第12話

   12


 久しぶりに泣いた。

 出勤する羽山を見送り、最後の確認の意味で開いた母が綴るブログ、そこには昨晩タロウが死んだと書かれていた。老衰だったと言う。病気で苦しい思いをして、ではなく眠るように息を引き取ったのはせめてもの救いだったが、その場に立ち会えなかったことは悲しかった。顔がきゅうっと引き絞られる感覚もなかったのに、涙が両の眼から自然と零れ落ちた。嗚咽号泣ではない、静かな涙だった。

 電車が勢いよく秋を裂いて進む。雨は明け方に止み、白の絵の具をそのまま伸ばしたような雲の合間から青い陽が射して路面に残った雨水に反射している。予報通りの貴重な晴れだった。

 タロウは幸せだっただろうか。飼い犬として暮らした日々は幸福だっただろうか。苦痛だったろうか。それとも、ベロを出して呼吸して、ご飯を食べて寝て起きて、まるで何の痛苦も感じずにただ生きたのだろうか。

 花柄ワンピースの裾を弄る。出がけ、鏡に見た自分の姿は、もはやどう評していいか分からなかった。馴染んできたような、やはり不似合いなような。確認しようと身を捩って捩って、無理な姿勢に背中が痛くなり体を元に戻す。夏が過ぎれば着られなくなる、勝負服。今日を限りに二度と袖を通すことはないかもしれない。花は絢爛豪華だが、数瞬に散る儚さでもある。

 ハンドバッグに入れた、電車乗換を印字した紙を広げる。目的の駅で乗り換えて三駅ほど進んだ。隣県を代表する都市は高層マンションが建ち並びいかにも近代的で洗練されていたが三駅も進むと昔ながらの住宅が冴えない顔を連ねて並ぶようになる。昔ながらの人々が住む、昔ながらの町。思い出だけが資産のような町。

 車窓が、違っているが結局は同じの、根底においては変わり映えしない景色を映すようになって、俄かに退屈を意識する。乗換案内によると目的地まであと五十分近くある、このままぼーっと何もせず外を眺め続けるのにも限度がある。でも、今の自分には仕事もなく、暇潰しの道具もなく、凡そ何の意味もない。空白でしかない。自分の輪郭線が崩れ、インクが滲むように溶けていく感覚。死と地続きのそれが、どうしても焦燥を呼び起こす。何者かにならないと、と切迫した思いを私に語りかけてくる。

 次の停車駅で、何人かの男女が電車に乗り込み、私の隣とその横の席に二十代後半ぐらいの女二人連れが座る。楽しそうに話し込んでいる。

 誰それちゃんについての小話。会社の先輩、仕事はできるがそちらに軸足を移しすぎて、お局化が進行している。やだ、私こないだも怒られたの。まあ、できる人な分周りのできなさに歯噛みしたくなるのも分かるかな。怒ってばっかで、それでどんどん婚期が遅れて。分かる、でも、いつかは卒業しなくちゃいけないもんね。もう三十三歳だし、早く結婚しないとまずいよね。ねえ、女のゴールってどこなのかな。まあねえ、共働き世帯が増えてるからねえ、寿退社じゃないかもしれないけど、でも、結婚はしたいよねー。ねー。あ、それでね、何某君が最近フェイスブック全然更新してなくて。あの子ツイッターも最近やってないし、ところで何、何某君のこと狙ってるの? やーだー、そんなんじゃないってば。

 女のゴール。既定路線。果たすべき義務。

 ふと、妹のことが思い浮かぶ。妹は、肝いりの金髪を僅か半日で黒に染め直された妹は、あれから叱られるような真似はしていない。かといって、母のルールに迎合し媚びるといったこともなく、飄々と生きている。あの子もいずれ、どこかに脱出するのだろうか、金髪に染める以外の手段で。あるいは、隠れてへそにピアスを開けながらもなんだかんだで正道を歩み、結婚して落ち着くのだろうか、レシピ本のアレが美味しいだのなんだの言いながら皿を洗って。

