第13話
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一通り泣いて、まだ鼻を啜りながら、まなじりを拭いながら、それでも駅に向けて歩き始める。どうやって帰るかを思案している。駅前のスーパーに衣料品はあるだろうか、濡れた服を着替え、ICカードは生きているだろうから電車賃に不足はない、あと考えるべきは、この騒動に対する詫びの入れ方だけだ。
小雨は止み、雲越しではあるが陽の光が世界を一段明るく照らし出している。誰も往来していない。この天気が、まるで私個人の門出を祝ってくれているように錯覚する。でも、悪い気分ではなかった。快晴の真っ青とは違う薄曇りの、奇妙な虚脱感があった。
信号が赤で、歩を止める。その赤が、頭の中で禁止を意味する赤に移り変わる。羽山。あの男の処遇をどうすべきか。恩に着る、というのも変な思考だが、一連の脱走は彼なしに成立しない、そういう観点では同情すべき面があるように思えた。だが罪は罪だ、性欲のための飼育には何らかの社会的制裁が執行されなければならないだろう。それが彼の果たすべき義務ではないか。彼は破綻し、その行く先にはまた新たな道が用意され、彼はその用意された場で彼の果たすべき義務を果たすのだろう。
信号を渡り、あとは駅まで途切れることなく続く歩道の上を行く。よく知らない道でも、ここを歩み続ければ駅にたどり着く。それは大層便利で、少しつまらないけれど、よくできたシステムではないだろうか。迷う必要も惑う必要も、ないのだ。この町も、消滅可能性都市のラベル通り消滅への道を歩むだろう、それは覆しようのない運命で、だからその間どう生きるかに注力すべきなのだ。それがより良い生き方だろうと思う。
と、前を向くと、制服姿の女子高生が全速力でダッシュしてくる。ある種異様な光景を呆然と眺め、その後を遅れて身なりの良い女性が駆けてくるのが目に入る。女性が何か叫んでいる。よく聞き取れない。私と目が合った女子高生が、一瞬怯み、急に左右に首を振って、慌てた様子で道路を横断し始める。その様と、女性が叫ぶ「泥棒!」という声に凡その事態を呑み込み、反射的にその女子高生の行く手を遮ろうと動く。
進行方向に位置する私が女子高生に立ち塞がる形で迎え討ち、女子高生は横へ逸れて逃げようとするが横道がない真っ直ぐの道のため、必然的に私と対峙せざるを得ない。全力で駆けてきた彼女は人三人分のスペースを置いて足を止め、私の出方を探る。獣の目。私はいつでもダッシュできるよう腰を落として身構え、彼女の動きを待つ。後方の女性が追い付きつつあった。焦った女子高生は斜めに走って私の横をすり抜けたがそれも一瞬のこと、足は私のほうが速く、すぐに追いついて彼女の腕を引いて止めようと試みる。彼女は暴れ、何度か手を振り解いたものの失速し、ほぼ止まりかけたところで私は彼女の腰に抱き着いた。もう逃げようもなかった。
「離せ! 離せよコラ!」と彼女が叫ぶ。が、言葉とは裏腹にその場にへたり込もうとする。車道だったので私は彼女を引きずるようにして歩道に乗せた。そこに女性が追い付いた。
「ああ、助かった! この女、泥棒よ! ありがとう!」
「泥棒って、何を盗んだんですか」やけに平静な自分に自分で驚く。女性はもう一度泥棒と言いかけて、言葉を変えた。
「食い逃げよ。食べ終わったらいきなり外に逃げて。追いかけてきたの。捕まえてくれてありがとう」
食い逃げ犯が出し抜けに立ち上がって走り出そうとして、腰に引っ付いた私と足が絡まりその場に倒れる。
「あなたねえ! この期に及んでまだ逃げようとするの! 恥を知りなさい!」推定店主が怒鳴る。
「嫌だ! 嫌なの! わたしもう嫌なの!」女子高生は唐突に声を張り上げる。と思えば泣き出す。私は腰にとりついたまま彼女を座らせ、私も後ろから抱えるようにして座る。
「わたし嫌なの、もう家に帰りたくないし学校とかも行きたくないし、どこにも居場所がないの!」
「嫌だったら食い逃げしていいわけ? あなた言ってることが滅茶苦茶なんですけど」店主が強い声音で問う。
「だってお金がないんだもん! しょうがないでしょう!」
