危機

 エボニーは私の頭から手を放した後、部屋の隅に置いてあったペンキみたいな塗料の入ったバケツと刷毛を渡してきた。マザーが使っていたチョークのような物でないのは床に書かれている魔法陣を見て分かっていたが、意外にアナログな魔法陣の描き方だ。


 規模の大きな魔法なら杖の先に光を灯して床に描くとか、もう少し夢が見たかった。


 塗料は真っ赤で、この薄暗い部屋の中では思わず血を連想してしまう。錆びた鉄だとか、生臭い匂いはしないから多分違う物だろう。うん。


「空白の部分に終わりを示す一文字を入れれば完成だ。この魔法が成功すれば兵器としてお前を王宮へ売り込み、没落した我が家を復興させるのも夢ではないだろう」


 エボニーは語りに入っているけれど、神様の力を宿すなんてそんな御大層なものが魔法陣を使っただけで出来るものなのだろうか。そんな魔法陣の情報を手に入れた時点で危険視されて取り潰しになる可能性もある。力を制御できずに暴発する可能性も考えなかったのだろうか。

 それに自分の子供を兵器呼ばわりするなんて、やっぱり精神的にどこかがおかしい。


「私の父も祖父も、お前の母もそれを望んでいた。お前の母は魔力のほとんどない私を蔑んでいたがこれで漸く見返してやることが出来る」


 あまり深く考えてなかったみたいだ。余程いびられていたんだなぁ。母方の親族の援助を受けていないのもそのせいかもしれない。


 ……あれ?私は貴族の隠し子だからおおっぴらに捜索出きないって、ラセットが言ってたような気が……


 旅をしていたと言うのも嘘みたいだし、どこまで本当の事を言っていたのか分からないけれど、私の母親が貴族なら正妻だよね。

 あ、でも闇の日生まれだからって隠されていたのだろうか。だとしたら隠し子と言うのもおかしくは無い。


「さあ、私の大切なノアール。闇の神の力をその身に宿しなさい」


 どちらにしても、自分の欲の為に子供を犠牲にしようとするなんて許せない。


 魔法陣を発動させなければこの部屋から出られなくて、出たとしてもこの屋敷の人たちは皆エボニーの味方だ。これから先もずっと納得のいかないような魔法を強制されるに違いない。


 ささやかな抵抗として魔法陣を足で消そうとするが、消えない。


「無駄だ。魔法用の特殊インクを使っているからな」


 流石お貴族様だ。きっとお高いんだろうなぁ。私が絵を描くのに少し拝借出来ないだろうかなんて考えてしまう。


「屋敷の人たちはどうするんですか」

「魔法の影響が出ないアイテムを渡してある。私だってこれを持っていなければ巻き添えを食らうからな」


 そう言って私に首から下げている七芒星の描かれた護符を見せた。


「心配する素振りで時間稼ぎか。魔法に影響が出てしまうかもしれないが、腕を掴まれて無理やり書かせるのとどちらが良い?」

「そうは言っても、村で使った魔法陣ではまた失敗する可能性があると思います。少し待ってください。どこが悪いのか確認しますから」


 私がそう言いながら魔法陣を見ていると、エボニーは鼻で嗤った。


「記憶を失くしたのではなかったのか?そもそもお前にわかるわけがないだろう。勝手に使えないよう今まで教えて来なかったんだから」


 エボニーは馬鹿にするように私を見る。こんなに器の小さい男の人、初めて見た。ノアールに慕われる自信が無くて、裏切る要素も力づくで潰してきたに違いない。呆れて物も言えない。奥さんに蔑まれるわけだ。


 私は胸を張って言う。ちょっとドヤ顔になってしまっているかもしれない。


「魔法は孤児院で学びました」

「そんなことが出来るわけないだろう。魔力も無い私がどれだけ苦労して魔法学院で学んだと思ってる。あんな辺境の、しかも孤児院だぞ」

「マザーは元神官だったらしいですけれど、やっぱりいろいろと規格外だったんですね。あ、ここ、間違ってる。そこも」


 見つけては近くまで行って文字を指さすの繰り返し。この魔法陣自体を知らなくとも、隣り合った文字の配列がおかしい事くらい分かる。


 全てを完璧に学んだわけでもない私が指摘できるのだから、もしかしたら頭はそれほどよくないのかもしれない。


 闇の神の力を宿すと言っていたのに只の大量殺戮魔法陣になってしまっている。しかも術者まで死んでしまう自滅魔法陣だ。

 どちらにせよ余程魔力が高くなければ発動も出来ない。


 怖がって損した。これなら魔法陣を描き換えるのも容易いかもしれない。


 エボニーの狙い通りの効果を発現させず、安全で犠牲の出ない魔法を使うにはどうすれば良いか。見張られている前でどこを書き換えればいいのか考えた。


 闇、死、犠牲、等、鬱になりそうな言葉ばかり並べられている。途中で阻止されてもう一度最初からやり直しをさせられるかもしれないので、できれば少ない描き換えで済ませたい。