 かたんことん、かたんことん、と決まったリズムで小さく鳴る車輪の音が、カーブに差し掛かったのか突然ひずんで不規則になる。かつんと軽い音を立てて、それはまた同じかたんことんに戻る。揺れますので、といったアナウンスもなく、電車は何事もなかったように進み次の駅に着く。誰それちゃんや何某君について一生懸命に喋りたてていた女性二人が、雀が梢から飛び立つようにさっといなくなった。それを補完するようにまた乗客が乗り込み、今度はおじさん二人で塞がった席の会話に聞き耳を立てる。私の終着駅まで、まだ時間はたっぷりとあった。


 高架駅のホームから町を見下ろす。ビル等の視界を遮る高層建築物はなく、せいぜいが三階建て程度の中程度の高さの建物が連なり、南東にある海は望めないものの山など遮蔽物がなく開けた空が開放感を感じさせる眺望だった。日差しはまだ微かに夏を残して肌を刺すものの、湿度は秋らしくカラッとしていた。

 ホームの階段を下って改札を出る。目の前にはちょっとした広場があり、ついつい南側へ足が進むところ、敢えて北側に歩みだす。バスロータリーがあり、見たところタクシーは一台も止まっていなかった。

 弧を描く道に沿って歩き、半周して近隣住民のためのスーパーを通り過ぎ真っ直ぐ進んだ先の右手、駅にはつきものの交番を覗く。警察官が一人、デスクに向かいまめまめしく書き物をしている。振り向くことはないし、振り向いたところで追いかけてくることもないだろう。通り過ぎ、ロータリーの切れ目、横断歩道を渡って駅南側へと進む。

 駅南側の広場が改札を出た人々をまず出迎えるわけだが、三月下旬に咲く河津桜は秋の初めには青々と葉を茂らせ、言ってしまえば雑木とさほど変わりはなかった。錆び付いた低い柵の向こう、車二台が何とかすれ違える小道に沿って、飲み屋と思しき小屋が長く連なっている。これがこの町の飲み屋街となるのだろう、よく言えばレトロな面構えだが、正直に言って古臭いおじさん世代向けと言えた。

 広場を抜け、道路を渡り、薬局の壁に掲示された周辺地図を見る。様々の細道と店の名前とが描き込まれ、駅から海岸までの詳細がつかめる。外貨獲得が目的の飲食店が多く、が、その中に病院や塾や美容院といった、日常を感じさせる場所も多く紛れている。余所行きと、地元民のための、とが入り交ざった複雑な成り立ち。海水浴場が与えるただひたすらに能天気な印象とは違う、現実的側面が見えてくる。昨日羽山が口にした、用意された場、という言葉が耳に蘇る。観光客と在住の人、その両方のニーズを満たすべく配置された街。用意された場に必要なことが行われ、不必要なことは行われない。行われることが義務で、行われないことは義務であろうと義務でない。でも、それだと、この町は消滅を免れないんじゃないのか。それとも、消滅がこの町に用意された場なのか。

 地図を頭に叩き込むまでもなく、海水浴場へは大きな整った道を進めばたどり着ける。歩く道にコンビニ、何かの駐車場、通りを挟んで寿司屋。車も人も、大通りにしては随分と閑散としている。いくつか分岐路に立ち、ショートカットできそうだが迷わないよう太い道を追う。パチンコ屋が見える。ここまでの道中唯一の人を呼ぶためのハコだった。派手な文字の踊る垂れ幕を掲げ背中を向ける建物はなるほどこの古い町並みでは燦然と輝く威光だったが、だがしかし、これ一つで町が救えるわけではないだろう、駐車場もそれほど詰まっていなかった。

 突き進む先に見える海は青の中に灰色を宿し、暗く揺れている。貴重な晴れ間のはずの空はいつの間にか鉛色に沈んで今にも雨が降り出しそうだ。信号を渡り、進んで再びの信号から道路を挟んで見る景色は、広大な砂浜と揺蕩う海だった。

 信号を超え、緩衝地帯のごとく柵を設けた駐車場を横断してサイクリングロードと思しきタイル張りの平たく整備された道を横切ると、白く塗られた鉄柵が一部途切れ、その間にやはりタイル仕立ての階段が設けられて浜辺へと下りる形になっていた。