「何逆ギレしてるの!」
「だってぇ、女子高生がお金作るとしたらウリするしかないもん! わたしそんなん嫌だし、でも嫌だ嫌だ言ってるだけじゃ世界は変わんないし、じゃあもう逃げるしかないでしょ!」
「あなた本物の馬鹿ね」
「バカよ! どうせわたしバカだよ! 食い逃げなんかじゃどうにもならないって分かってる! 分かってるもん!」
「じゃどうして食い逃げなんかしたのよ」
「なんかやんなきゃあの家に戻るかあの学校生活に戻るしかないんでしょ? だったらなんかやるよ! 逃げるためじゃんしょうがないじゃん!」
「そんなふざけた理由で犯罪が正当化されるわけないでしょ。女子高生が、家や学校生活に戻らなくてどこに戻るわけよ。常識で考えれば分かる話でしょ」
「だからバカだって言ってるでしょ! 常識なんて知らないし!」
「結局」私が口を挟む。「どこまで逃げても、あなたはあなたの家と学校からは逃げられないと思うよ。そこで過ごすのが当たり前なんだよ。むしろ、属する場所があるほうが楽だと思うよ」
「知らないわよそんなの! もう離してよもう!」女子高生の腕が抱え込む私の両腕を外そうと躍起になる。爪を立てられた。
「それが私たち、少女たちの正しい終わり方だよ」突き放すように言った。
「だから知らないって!」彼女が金切り声を上げる。「誰がなんて言おうと、わたしが絶対間違ってたとしても、わたしは今が嫌! 嫌だから逃げるの!」
「どこに?」知りたくて、問う。
「どこでもいいでしょ! どこだっていいから、誰もわたしを知らないとこに行くの、誰にも邪魔されない場所に行くの……」
女子高生はすんすん鼻を鳴らし、腕も下ろして抵抗する気力を失った様子だ。
「誰もあなたを知らない、誰もあなたの邪魔をしない場所に行って、何するの?」
幼児が駄々を捏ねるように、うー、と唸り、少女は言った。
「私が好きなように、生きるの。自分で好きなように、生きたいの……」
この少女のように暴れて、良識を冒してまで私が意思して選び取ったものは、考えるにキットカットぐらいだ。往時の記憶もない。自分で自分の道を選び取る。自分の好きなように生きる。悪いけれど、あまり頭の良くない少女の、拙い弁術を通して、しかし何か真理に触れた気がした。
店主に振り返ると、店主は呆れたように肩を竦めてみせる。「好きなように生きたいなら、好きなように生きればいいじゃない」言い放ち、「ま、好き放題やったツケは、きっちり払ってもらうからね。制服からして近所の高校じゃないと思うけど、どこの子か知らないけど、出るとこ出てもらうからね」鼻でため息をついて、ポケットをまさぐり、「あ、そっか」と顔を顰める。
「もしかして、百十番ですか」
訊くと店主はそうそうそうと頷く。「お店に置いてきちゃった」
「私スマホ持ってます」と言って、少女の反応を窺う。泣いてばかりで、逃げる気配はなかった。店主が回り込んで逃げないか警戒するところに、「たぶん大丈夫じゃないですか」と言いながら回していた腕を解く。少女は逃げない。ね、と店主に頷くと、店主はまだ警戒の色を解いていないが愛想笑いで頷く。
「あの」と言う。「えっと、店主さんですよね」
「あ、はい」
「百十番なら、私が掛けますんで。後の始末は私がつけますよ」
え、でも、と店主は複雑な表情を浮かべる。想定していなかった返しらしい。私はスマホを操作して、あとは通話ボタンを押すだけまで持って行く。
「この子、たぶん逃げないですよ。その、お店、放置で大丈夫ですか。誰か待ってたりしません?」
店主は困ったように眉根を寄せ、腕組みし、「じゃあ」と言う。「この場は任せていいですか。通報してもすぐ警察が来るわけでもないですし、ちょっと、一旦お店に戻って、お客様に説明して、また戻りますんで」
「はい。ここから動きませんので」
応じて、電話を掛ける。あ、警察ですか、と言うと店主は安心して、ちょっとの間お願いしますね、と頭を下げ来た方角へ小走りに去っていく。それを確認して、私は「ごめんなさい、いたずら電話でした」と電話を切った。
少女が、訳が分からないといった顔でこちらを見る。「……どういうこと?」
