落書き
孤児院での生活も段々と馴染み、譲れない部分はあるけれどそれなりの常識も多分きっと身に付いてきた、はずだ、と思う。いまいちよく分からないけれど。
さてさて、ここらで絵描きになる為の準備を本格的に始動させますか。
まずは画材集め。初期段階として欲しいのは紙と鉛筆、有れば消しゴム。
「マザー、いらないスケッチブックとか画用紙とか紙とかありますか。わら半紙でも和紙でも絵が描けるなら何でもいいです」
「わら……?鷲……?とにかく紙が欲しいのですね」
「はい!」
「ありません」
がっかりして思わず膝をついて俯いていると、くすりと笑う声が聞こえた。急いで顔を上げてマザーの顔を見るけれど相変わらずの無表情だった。なんだ、気のせいか。
「分かりました、裏が使えるようないらない紙でも良いですか?」
「勿論です。あるのですか?」
「これから集めるところです」
よし、これで紙の予約はできた。後は鉛筆か。もちろん万年筆だろうが羽ペンだろうが構わない。最悪、かまどから炭を拝借して木炭デッサンでもいいか。
絵描きになるには程遠いけれど、まずは第一歩の目途が立ったことで心に余裕が出来た。
課題の計算問題を解き終わった後、石板に絵を描いていく。小さすぎて風景は無理なので、厨房で見かけた野菜を描いてみた。
チョークアートを描くイメージで光と影だけを表現していく。石板が使い古されていて濃淡がはっきりと出ず、おまけに色は白一色。
それでも指でこすってぼかしたり、初めて描いたにしては中々の物が出来た。後は精進あるのみだ。
「お前、何かいてるんだ」
傍でうんうん唸りながら計算をしていたトープが私の石板を覗き込む。うまく描けたでしょと言う前に手が伸びてきて布で消されてしまった。
うぬぬ、トープめ。作品を許可なく消し去るとは……せめてマザーに見せて評価をしてもらいたかったのに。
「マザー、ノアが勉強サボってる」
「ノアはあなたと違って今日の分の勉強はもう終えましたよ…とはいえ、ノア。トープの気が散るから止めて下さい」
「はーい」
中途半端に消された石板をきれいに拭いて片付ける。先に部屋を出ようとする私にトープは声を掛けた。
「絵を描きたいんなら壁に落書きでもすればいいじゃん」
「だめだよ。壁って言うのは絵を描く為の物じゃない。それに周りの人が嫌な気分になるよ」
そんなの、アートでも何でもない。前世でも地下道や歩道橋の落書きは目にした事があるけど、正直あんなものをよく人目に晒せるなと思ったくらいだ。
見る人が幸せになったり、考えさせられたり、或いは歴史的や文明的な価値があるものでなければアートじゃない。
……私が地面にしたフリントさんの顔の落書きは、直ぐに消したからセーフかな?
