第11話
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庭や山々が草花と新芽で色づき始めるように、純度の高かった冬の白く透明な空気が、どんどん黄ばんで猥雑になっていく春。命のスープは弱い時ほど澄み、その盛りほど濁る。
高校二年生に進級して迎えた始業式から帰宅した時だった。母が食卓に私を招く。淹れたてと思しき湯呑みが母と私の席に置いてある。
通学鞄を居間に置いて制服姿のまま卓に座る。目が合うと母が言った。
「あなた、これからどうするつもり?」
どうも何も、意味が分からず首を傾げると、母は続けた。
「進路の話よ。これからどういう道に進むとか、何か展望はあるの?」
今までそういった話はしたことがなかったので戸惑った。もちろん、展望も何もあるわけがなかった。「何も考えてないけど」素直に答えた。
母は呆れたようにため息をつき、萌子の話を始めた。萌ちゃんは県外の私立大学目指して勉強を始めて、志望は文学部のなんたら学科云々。萌子の母からの伝聞に違いなかったが、比較されたことに私は苛立った。
「萌子がどうとか、私とは関係なくない?」
母は常識の欠けた人を見るように目を眇め、「関係ないも何もあなたの話じゃない」と大仰に驚く声を作った。
「そりゃそうだけど」私は慌てて応答した。「私、進路とか、まだよく分かんないし」
振り返るに、言われたことを言われた通りにこなして来た人生だった。親や学校の先生の指令を忠実に守り実行する、模範生。そこに指針も展望もなく、ただ命令を待つばかりの受動的人生だった。だから、今回も誰かが模範解答を示してくれるものだと考えた。
「お母さんは、どうしたらいいと思う?」
訊くと母は、口元に失笑を浮かべた。「それは、あなたが決めることでしょう。あなたの人生なんだから」
私の人生じゃないんだから。
駄目押しのように付け加えられて、途方に暮れた。母の言い分は正鵠を射ている、けど、今までこうしなさいああしなさい言ってきたくせに、ここにきていきなりお好きにどうぞと手放されてもどうしていいか分からない、庭先で三輪車に乗せていたのをいきなり公道に補助輪なしで走れというようなものだ、転ぶだろうし、そもそもどこを目的地としていいか分からない、少なくとも練習問題を、例題をいくつか解かしておいてから試合をさせるべきではないのか。訳の分からなさに怒りが湧いた。
選択する力の育っていない私は、突如押し付けられた無理難題にただキレるしかできなかった。私は私の進路と直接関係ない事柄を引っ張り出し、母を非難した。母も怒りの磁場に誘い込まれて私を非難する。そうして喧嘩が起きて、私たちはどちらからも謝らない。結果、互いに日常生活に必要な最低限度の言葉しか交わさない生活が続いた。
一週間経っても情勢は変化せず、たまらず父が仲裁に入った。突然のことだから紅花も混乱したんだよな、進路を決めるなんてのはなかなかすぐに結論が出ることじゃないからな。どうやら私の肩を持つつもりらしい。母が不服な顔を見せないのは、すでに二人の間でそういう方向性で膠着を打開しようと話がついていたからかもしれなかった。
週末、父が私を散歩に誘った。私の側に立った父に、私も好感を持っていた。二つ返事で歩きに出た。
少し離れた公園まで歩いた。道中で父は、息が切れるだの、足が怠いだの、些末事を喋った。私は笑いながら父を冷やかした。父も笑った。
着いた公園は、春らしく花に満ち、冷え込みで長持ちしている桜、畑に寄せ植えされたチューリップ、鐘のような小さな青紫の花が群れ咲くムスカリなど、始まりの気配に溢れていた。来園した家族連れは楽しげに園路を散策し、花々に向けてカメラを構える高齢者も散見される。有意義な週末にすべく、あるいは長閑な休日にすべく、人々が蠢いている、そのパワーに自然こちらも気分が開放的になる、言葉がするする出て会話が続く。