 念願の海水浴場に着いた。季節を過ぎた浜には海の家のような小屋の類は一切なく、ただ広漠とした砂地が広がり、波打ち際で海と噛み合っていた。人の姿はないではない、幼児と母親、所属不明の釣りおじさん、観光に来たと思われるおばさん四人組。学校があるので青少年はいないはずが同い年くらいの男女が、楽しげに語らう姿も見られた。ただ、言ってしまえばそれだけの、没個性的な海水浴場だった。

 ここが私の終着点。夏の輝きを失った、等身大の浜辺。運命を覆す使命を負ったはずだった英雄の、割り箸みたいなチープさと凡庸さ。

 その場にへたり込みそうな自分を無理に支え、砂浜へと踏み出す。柔らかく沈みこんだ砂の粒子が凝集されて硬くなり私の歩を受け止める。崩れてしまえばいいのに。時折蹴躓きそうになりながらも、一歩、一歩と波打ち際へ歩を進める。

 地面はある地点から硬くなり、踏んでもほとんど沈まなくなる。学校のグラウンドのような、灰色に少しの黄色味を差した砂地が、貝殻や細かなプラスチックごみの集まる線を越えると水分に黒く湿った、硬く重い砂地となる。すぐそばで波が前後している。波濤は想像していたものより随分と荒々しく、本当に遊泳できるのかと戸惑う。一度入ればそれまで、沖にさらわれてしまいそうな勢い。

 黒い砂の上に立ち尽くす。ここから先は海で、えら呼吸と尾ひれや背びれがないと進めない。人間たる私が立てる最前線。言わば崖の端の端。波が砕ける音とともに私の夏が終わっていく。

 何しに来たんだっけ、と思う。消滅可能性都市を救える浜が見たくて。運命は覆せるのだという姿が見たくて。そんな理由だったように思うが、結論は凡庸で普遍的な浜辺に観光に来た少女の絵だった。学校をさぼってわざわざいちゃつきに来た高校生カップルはまさに青春の渦中だったが、彼らも毎日学校をさぼるわけではない、今日だって、日が暮れれば各々の家に帰ることだろう。そうやって皆あるべき場所に戻っていく。私も、この場から一歩でも後退すれば、元居た場所に帰る気分になることだろう。羽山のアパート、場合によっては自宅に帰るかもしれない。

 顔に降りかかる水滴が波飛沫でなく小雨なのだと気づく。浜で同じ時間を共有していた人々が、石をどけられたダンゴムシのように慌てふためいて帰り始める。釣りのおじさんもスマホで天気を確認したのか、仕方ないといった様子で釣り道具を仕舞い始めた。本格的な雨が来るのかもしれない。急に心細くなる。折り畳み傘も携帯していなかった。

 余所に注意を逸らしていたところで足元を波がしゅわしゅわと洗う。慌てて飛びのいたが遅かった、靴はぐっしょり濡れてしまった。すぐさま音とともに第二波が来て、くるぶしが浸かる。初秋の海は驚くほどに冷たかった。夏はとっくの昔に終わったのだと告げている。さらさらと砂を吸い込みながら去る波に、いや、まだだ、まだ終わらない、と食い下がる。ハンドバッグを頭に据え、波を追いかけて海へと入った。

 太ももの高さまでが海水に浸かる。ワンピースのスカートも一部浸され、色が濃くなり肌に貼りつく。冷えと恐怖に身震いしながら、それでも前へ前へと進む。立ち上がった波が私の腹部を濡らし、すぐさま掃除機のような吸引で私を海中へと誘い込む。タロウが死んだことを思い出す。帰りたくないのなら、進むしかない、そして進んだ先には、迷宮入りした行方不明と明確な死とが待っている。

 いよいよ波は高く、私はハンドバッグが濡れないよう高々掲げて海水を進む。なぜハンドバッグを守っているのか、よく分からない、けれど、死ぬために進んでいるのでないと言うのならば、ハンドバッグの中身は死守しなければならない気がした。まだまだ進むんだという強い意志があった。戻りたくないんだという不屈の精神があった。がむしゃらな思いだけがあった。が。