その日の夕方、畑仕事を終えたフリントさんが帰ってくるなり大きな声で私を呼びつけた。
「ノア!表の壁に落書きしたのはお前か」
「え、違います。私じゃありません」
素直に答えたのに怒り狂ったフリントさんは話を聞いてくれない。真っ白な壁への落書きだからさぞかし目立つだろう。流石にペンキやスプレーじゃないと思うけれど、消すの大変そうだな。
「しらばっくれるのか。素直に認めて反省しないのなら仕置き部屋だ」
「仕置き部屋?」
この孤児院はのんびりしたところだと思っていたのに、そんな物騒な部屋があるなんて初耳だ。フリントさんは私の襟首をいきなり掴んで引きずり始めた。
「違う、違います。私じゃありません」
「フリント、待って。ノアじゃなくてトープだと思うの」
「今までやったことないのにか?普段の行いが悪いからと言って疑うのは良くないぞ。ノアは絵を描きたがってるからな。我慢できなくてやってしまったんだろう」
マザーが救いの手を差し伸べてくれるけれど、フリントさんは聞く耳を持たない。足をばたつかせて必死に抵抗を試みるも、襟首を掴む手はびくともしない。地下への階段を下りて、薪や保存できる食料が置いてある貯蔵庫の隣の、小さな部屋に放り込まれる。
やってもいない無実の罪を着せられるくらいなら、落書きしておくんだった。重たい鉄の扉が無情にも閉ざされる。
「開けてっ、開けて下さい」
扉をどんどん叩いても子供の力ではびくともしない。諦めて後ろを振り返り、部屋の中を見回す。仕置き部屋の中には明かりを取るための窓も無く、真っ暗だった。
―――真っ暗。死の象徴である棺桶の中ですらも光が射していたのに。美術室で取り込まれた先のように、指先も何にも見えない。
自分が目を開けているのか閉じているかさえ、分からなくなる。
時間の感覚もない。
「あ」
思わず上ずる様にして出た声は反響もせずくぐもって聞こえた。あの時とは違う、時間が経てばマザーが助けてくれるはずだと頭で理解しながらも、恐怖がひたひたと押し寄せてくる。
足裏の床の感触は確かにあるのに、消えていく錯覚を起こし始めた。重力も確かに感じているのに、上下の間隔が薄れていく。
せめて後ろの壁にもたれ掛かろうと探るけれど、指先は堅い物質にたどり着けなかった。
感情も自我もドロリと解けて―――
マタ、ココヘキテシマッタ。セッカクウマレカワッタノニ。
「っっいやああああああぁぁぁあ」
我を忘れて力いっぱい絶叫した。息が切れれば息継ぎをして再度、喉が枯れるのも構わず叫び続けていると、突然ぷつんと意識が途切れた。
「……ア、ノア、大丈夫?」
呼びかけに気付いていつの間にか閉じてしまっていた目を開ければ、心配そうなマザーとフリントさんの顔が見えた。孤児院の自室のベッドの上に寝かされている。
手伝ってもらいながらゆっくりと起き上がり、状況を確認する。今度は、記憶がきっちり残っていた。
「目が覚めたか。地下にいたのに孤児院中に響き渡るようなでっかい声で叫ぶからびっくりしたぞ」
「……棺桶の中みたいだった」
正確に言うと棺桶の中よりひどかった。光の一切通らない、あんな拷問部屋のような場所が孤児院にあるなんて。
声がかすれてしまっている。喉が引きつるように痛い。
「もう一度、死ぬんだと思った。今度はもう、誰も助けてくれないかと……」
言っている内に涙がぼろぼろと零れてきた。顔を歪めたマザーに優しく抱きしめられると、助かった安心感からか自然と嗚咽が漏れてきた。
「すまなかった。そうか、お前は一度死にかけたんだったな。そんな子供に対して、俺はなんてことをしてしまったんだ」
フリントさんは顔を両手で覆った。声を震わせて、泣いている。男の人のそんな姿を見るのは初めてだったので、驚いて涙が引っ込んできた。
「落書きをしたのはトープだったんだな。罰として今、仕置き部屋に入れてある。許して……許してくれ」
「大丈夫、悪いのはトープ。フリントさんは間違えただけ。ちゃんと謝ったから、許す」
かすれた声でゆっくり話すと、フリントさんは頷いた。トープと関わると本当にロクな事が無い。
のどを痛めてしまった私は、次の日熱を出してしまった。フリントさんが付きっ切りでしつこいほど謝るのを、マザーが引っぺがす。扁桃腺が腫れて水を飲むのにも苦労したが、トープのいないところで食事が出来たのでしっかりと食べられた。
栄養が足りていなかったのか、回復が遅い。それでも四、五日すると起き上がれるようになっていた。
数日後、お詫びにとフリントさんが街でドローイング帳―――つまり、スケッチブックを買ってきてくれた。
画材、一つゲット!
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