手がかり

 キツネ目の男、ラセットに恐怖を感じたならば、もしかしたら失われた記憶に虐待などひどいものがあったかもしれないと、マザーやフリントさんに拒絶の意思を示せた。でも実際はそんなことなくただひたすら困惑していただけだ。きっとラセットには今まで会ったことが無かったのだろう。


 ラセットのいう事がすべて本当だったらノアールはもともとの生活で幸せだったかもしれない。探してくれるような親がいて、高級な服を着られて、年相応の成長が出来るように食事も世話されていた。私が孤児院に残ろうとするのはノアールにとっては不幸で、ただのわがままになってしまう。


 慣れて来たのに。いつかは離れて生活しなければならないことも見据えて生きて来たけれど、それはこんな形ではなかった。


「向こうの安全が保障されるまではここで預かります。ただ、状況からしてかなり胡散臭いのでマロウ神官に報告しました。あれからマロウ神官がおかしな行動を起こすことも無かったので、無関係と判断しましょう」

「ああ、こっちもカーマイン経由で領主に連絡を入れてもらった。ネリが仕掛けた追跡の魔法陣を追ってもらっている。だから、ノア―――」

「相手の身元がしっかりしていてそれなりの生活が保障されそうだったら、私、やっぱりここを出て行かなくてはなりませんか」


 いきなり放り出されることは無かったけれど、次の展開に備えて二人とも動いている。親自身か、或いは使いの者が来ることを予想し、引き渡すための準備。身元がはっきりしたら、その後は……


 まだここに居たいと言う甘えを感じ取ったのか、フリントさんは少しだけ語気を荒げた。


「ああ、そうだ。いくら記憶が無いからと言って、探してくれていた親がいるのにいつまでもここに置いておくわけにはいかない。託児所とは違うんだ。どうしてもと言うなら親に捨てられてからここに来い」


 フリントさんのいう事ももっともで、私は何も反論できなかった。自己責任で選んで生きられるほど私はまだ大人ではない。保護される立場にあるからこそ、一年間生きて来られた。


 家族じゃない、と言われた気がした。当たり前だよ、孤児院なんだから。寧ろきちんと調べて引渡そうとしているのだから感謝しなければ。こんなにお世話になっているのに文句なんか言えない。


「ごめんなさい、我がままを言いました。調べるのはお任せします。ちゃんと覚悟を決めたいので部屋に戻りますね」


 二人の前で泣きたくなくて、笑顔で自分の部屋に戻る。いつの間にかここが家であるような錯覚にとらわれていた。安心できて、落ち着けて、たとえ遠く離れても故郷と思える場所だと思っていた。


 私は何を期待していたんだろう。誰かが迎えに来ても嫌ならここに居ればいいと、マザーやフリントさんに言われると思っていた。娘のように思っているからと、ずっと見守っていてくれるものだと信じていた。


 情けないし、口惜しい。前世の記憶が有る分、自分はもう少し大人だと思っていたのに。一人で生きていけると初めは思っていたつもりが、頼りっきりの生活になっていた。


 布団に潜って一人でめそめそ泣いていると、ノックの音が響く。慌てて涙を拭いて扉を開くと、トープに驚いた顔をされてしまう。


「泣いてたのか。あ、もしかしてここを出てくのが嫌なのか?それともあいつが嫌な奴だったのか」

「えっと、多分違うと思うけど、よく分からない」


 抱えている感情が口にして説明するには複雑すぎてトープには適当に答えてしまった。トープは手に持っていたクッキーの袋を差し出す。「一緒に食べる?」と聞くと、トープは物凄く嬉しそうな顔をして頷いた。


 ベッドに仲良く並んで座ってクッキーを分け合う。まるで兄と妹みたいだ。孤児院に来たばかりの二人だったら絶対に有り得なかった。


「よかったな。本当にお姫様かもしれないんだったら、ここに居るよりそっちの方が良いに決まってる」

「まだわからないよ。もしかしたらかなりひどい人達かもしれない」

「それは、確かに行ってみないと分からないな」


 ぽりぽりぽり。クッキーは素朴な味がしてとてもおいしい。ほんの少し入れた塩が、練りこんだ野菜の甘みも引き立てている。トープが苦いと嫌っている野菜のクッキーも、気付かず普通に食べていた。


