初めての友達

 スケッチブックと鉛筆を手に入れた私は、近くの森の中へと題材を探しに来た。孤児院の中で絵を描こうとするとトープが口うるさく邪魔して来るからだ。


「えっと、何を描こうかな」


 スケッチブックとは言え、ページ数に限りがある。次に紙が手に入るのがいつか全く分からないので題材はよく吟味しなくてはならない。きょろきょろしながらこれぞと言うものを探す。


 風景画、特に小麦畑は絵の具を手に入れて秋になってから描きたい。どこまでも高い空と金色に波打つ稲穂なんて多分最高の組み合わせだ。あ、日が傾いてから空が金色に染まってからもきっと綺麗だろうな。


 絵の具無しで描くなら真っ白い孤児院は最適かもしれないけれど、トープに見つかる可能性が高い。


 周りを農道に囲まれているこじんまりとした小さな森。森と言うより雑木林のような大きさで迷う事も無いだろう。花や草木、昆虫。スケッチブックのスペースを出来るだけ使わないようにして、目につくままに鉛筆を走らせていく。


 出来るだけ精密に。色を載せる予定のない絵だから白黒の写真に見えるように描いていく。誰かに見られても構わない。もしかしたら才能を認められて画材を提供してくれるかもしれないし。


 どっしりとしたいい感じの木を見つけて描こうと腰を下ろしたその時、茂みの中から何かが飛び出してきた。


「ギ、ギギッ?」


 見たこともない生き物だ。身長は私より小さくて、二足歩行。人型で目はぎょろりとしていてぼろい布を纏っている。オリーブのような色の肌をしている猿ともチンパンジーとも違うそれは、ファンタジー世界でおなじみのあの生き物。


 ―――ゴブリン。獰猛で小賢しい性格をしていると言われるそれは、私を見るなり驚いて逃げようとしていた。


「待って!逃げないで」


 せっかくの題材を逃がしてなるものかと声を掛けると、振り向いてこちらを窺っている。襲ってくる気配はないみたいだし、なんだか言葉が通じているみたいだ。機嫌を損ねないように恐る恐る話しかけてみる。


「絵のモデルになってくれないかな?」

「ギギゴ」


 通じたっ?今「いいよ」って言ったような気がする。金属音の混じったような不思議な声。彼の……彼女かもしれないけれど……の気が変わらないうちにスケッチブックを開いて鉛筆で描き始めた。


 こんな機会が早々巡り合えるなんて思わなかった。興奮してちょっと指先が震えているかもしれない。


 かなり特徴のある顔立ちだけど、目は二つ、口と鼻は一つずつに少し尖った耳と、人間の似顔絵を描く感じで仕上げていく。


 ……いや、滅多にない機会かもしれないから、精密な写実画として残したい。そう思ったけれど日は既に沈み始めている。


「明日また、ここで会えるかな?」

「ギギゴ」


 問いかけに答えるように返事をしてくれた。「ばいばい」と手を振った後、時々後ろを振り返りながら森を離れる。ゴブリンは襲い掛かることも無くその場に立ち尽くしたまま、私をじっと見ていた。その日の夜は次の日が楽しみでなかなか眠れなかった。


 次の日、同じ場所に言ったらちょっぴり挙動不審気味なゴブリンがいた。そわそわ、うろうろ、もじもじ。私が来るのを見つけるとぎょろりとした目を細めてニイッと笑った。……デートかよって思わず突っ込みたくなるところを自重する。トープなんかより余程大人しくて可愛い。


 昨日と同じ木の根もとに座って、ゴブリンを描き始める。昨日の線の上から写実画の技法で重ねていくが、消しゴムが無いのでちょっと難しい。黙って描いているのも何だかもったいないし、ゴブリンが飽きてしまうと困るので話しかけてみた。


「名前はなんて言うのかな?」

「ガガエ?」

「ガガエって言うの。私はノアール。ノアって呼んで」


 ガギグゲ語はちょっと聞き取りにくいけれど、何とか意思の疎通はできてるみたい。私が何をしているのか分かるみたいで、じっとしていてくれる。


「ガガエは家族っているのかな?」

「ギガギ」

「そっか、私と同じだね。マザー……ネリさんもフリントさんも良くしてくれるけど、お父さんとお母さんって感じじゃないもの」


 ここへ来てから季節が二つ分過ぎたけれど、考えが読まれることはあるものの、私の事をよく分かってるとは思えない。


 ガガエが大人しく聞いているのを良い事にここぞとばかりに不満を漏らす。


「孤児院で育ったものはみんな兄弟なんて言うけど、トープが兄弟なんて絶対思えない。フリントさんに叱られたのに相変わらず人のご飯は取るし、直ぐに殴るし、マザーは注意しないし。絵描きになる目処が立ったらとっとと出てやるんだから」