 波が吸い寄せる、次の瞬間。足の踏ん張りがきかなくなり、初めて完全にバランスを失い水中に浮いた。後方に倒れ込みそうになるところを、両手を掻いてなんとか防ぎ、再び砂を踏む。バランスを取る代わりに放り出されたハンドバッグをすぐさま回収した時点で心は考えるより早く決まった。再び足を取られる恐怖に怖気立ちながら体の向きを変えて陸に向かって懸命に進む。ハンドバッグを頭に載せ、少しでも前へ、前へと、時に足を空転させながら、必死に歩を進める。体のバランスが危うい域はすぐに抜け、腰より低い位置で波がうねる浅さまで戻って来てもまだ一瞬の油断で沖へさらわれそうな恐怖が拭えず、ずんずんと休みなく陸を目指す。やがて走れるほどに足が自由になり、まもなく海中から駆け上がった。

 波打ち際の黒い砂地で後ろを振り返り、押しては返す海の吸引力を思った。ぶるぶるっと全身が震えた。海が怖くて速足で遠ざかる。固い砂が次第に柔くなり、何度か足をもつれさせそうになりながらも一息に砂浜と道路を繋ぐ階段まで駆けた。

 階段にたどり着くと、脚には巻き上がった砂が太ももまで黒くこびりついていて、払っても払っても落ちなかった。衣服の濡れたまま地べたに座れば砂まみれになることは重々承知していたが、命ある安心と先ほどまで指先が触れていた死の恐怖ゆえに、腰砕けのようにしてタイル敷きの段の上に座り込んでいた。

 まだ小雨が降っていることに気づき、それから海に落ちたハンドバッグの中身に意識が行く。バッグを縦にして傾けると、飲み干した缶から飲料が滴々と垂れるように海水が滴となって流れ出た。中身を掻き出す。

 乗換案内を印字した紙は濡れてペタッとしていた。折り畳んでいたところを無理に開こうとすると破けた。財布が出てきた。中を見るとやはりお札が濡れていた。ICカードはまだ存命だろう、まだ使えるに違いない。チャッカマンと開封済みの煙草の箱が出てきて、キットカットの個包装とスマホも出てきた。砂がバッグ内部に入り込んでいたが海に落とした所持品はないようだった。

 試しに煙草を一本抜き出し、チャッカマンで火をつけようとする。チャッカマンは発火したがいくら炙っても煙草はうんともすんとも言わなかった。キットカットを開封して食べると、ちゃんとしたキットカットの味がした。異常時にも変わらないものがあることにものすごく安心する。気持ちが落ち着いてくる。あとはスマホだ。

 迷った。この御守りは、電源を入れることで精神的な意味合いでなく本物の御守りとなる。誰かに困ってますと連絡を入れることができる。助けを求めることができるようになる。それだけでなく、行方不明の届が出ているならGPSを使った捜査で所在地を割り出されるだろう。そうなればもう、この家出は家出として成立しなくなる。終わってしまう。

 いや、もう終わったのではなかったのか。私は希望の浜で絶望し、行き着くところまで行き着こうとして、挫けて逃げ帰った。となれば、他にどこに行くことができる? ここはもう、どん詰まりなのだ。ピリオドなのだ。

 いろいろ考えるには疲れすぎていた。

 スマホに付いた水分を濡れた服の裾で拭き取り、側面の電源ボタンを長押しし、スマホを起動する。暗証番号入力を済ませるとホーム画面になる。ラインアプリの右上に、新規通知数を示す番号がある。五十何件、来ている。開いてみた。父、母、妹から安否を問うラインがたくさん入っていた。紅花、心配しています、返信ください。紅花、突然いなくなって、とにかくあなたが無事ならいいんです、無事でいてください。お姉ちゃん、寂しい。

 里ちゃん、エレン、萌子からも。心配です。会いたい。今度会ったらあれしようこれしよう。

 込み上げる情動を感じて唇を噛んだのに、獣が唸るような低い声が隙間から漏れ出てしまう。大粒の涙が頬をとめどなく伝う。鼻水が垂れてきて、何度も何度も啜るのにまた垂れてくる。

 戻ろう。皆の居る場所に戻ろう。こんなにも他人からの心配が、思いが、身に沁みたことはない。元々大望があるわけでない、今に行き詰まりを感じたがために始めた目的なしの脱線だったのだ。そしてそれはもう、終わる時間なのだ。元居た場所に帰る時が来たのだ。そういうことなのだ。

 潮が寄せて、また帰る音が粛々と耳に響いた。

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