「今までだって里子になって途中でいなくなった奴もいる。寂しいけど、そう言う場合は皆でおめでとうって言ってやるんだ。孤児のまま成人するよりも少し楽になるからな」


 孤児を取り巻く環境を今はあまり気にしないでいられるけれど、職に就く時、結婚する時、親になる時、いろいろな場面で障害になるそうだ。


「俺は本当の父さんも母さんも分からないから、ノアが少し羨ましい」

「そっか。嫌だってごねるのは贅沢なのかな」

「んー。でも、もしどうしても我慢できない程嫌だったら逃げてきちゃえよ。ノアが我慢できないのは余程の事だからって、マザーもフリントも何とかしてくれるだろう」


 トープはかなり気楽に言うけれど、そんな簡単にはいかない。連れ戻されるのは分かっているし、戻って来たくなくなるようにフリントさんにもっとひどいことを言わせてしまうかもしれない。


「そんなに迷惑かけられないよ」

「子供のわがままを迷惑だって言うなら孤児院なんてやってないって」

「そうかな」

「そうだとも」


 トープは胸を張って言った。屁理屈みたいだけれど、何だかほんの少しだけ頼もしくなってるトープに少しだけ勇気をもらうことが出来る。


 一年弱で大きく変わったトープと自分の関係に、もし居心地が悪い場所でも、自分で少しずつ何とか変えられるように努力してみようと思った。


「有難う、トープ。向こうへ行って手紙を書けそうだったら書くよ」

「ああ、無理そうだったら気にしなくていいからな」


 部屋から出て行くトープを見送った後、ふと思いついて、孤児院へ来る時に着ていた服をタンスから取り出してみた。黒く光沢のある生地にレースと、今見ても高そうな服だ。暫く着ていなかったので虫食いが無いか確認する。生地をひっくり返そうとしたら裏地に同じ黒い糸で刺繍されているのが見えた。


 表ならまだしも、裏地に刺繍?と不思議に思いながらよくよく見ていると、刺繍のいくつかは見慣れた紋様を描いていることに気付いた。


 ―――これ、魔法陣だ。見る限りでは普段使うような加護や幸福を願うような物では無い。闇の神に纏わるものだから、敢えて学ぶのを後回しにしていたものだ。服を持って院長室にいるマザーの元を訪れた。


「マザー、これを見てもらっても良いですか。もしかしたら私の身元の手がかりになるかもしれません」


 服を広げてマザーに裏地を見せると、マザーも直ぐに気付いた。


「服自体は貴族向けなのに、神官服に縫い付けられるものに似てますね。闇の神に祈りをささげ―――魔法を使う際に魔力を増幅させるもの―――術者を保護する―――」


 指で辿りながらどのような種類の魔法陣であるか、読み解いていく。途中から口に出すのを止め、だんだん険しくなっていくマザーの顔。やがて指を服から離しため息を一つ、ほうっと吐いた。


「これだけ複雑な魔法陣を描くことが出来るならば、あのクッキーのラベルは途中で気付かれて剥がされてしまうかもしれませんね」

「えっと、それでは引き取り先の正体が分からないという事ですか」


 分からないまま引き取られていくのはかなり怖い。扱いがどうなろうともマザーやフリントさん達にはどうでも良い事なのかな。


「大丈夫、絶対に変な所にはノアを渡すつもりはありませんから安心してください。この服は預かっておきますね……ふふッ、何だか昔の血が騒ぎます」


 恍惚という言葉がぴったりくるような、嬉しそうな顔をするマザー。昔って、マザーは神官だったとは聞いているけれど。あれ、神官って神に仕える者でスパイの事を指す隠語とかでは無い……よね?


「ノアは優秀な魔法使いとしてきっと大切に扱われていた事でしょう。予想はある程度ついてますが、あまり情報を知っていると記憶喪失を盾に誤魔化すことが出きなくなるので、今は教えません。ノアはそう言うの、苦手でしょう?」

「………はい」


 駆け引きは苦手だ。表情から読み取られてしまうことも多い。トランプだってよく負ける。

 余計な事をしでかして邪魔になるのも嫌なので、引き取られ先の調査はマザーたちに任せることにした。

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