 口より先に手が出るのが習慣になっているらしく、後でしまったと言う顔をして謝ってくる。先に謝られてしまうと文句も言えないのでむしろストレスは以前よりも溜まってしまう。


 はけ口はどこにもない。こうして絵を描くのが一番だ。


「ガンガエ」

「有難う。うん、頑張るよ」


 まるっきり無関係のガガエに愚痴を言う事で少しだけ気が楽になった。前世で愚痴を耳にする時は悪口みたいですごく嫌だったけれど、こういう効果もあるのか。


 真剣に描き始めるとどうしても無言になってしまう。時々眠くなって目を細めては必死に起きようとするガガエもとっても可愛い。


「ゴガ」


 暫くそうして一緒に過ごした後、ガガエは上を指さした。木々の間から見える空は夕やけから夜空へと移り始めている。


「ああ、本当だ。もう暗くなってる。今日はここまで描けたよ」


 描きかけの絵を見せると、感心したように「ゴォォウ」と言った。写実画はちょっと時間が掛かる。仕上げきれなくてまた明日会おうと約束した。


「ばいばい」と手を振ればゴブリンも「ガイガイ」と言って手を振った。すごくすごく嬉しくて森を出るまで何度も振ってしまった。


 三日目、昨日と同じように木の根もとに座って絵を描いている。ほんのあと少しで仕上がるというところで、森の中にトープが現れた。


「ノア、お前こんな所で何やって……」


 言いかけたところでゴブリンの存在に気付いてぴたりと固まる。


「あ、大丈夫だよ。この子は大人しくて友達に」

「う、うわぁあああああああああああ」


 顔を思いっきり歪めて泣きそうになりながら、盛大な悲鳴を上げて逃げていってしまった。結構意気地なしだな。


「あれがトープだよ。弱虫だよね。普段はあんなに威張っているのに」

「グゥゥオ」


 ガガエの同意する声があまりにもおかしくて大笑いする。最初はきょとんとしていたガガエも一緒になって笑った。ひとしきり笑った後で作業を再開し、難航していた指の先が完成する。消しゴムが無いので当たりを取るのが難しく、人間の物と形も違うから整えるのに苦労した。


「できたっ。ほら見て、うまく描けているでしょ」


 そう言って良く見せようと顔の高さまでスケッチブックを上げた瞬間、もっていた両手に何かの液体が掛かった。何だろうと思ってスケッチブックを降ろし、両手にかかったものを見ようとする。せっかく描いた絵が緑とも紫とも言えぬ液体で汚れてしまった。液体が飛んできたと思われるガガエの方へと目を移す。


「……ガガエ?」


 ガガエが地面に崩れ落ち、その後ろには液体の滴る刃物を持った男がいた。あまりの衝撃に瞬きも出来ない。


「ノア、無事か」


 私の友達の命を奪ったのはフリントさんだった。いつのまにか止めていた息を耐え切れずに吐き出すと、肺が酸素を欲しがってしゃくりあげるように短い呼吸をくり返す。


 フリントさんは剣に付いた液体―――ガガエの血を振り払いながら、静かな声で話す。


「トープが教えてくれたんだ。お前がゴブリンに襲われているとな」

「い……やだ、ガガエ、ガガエ!」


 スケッチブックを投げ捨ててガガエに近寄る。辛うじて息があるみたいで、ぜぇはぁと苦しそうにしている。


「仕留めそこなったか、腕が落ちたな。ノア、そこをどけ」

「嫌だ、絶対いや」

「ゴブリンは人間の敵だ」

「友達なのっ!初めてできた友達なのになんで殺すの」

「殺されるかもしれないんだぞっ」


 怒鳴り声にびくりと震えた。怖い。私こそフリントさんに殺されてしまうかもしれない。


「……そんなの人間だって一緒じゃない」


 ガガエの体に置いた私の手に、そっと細長く節くれだった指が触れる。慌ててフリントさんからそちらに目を移すと、ガガエが何かを伝えようと口を動かしていた。


「何?何を言いたいの?」

「……ノア……バイバイ」


 人間と同じ言葉を最期に話して、ガガエはそれっきり動かなくなってしまう。縋り付こうとする私をフリントさんは俵のように抱え上げて孤児院へ連れて帰った。

 遠ざかっていくガガエの遺体を、私は泣きながら眺めるしかできなかった。

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