「私も地元民じゃないから、そもそもここがなんて住所の何番地なのか分からないし。初めて来た土地だから場所の説明が分からない」スマホをポケットに仕舞いながら言う。少女は意味が分からないといった様子で、しかし私の服が胸まで濡れていることに気づき何か普通でないことは理解したようだった。
「私ね」少女に言う。「家出してたんだけど、今から家に帰るの。結局、家出や食い逃げ程度の小さな逸脱じゃ、どこにも行けないよ。いずれ力尽きて、元居た場所に戻ることになる。どこから逃げて来たかは知らないけど、十中八九、あなたも私と同じ道をたどると思う。早いか遅いかの違いがあるだけで、結局逃げ切れない」
「でも、わたし嫌なの。家帰るのも学校行くのも、もう嫌なの。逃げて何が悪いの……」
「……私はね、知らない男を頼った。衣食住に事欠きたくなかったから。あなたの言うウリに近い行動に出た。経済的自由も得て、でも、それでも行き詰まった。自活しない限り、あるいは自活できたとしても、家や学校は私たちを逃がしちゃくれない。大人になっても、用意された場からは抜け出ることはできない。私たちは鎖に繋がれた犬なの」
「あなたがこれから家に帰るように、わたしも、どう足掻いても家に帰るってこと?」
「そう」反駁しようと少女が口を開く前に言う。「でも」一拍置く。「逃げる意味は、あるかもしれないし、ないかもしれない。分からない。私が、私の嫌っていた場所の、沼に引き込むような温かさに気づいたように、逃げることを通してあなたも何かに気づくかもしれない。だから」
ハンドバッグから財布を出し、濡れてペタッと固まった札束を抜き出す。角を爪先で突っつくと、水で吸い付いた札と札の間に空気が入り込んで一枚剥がれる。
「食い逃げって、いくら食い逃げしたか分かる?」
え……と視線を彷徨わせて少女は、分からない、と言う。それはそうか、端から食い逃げを目論んだ人間が値段のことなど気にするはずもない。
「たぶん二千円あれば足りるでしょう」千円札二枚を剥がし取る。「あの店主には二千円渡すから、あなたが支払った態で。そうしたら彼女も、是が非でも通報する、とはならないんじゃない? 多少は不服だろうけど。それで食い逃げに関しては解決」
事態が呑み込めていない様子の彼女に、残りの、水で密着している札束を掲げる。
「次はあなたの脱走の話。あなたが、本当に今現在から逃げたいんなら、そんなに多くないけどこのお金全部上げる。当座の資金にして。十中八九あなたは捕まって、元の場所に連れ帰られるだろうけど、元逃げた者として、同じ心境を抱いた者として、僅かばかりの応援をしてあげる」
少女は、私に捕まえられた時と同じく正座を崩した形で地面に座っていた。私が札束を突き出すと、むしろ臆したように上半身を少し引く。
「どうして、そんなに服、濡れてるんですか」少女が問う。
「逃げようとしたら、海に入るしかなかったから」と答える。
「それって……」と絶句して、少女はふるふる震える。
「そういう可能性だって、なくはないんだよ」冷たく言い放つ。
私は札束を手に黙って立つ。曇り空の、弱々しい陽光が作った影が、淡く少女に落ちかかっている。少女は逡巡している。私の顔を見て、札束を見て、また私の顔を見る。助けを求めるような、小動物の瞳。
「やめときなって言ったら、あなたはやめるの?」
突き放すでもなく鼓舞するでもなく、ただ問う。
挫けた様子の少女が目を見開き、口元を引き結んだと思うと次の瞬間、必死の形相で立ち上がって私の手から札束をひったくり、全速力で来た道と反対の方角へ駆け出した。振り返らない。地元の高校生でなければどの道がどこに通じるかも知らないだろう、それでも、少女はどこかへ繋がる道を、必死に、遮二無二走り出した。
遠ざかる彼女の背を目で追いかける。彼女の駆ける先に広大な海があった。耳の内に潮騒が蘇る。ごごお、と波が砕ける音とともに、少女が海へ緩やかな弧を描く道を、すっと右に曲がって消えた。
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