第10話

   10


 別に許可も何もいらないのだが。

 消滅可能性都市の海水浴場へは一人で向かう予定で誰を同行者にするつもりもない。だが、羽山に一言、出掛けることは告げようと思った。今まで私を放任してきた羽山が反対するはずもないし、止められようと無理にでも行こうと心に決めていたが、この旅は私の家出の総決算になるだろうから、その始点になった羽山には説明するのが義理だろうと思った。

 パソコンの時刻表示を見る。羽山がいつも帰宅する午後八時の時間帯は過ぎて九時になろうとしている。いつになく遅い。もしかして帰らないこともあるのだろうか、と首を捻る。考えてみれば羽山が、同僚と飲み歩く日があってもおかしくはない。夏期講習が終わったのだから余裕もできて、帰路にふらっと横道に入ることがあっても何の不思議はない。あるいは、自らの変態性欲は私で満たして、クリーンに、という言い方は変かもしれないが、通常のお付き合いをする恋人が存在して、今頃二人で愛を囁いているのかもしれない。愛と性欲は別物だと聞く。と考え、羽山のペニスは見慣れたが、羽山の人物像はついぞ深まらなかったなと感想する。

 乗換案内で検索した経路をプリンターで印刷し、紙を折り畳んでハンドバッグに詰める。御守り代わりのスマホを入れて、キットカットの残りと財布も放り込み、あとは何が必要だろうかと考える。天気は秋雨の内の貴重な晴れ間らしく、折り畳み傘は必要ないそうだ。

 思い出して、いつぞや買った煙草の箱を持って行くことにする。ライターを探すと、赤い持ち手のチャッカマンが出てきたのでそれをちゃっかりハンドバックに入れてしまう。羽山はこれで花火でもしたのだろうか。おそらくは神経質な性格ゆえ何かしら必要が生じた時のために購入し抽斗に仕舞っていたのだろう。あるいは、実は火を見つめるのが好きな人間なのかもしれない。

 出掛ける準備を整え、まだ羽山は帰宅しない。漏れがないよう部屋を見回すと、キャリーバッグが目に入る。失念していた。私が行おうとしているのは、移住なのか、単なる移動なのか。つまり、私がもう一度ここに戻る可能性が、あるのかないのか。

 分からなかった。海に行けば、私の夏は、八月の終わりから遅れること二週間ほどで完結する。この家出に一区切りがつく。けれど、一区切りがついた時に、何かが始まるのだろうか。それは全くの疑問だった。私は確かに終わりを見るだろう、で、そこで何かが始まるのか。

 キャリーバッグ一つで、私の目の前は高揚から疑念へと落ちた。私はまたここに戻る。出口なんてどこにもない。嫌だ。嫌だけど、職なし家なし財産なしでは生活できない。誰かに依存しない限りどうにもならないからこその羽山だったのではないか。

 飼い猫なのだ、結局。衣食住を確保したくて、野良になれない。どこぞの橋の下で寝転がる自分を想像する。雑草の生えた地面は湿って冷たい。身震いしてしまう。根性なし、なのか。

 鬱々としてきて、現実逃避にツイッターを開くと、『宵山の花子』からメッセージが来ている。『調子どう? 最近メッセージ来ないから』

 彼女との接触が途切れて一週間も経たないのに帰省で従姉妹に会うような随分久しぶりの感覚だった。

「まあまあかな。そっちはどう? 絡まれてる話はどうなった?」

 送って、返事が来るまで久しぶりの町作りゲームをプレイする。空港もできて、町は発展へと等速直線運動するように順調に興隆していく。餌を与えている場面を見たことがないのに着実に太っていく学校の鯉のような。心にざらりとしたものが触れた感触。

 ……このゲームには災害ボタンがある。押すと地震や火事が起き、町が壊れる。いったい誰が何の目的で使用するのか不明だった、が。

 災害ボタンを押す。火事が発生、と報告が入り、画面が火事の家を映し出す。燃焼は、しかし、すぐに消し止められる。金食い虫の消防署が活躍したからだ。燃え跡は荒廃した建物として表され、だが少し経つとクレーン車が現れ新しい建築物を建てる。町は何事も起きなかったように営みを続ける。

 九時十五分を過ぎたが羽山は帰らない。再び災害ボタンを押す。三度押す。地震、暴風、火事が発生する。その都度細々とした部分が壊れ、またすぐに別の建物に入れ替わり町は再興する。町が根本的に壊れるまで災害ボタンを連打する、が、機能的に配置された町はその変動を呑み込み、すぐに復興する。

