープにとって、大事なのはどれだけ上手く描けたかよりもどれだけの価格で売れるか、らしい。

 絵本のイラストも絵には違いないのに、一カット数百ルーチェと一枚数万からする絵は別物の感覚のようだ。

 どちらにしろ私たちのような生い立ちでは、道楽ではやって行けないと知っているから仕方ないのかもしれない。


「んー、ぼちぼちかな」


 私は曖昧に答える。今のところ値切られることはあっても、自分でつけた値段以上にお金を出してくれるお客さんはまだいない。色が付くようになってからは値段を多少上げたけれど、適正な価格を付けられているか自信が無い。買い手はいるから作品の質はそんなに悪いものでもないんだろうと思う。


 恐ろしい体験をした事などなかったかのように、平和な毎日が過ぎていく。

 変わったことと言えば、孤児院に子供が少しだけ増えていることだ。

 私達の住むヴァレルノ国の西側にあるイーリックと言う国と、その北側のギルテリッジと言う国が争いを始めたせいでこの国にも人が流れてきている。

 フリントさん達が若かった頃の戦争と違って規模も小さく、ヴァレルノを含む周辺諸国はまだ介入していないのがせめてもの救いだ。


 狭い地域に孤児が集中しないよう、また戦火が拡大して子供が逃げ遅れないように神殿が割り振っているみたい。国家とは別のしっかりした団体があるとこういう時に役に立つんだと感心した。宗教団体にあまり良いイメージは持てないけれど、先入観は取り払った方が良いかもしれない。絵描きになればきっとどこかで関わってくるはずだから。


 それよりもそろそろ、成人した後の事を考えて動き始めなければならない。夕焼けの中、トープの後ろ姿を追いかけながら今後の事を考える。私よりも早く出なければならないトープはどうするんだろう。何だか受験前の友人とのやり取りを少しだけ思い出した。


「ノア姉、お帰りー」

「お帰り、ノア。フリントが魚焼いてるからお皿持って行って」

「はーい」


 厨房に顔を出すと私より二つ下の女の子、茜が既にマザーを手伝っている。私なんかよりもずっと器用に料理が出来て、将来は料理人になりたいそうだ。孤児院に来た子供はあと三人ほどいて、この子たちには悪いけれどこれで心置きなく出て行けると思ってしまう。

 神殿主体で経営されている孤児院の院長は、余程の事が無い限り配置換えは無い。ただし、子供がいないのに孤児院を存続させるのは無意味なので閉鎖されてしまう可能性がある。そうなればマザーたちはどこに行くか分からなくなってしまう。


 成人してから戻ってくることは無いかもしれないけれど、心の拠り所が在るのと無いのでは違う。前を向いて歩くには後ろが安定していないとね。


 食卓に並べられた食事は決して豪華なものではないけれど、私が来た時からあまり変わらずにいる。国が安定しているようで何より。真っ先に影響が出るのはきっと私達のような孤児だ。

 この子たちはそれを一度経験している。ここに来た時は骨と皮ばかりで警戒心をむき出しにした目をしていた。前世でも現世でも安穏とした生活を送ってきた私にはあまりにも衝撃が強すぎて、スケッチブックに彼女たちを描くことで目を背けようとする自分と戦った。綺麗なものしか描かない絵描きになりたくない。


 世話を焼くのはあまり得意ではないので、面倒を見なければならない時は黙々と絵を描くことにした。すると、そっぽを向いていると寄って来る猫のようにチビちゃん達は興味津々で覗きこんできた。子供が好きそうなもの、気分が明るくなるような物を描いていると次第にあれ描いて、これ描いてとおねだりするようになった。今ではついでに文字を教えることもしている。


 今日は一番下のチビちゃんがたどたどしくも祈りの言葉を唱え、食事が始まった。四人で食べていた時よりも自然と賑やかな食卓になる。


「今日は私がサラダを盛り付けたのよ」

「げっ嫌いな野菜が入ってる。俺あんまり腹減ってないからこれやるよ」

「苦いの、やー」

「食べないと大きくならないよ。あーあ、口のまわりいっぱいつけて。じっとしてて」

「むぐー」


 今ではすっかり改善できているが、最初は他の子の食べ物を取る子もいた。トープがしたようないじわるとは違う、生存本能によるものだと思ったから叱らずに食べ物を分けて上げた。


 ここには食べ物を取る人はいないよ、だからあなたも他の子の食べ物を取らないで落ち着いて食べようね。根気よく諭し続けて安心させる、その時のトープの顔は見ものだった。


「そう言えばトープは成人したらどうするの?」

「あ? んーと実はもう決まってる」


 ちょっと目を泳がせながらトープは答えた。


「え、どんなところ?やっぱり何か職人にでもなるの」

「内緒だ。それよりノアだってそろそろ準備始めないとやばいだろ」


 トープはにやりと笑った。何だか本当に受験前の会話みたいで落ち着かない。人の心配している場合じゃないって分かっている。焦りと不安は無限に湧き出てくるものだ。


「今度アトリエのお店で聞いてみる。マザー、もし保護者の許諾が必要な場合はお願いします」

「ノア姉たち、どっか行っちゃうの?お母さんみたいに」


 話を聞いていたチビちゃんが寂しげに呟いた最後の一言が突き刺さる。私の場合、前世の記憶を持っていたから大丈夫だったけれど、やはりお母さんが恋しいらしい。

 ちなみに彼らの親はもうこの世にはいない。

 病気か、それとも戦争に巻き込まれたのか。詳しいことは知らされていないけれど、どちらにせよ空気は重たくなるばかりだ。私は努めて明るく振る舞った。


「もうすぐ十六歳になるからね。皆も十六歳になったらここを出なくちゃならないんだよ。だからそれまでいっぱい勉強して」

「やだぁぁあぁ、ノア姉行っちゃやだぁぁぁぁぁーうわぁぁぁぁんん」


 理詰めで分からせようとしても一番下の子にはまだ早過ぎたみたい。食事の途中だと言うのに大きな口を開けて、火が付いたように泣き始める。そうすると他の子も感情が伝染して泣き始め、大合唱になってしまった。

 あたふたしながらも懐かれていることが少しだけ嬉しく、思わず口元が綻んだのをマザーは見逃さなかった。


「ノア……笑っている場合ですか」


 呆れた声を出して子供をあやすマザーの視線が痛い。ここは嘘でも「大丈夫だよ」って言っておくべきだったか。チビちゃんずの頭を撫でながら諭す。


「絶対に会えなくなるわけじゃないよ。みんなが大きくなったらディカーテで会えるかもしれないし」

「そうそう。毎日皆に会えなくなるのは俺らも寂しいんだからな?」


 トープが援護をしてくれた。ぐずぐずしながらも落ち着いてきたチビちゃんずは、涙を浮かべた目で「本当?」と聞いてくる。


「ああ、本当だ。だから嫌だ~って泣かないで応援してほしいんだ」

「うん、……分かった」


 トープは子供のあやし方がうまくなっている。フリントさんよりも良いお父さんになりそうだ。

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