「僕はね」首筋に滲んだ汗をハンカチで拭き取りながら、父が言う。「将来をそんなに厳密に見据えて人生を組み立ててきたわけじゃなかったけど、まあ、食料品を前に財布の中身を気にしなくていいようには、生きようと思った。今思えば、生き物の研究とか、あるいは電車の運転手とかさ、やってみたかったなってことはいっぱいある、けど、家族を養っていくには、ある程度安定した収入がないとねって。だから、この道で合ってたと思う。けどね、一番思うのはね」眼鏡の奥のまなじりの下がった目を、さらに細める。「健康第一ってこと。食ってけるっていうのも大事かもしれないけど、健康でいる、それが何事にも代えがたい価値だから。いろいろ難しいかもしれないけど、紅花が元気でいてくれれば、それが一番大事なことだから」
そろそろ帰るか。言って父は小さな眼に笑みを浮かべて私を見る。うん。と答えた。答えながら、急激に冷めていく自分を感じていた。父は、ザ・いい大人像を演じてみせて、それはそれは尊い優等生の意見だけれど、結局は結論を避けて、問題を解決していない。私の肩を持つ父は私のことを理解してくれる味方だと思ったが、もしかしたら父もそういうふうに演じたのかもしれなかったが、結果はまるで焦点が合っていなかった。一般論。微温的対応。何も分かってないんだね、という言葉が喉元を競り上がったが、それは吐き出されることなく臓腑に沈んだ。
夜。家族が皆寝静まった頃合いを計って、外に出た。車庫から引っ張り出した自転車を漕いで夜道を行く。頭の中に明確な目的地があるわけではなかった、ただ闇雲に街へと打って出た。
街、と言っても田舎町で、駅まで自転車で十五分近くかかる、その道中にあるのは宅地ばかりで、唯一の巨大商業施設と言うべきスーパーは二十四時間営業でライトアップされた観光名所のように燦然と輝いているが中に買い物客はほぼ存在せず、万引きを警戒する私服ガードマンがうろついているという噂で、意味もなく時間を潰せる場所ではない、通り過ぎる。中央線を走っても事故らないであろう交通量の車道、人気の絶えた歩道に街灯は少なく、暗がりに目を凝らさなければ轢く轢かれるの心配はあったが何しろ何も、車も人も走っていないのだった。
駅前、駅構内の眩さに比して暗く沈んだロータリー周りを、自転車を手で押して歩く。電車の来ない時間帯は人もいない、居酒屋の看板ばかりが空しく輝き、タクシーは退屈そうにエンジンを温めて連なっている。
商店街のほうへ流れるが大差ない。とにかく人がいないし、宿るべき店もなく、溜まり場がない。五分歩いただけで行くべき先を見失い、スマホを取り出して地図アプリを起動し、目的地を探すが目的とすべき場所が見当たらない。やんちゃな青少年の蝟集したと聞く市内唯一のゲームセンターも随分前に潰れて、今はドラッグストアになっていた。あとは二十四時間営業のファミレスか、友達の家にでも行くか。
なんで家を出たんだろう? と、暗い道に立ち、そもそもの疑問を考える。家に居たくなかったから。進路の問題? そう。なら、家で今後の進路について、ネット検索しながら思案したほうがよほど建設的では? 反論すべき言葉もない、その通りだ。でも。私は夜な夜な家を飛び出した。何を求めて? 分からない。
赤ん坊が、おむつを穿かされるのを嫌がるような、非合理的拒絶が自分を路上に走らせたのかもしれない。薄っぺらな反抗。直接的解決にならない、劣等生の振る舞い。
そしていざ出た街には何の解決もなかった。どこに行っても人がおらず、居場所がなく、暗い道が何キロも何十キロも続いているだけだった。その時はまるで知識がなかったが、私の住む町は消滅可能性都市でも限界集落でもなかった、それでも、どこにも行き場がなかった。
どこにも行けなかった。
夜の湿気を吸ってごわごわする髪を翻して、私はゆるゆると自転車のペダルを踏み、帰路についた。
翌朝、母に詫びを入れ、仲直りした。母は勝者ゆえの鷹揚さで私を受け入れた。父は満足そうに頷いていた。妹は何事もなかったように朝食を食べていた。タロウはカーペットの上に横たわり、眠っている様子だった。私の初めての家出は、そうして日常へと回帰した。
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