 狙う効果は外への救助信号か、エボニーの無力化だ。領都ともなれば騎士団なり警備兵なりが常駐していて、こんなお屋敷で派手な魔法が放たれれば絶対に誰か来るはずだ。


 隙を見て逃げ出すなんて鈍臭い私にできそうにもないし、描き換えるのが一番いいかな。


「特殊インクと言ってましたけれど描き換える手段は勿論ありますよね。描き換えても良いですか?」

「う……ぐ……」


 何やら葛藤があるらしい。エボニーが呻いている間に私は魔法陣を発動させた後の事を考えた。逃げ込める交番のような物があればいいけれど、来たばかりの街で存在するかどうかわからない物を探して歩くのは大変だ。屋敷の中の人たちも信用できないし、隣家に逃げ込んで保護を頼むのが一番かな。


 私が考えを巡らせているとぎりっと音がした。何だろう、歯ぎしりみたいな音。


「私への当てつけか。知識は十分に身に付けたのに魔力が無いせいで成績が悪かった私への当てつけかっ」


 やばい、何やら激昂し始めた。唾を飛ばして怒鳴っている。


「そんなこと知りませんし、大体実技以外に知識も足りてないじゃないですか」

「いいから黙って描けっ。言われた通りにしろっ」


 またしても、ぱしっと頬をはたかれた。その拍子に持っていたバケツを落とし、魔法陣の上に塗料をぶちまけてしまった。当然、描き途中だった魔法陣は無効化されてしまう。多少の修正は効くものの大まかな描き順はあるので、一からやり直しどころか消さなければ次の魔法陣は描けない。けれど簡単には消えない特殊なインク。


 エボニーは悲鳴を上げて呆然としている。描くのに時間が掛かる複雑なものだったからかなりのショックを受けているのだろう。やがて、唇を震わせて声を絞り出した。


「なん……てことを。大体お前、本物のノアールか?記憶喪失だと言って私を謀っているんだろう」

「何を言って―――」

「本物ならもっと私に忠実なはずだ」


 呆然としていた顔が、豹変する。それまで辛うじて紳士的だった表情が崩れ、怒りで歪んでいた。


「私を貶めようとする誰かの手先なんじゃないか?だとしたら、この場で殺されても仕方ないなぁ」


 無効化は出来たけれど、外への伝達手段も失われてしまった。助かる方法はここから逃げ出すより他にない。

 魔法陣の間違いを指摘する間に、立ち位置は逆転して私と戸口の間にエボニーが立っている。じりじりと詰め寄られ、私は思わず後ずさった。


 明らかな殺意。何か武器になるようなものはと探したところで、手に残されたものに気付いた。

 自分が鈍くさいのは知っている。だけど、何も抵抗しないまま殺されるなんて嫌だ。


 一か八か。


 私は持っていた刷毛をエボニーの顔めがけて投げつけた隙に、横をすり抜けようとした。瞬間。

 後頭部に痛みが走ったと思ったら、背中に堅いものがぶつかった。「かはっ」と肺の中の息が吐き出され、視界が揺らいでいる。


 まばたきをして状況把握をしようとする。どうやら髪を掴まれて床に投げられたようだ。


「私の子供は、お前で何人目だったか……闇の日生まれは早死にが多くて残念だ」


 怖い、怖い怖い。刃物こそ持っていないけれど大人の力じゃ私の首なんてきっと簡単にへし折れるに違いない。


 マザーたちから手紙が来ても死んでしまったの一言で済んでしまうんだ。闇の日生まれだから仕方がないって。また誰にも知られずに死んでしまうのか。あの時みたいに。異次元に引きずり込まれたみたいに。


 いや、諦めるもんか。せっかくファンタジーな世界に転生できたんだもの。まだまだ絵を描きたりない。もっとたくさん描くまで死ねない。


 痛みを感じながらもなんとか立ち上がり、助かる為の方法を必死で探す。

 刷毛は投げてしまった。床に広がるインクを使って指で魔法陣を描こうにも、エボニーは既に目の前だ。


 結局睨みつけるしかできない私の首元に、男性特有の筋張った大きな手が伸びてきたその時、地下室の扉が大きな音を立てて開いた。

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