ネリ視点
無事に帰ってきたノアを迎えながら、貴族であるカーマインの前で失態を犯さぬよう、ネリは口を一文字に結ぶ。孤児院で見送ってから事が起こるのが些か早い気もしたが、幼い命が失われずに済んで良かったと安堵した。
ラセットがバスキ村に姿を現した翌日、ネリはディカーテの小神殿にいるレドの元を訪れた。ノアが孤児院に初めて来たときに来ていた服を、もう一度細かいところまで見せる為だ。
「これは……」
レドはネリが神官だった頃から世話になっていて、何かと相談に訪れていた。魔法への造詣も深く、服に書かれた魔法陣を見ながら温和な顔を徐々に曇らせていく。その表情だけで自分の読み方が間違っていなかったのだと、確信した。
ノアにははっきりと伝えなかったが、服に縫い込まれている物は難易度の高い魔法陣を扱う時に補助をするための物だ。それだけ術者に負荷のかかる魔法を使わせるつもりで、とても七歳の子供に着させるような服ではない。
上質な布地やレースを使いながらも、その裏地には魔法陣を縫い込んだ刺繍には魔力を込められる糸―――それもかなり特殊なものが使われている。
位の低い一貴族に用意できる代物でもなく、神官や上位の貴族を巻き込んだ複雑な関係がネリには透けて見えた。
「ノアールの父親と名乗る貴族は、おそらく領都アンツィアでノアに魔法陣を描かせるでしょう。このような服を着せた上に、闇の日生まれであることを鑑みても、おそらくは―――」
アスコーネ領、ひいてはヴァレルノ国に利益をもたらす魔法陣ではないと断言できる。レドもそれは感じ取ったようで、顔を青ざめさせながら「急いで領主に連絡をしなければ」と珍しく慌てふためいた。
小神殿に備えられている通信手段で領主一族の住む城と連絡を取る。声のみのやり取りで通信士にノアールに関する事だと伝えると直ぐにカーマインが出た。
こちらの状況を話すと、迎えが来たことを話すと状況を把握しているどころか、父親であるエボニーにノアールの情報を漏らしたのはカーマインの指示によるものだと言われる。
エボニーは子供の失踪などに関与している疑いがあり、その捜査の為にノアールを使うのだと。
あのラセットと言う者も、カーマインの息のかかった者らしい。表向きの雇い主はエボニーと親しくしている貴族だと言うから、どれだけ慎重に手の込んだ準備をしているのかが分かる。
服についても調査の上で証拠品となるので、役に立つと礼を言われた。
会話をしながら、カーマインのしっかりとした、それでいてこちらを安心させる言説に驚く。今まで成人して巣立って行った孤児院の子供とほぼ同年代なのに……貴族と平民ではこうも違うのか。
「では、ノアールの無事は保障されるのですね」
「ええ。彼女が魔法の施行を強制されるようであれば、直ちに屋敷へ押し入る手はずになっていますので安心してください。ノアールはどんな様子ですか」
「戸惑っているようです。あまり、喜んでいるようには見えません」
もしもノアが引き取られるのを楽しみにしているのであれば、彼のしていることはとても許された事ではない。親を捕らえる為にノアを囮にしているようなものだ。
「不安そうですか。でも、本人には伝えないでください」
「はい、存じております」
「知らせてくれてありがとう。服はレドに預けておいてください。これでエボニーのみならず領主、王家に敵対する者を排除できる」
通信を切られそうになり、慌てて言葉を紡ぐ。一番大事な事だ。
「ノアは、ノアールは今後どうなりますか?」
「本人の希望に寄りますが、貴族の養女になる道も考えてます。無碍にはしません」
……とカーマインに言われたのに、ノアは何を考えてここへ戻ってきたのやらと、ネリは嘆息をついた。
貴族の養女となれば、将来は道が狭められても今より絵を描くのに不自由はしないはずだ。ディカーテに行けば絵を描く令嬢だってたくさんいる。ノアの行動を見れば、仲間入りするのにそれほど苦労はせずに行儀作法を身に着けられると予想できるのに。
院長室で仕事をしていると、ノアが鉛筆を削りに来た。削り終わった後も部屋に残って何かをせっせと描いている。
自分を中心に様々な思惑が渦巻いていたことを、ノアは知らない。楽しそうに絵を描く姿は平和そのもので、自分が大規模な改革の一端を担っていたことなど、おそらく知らずに一生を過ごすのだろう。
その一生が、どれだけの長さなのかネリには分からない。自分の子も覚悟する間もなく逝ってしまったから、もしかしたら別れは明日突然やって来るかもしれない。
ネリの不安を他所に、ノアは呑気に絵を描いている。それは何よりも幸せな光景だ。
「ノア、何を描いているのですか?」
「マザーを描いてます」
「私を?」
チラチラと向けられる視線に耐えきれなくなって、思わず聞いてしまったネリ。モデル本人に許可を取らず盗み見るのは良くないと、注意するために口を開こうとした途端に「出来た!」の声。
ネリに見せた絵は、随分と優しそうな顔立ちに描かれている。もっと冷たい怒ったような顔を想像していたネリは、ノアにはこんな風に見えていたのかと驚いた。
「我ながらうまく描けたと思いますけれど、どうですか?」
「私は、こんなに優しく笑えていますか?」
目を細めて口角をほんのりと上げ、まるで母親が我が子を慈しむかのような微笑。只の七歳児なら笑顔と言えば口を半月状に開けて描くのが普通なのに、ノアの絵は絵を嗜んだ大人が描くものに近い。
「はい!マザーは可愛いです」
「か、可愛い?大人をからかうものではありません。あ、こら、待ちなさい」
きちんと叱ろうとしたのに、ノアは笑いながら院長室を出て行ってしまった。
廊下から賑やかな声が聞こえてくる。
「あ、フリントさーん。マザーの絵を描いてみたんですけど、どうですかー?」
「おお、上手に描けたな。…………美人に描けてるな…………いくらだ?」
「え、買ってくれるんですか。やったー」
「市場で売らせるわけにも行かないからな」
「ノアばっかりずりぃ!フリント、俺もマザー描くから買え」
叱られたい人がどうやら三人に増えたようだと、ネリはこめかみに手を当てた。
一波乱あったのが嘘のように穏やかな日常が続く。
ノアはこちらの心配をよそに、成人を間近に控えるまで健やかに育った。
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