『宵山の花子』から返事が来た。セーブしないでゲームを閉じ、中身を読む。

『絡まれてるのは、もう平気だよ。やっと離れたから。でも、変なこと言われたけど、全部嘘だから』

 何事もなく普通と主張する、だが、何か妙に作為を感じさせる文章。

 墓を暴くような行為だと思い今まで避けて来たが、禁断の扉を開くことにする。私はネットで「宵山の花子」を検索した。検索結果の上位三つがネット掲示板で、「宵山の花子は買春オヤジ」といった類の讒訴がタイトルになっている。一番上の検索結果をクリックしてみる。ネット掲示板に飛び、悪口の書き込みが列挙される中で、彼女の、いや、彼の個人情報が晒されている。本名は澤村義明、五十三歳、地方の、それなりに大手の企業の会社員、顔写真を見るにエロオヤジの相貌、未成年誘拐を目的としたアカウントだから注意して、と記されている。

 渦を巻いていた感情が、興奮の極値を超えたのか奇妙に安定し始める。気持ちが冷めていく。

 率直に言って、つまんない終わり方だな、と思った。真偽不明の情報も多いがおそらく大筋は合っているのだろう、澤村義明氏は私を含む少女らしきアカウントに接触を試みて、あわよくば美味しい思いをするつもりだった。しかしどこかで足がついた。身から出た錆。

 ふふっ、と笑ってしまう。

 ネットの特定班が本気を出せば、匿名の仮面も外れ、誰がどのような目的で発信しているかがバレてしまう。バレて社会的に終わってしまう人も多いだろう。『宵山の花子』とやり取りしている私のアカウントも、誰かが追いかければ家出した糸見紅花だと判別されすぐに自宅に連れ戻されることだろう。だが私を発見しようとする勢力は未だないようだった。安心するような、拍子抜けするような思いだった。こんなつまらない終わり方だけは嫌だと思った。

 と、ドアノブが回る音がして、羽山が玄関を上がる音が聞こえる。廊下と洋室を仕切る引き戸を開けたのは、やはり羽山だった。時刻は九時半近くだった。

「ああー、疲れたわほんとに」

 疲労に虚脱したような、それでも憎しみだけは解けないような暗い呻き。通勤鞄を定位置において信用とやらのために着込んだスーツを脱ぐ羽山が、次に何を言うのか待ち構える。ベッドに座り動きが止まる。別段酒臭くはない。両手で顔を覆い、うーと低い声を出す。と、バネが弾けたように全身を伸ばし、ベッドに寝転がる。息を吐く。

「あー、つらっ」

 自分で言って自分で笑っている。迷ったが、訊いてみた。「何かあったんですか?」

 羽山がゆっくりと上体を起こす。「ないわけじゃないけど」と言って、前髪を整える。「何?」

「いや、その……」今まで羽山の背景に一切興味を抱かなかったのに、という意図に聞こえた。どう返すのが正解か分からない。「その」疲れているの、と訊こうとして、それはあまりに愚鈍な質問だと思い直す。言葉に詰まっていると羽山が勢い良くベッドを立つ。風呂に入るつもりだと察し、慌てて言ってしまった。

「明日にでも、ここに行こうかなって」

 面倒くさそうに顔に皺を一瞬寄せて、どこ、と羽山がパソコンのディスプレイに顔を落とす。「ここです」と、市の地図の載ったページを見せる。睨みつけるように目を眇め、羽山はディスプレイを注視して、すぐに興味を失ったように顔を外し廊下への引き戸に手をかける。

「僕は行かないから。仕事あるから」

「いや」一緒に行こうという意味で言ったわけではない、ただ伝えておこうと思って、と私が言うより早く、羽山が言う。

「いいよね、君は暇があって。僕も行けるものだったら気の向くままにあっちこっちふらふらしてみたいけど、僕は生活かかってるから。労働があるから。果たさなきゃいけない義務があるから。君は気楽でいいよね」

 総身の産毛が逆立つような怒気を感じた。気楽で云々にではなく、男が当たり前のように使った言葉に。

「待って!」と、引き戸の向こう側に回り後ろ手に閉めようとしていた羽山を制する。背中越しに、鬱陶しげに振り返る彼に尋ねる。

「義務って、何?」

「……義務は義務だよ」

「果たさなきゃいけない義務って、何?」

「それは」小馬鹿にしたように羽山が笑う。「仕事して生活していくとか、そういう、社会人として当たり前なことの総称だよ」

「未成年連れ込んで、変態性欲のはけ口にして、違法コピーのゲームをパソコンに入れてるあなたが、果たさなきゃいけない義務を語るわけ?」

 変態性欲の部分に羽山はむっとしたようだった。「何? 何か問題があると君は言いたいの?」

「家出した未成年を見つけたら警察に通報するのが、社会人としての義務でしょう? 部屋に連れ込んで飼うなんて、順法精神の欠如、それって義務を果たしていないってことでしょう? それを急に、義務だ義務だって、真人間みたいに振る舞って。矛盾に対する葛藤はないの?」

「……君はさ、家出娘の現在不登校だから、義務を果たせていない自分に後ろめたさを感じてるだけだよ。それは単なる八つ当たりだよ」

「義務を果たしてない人が義務を説くっていう矛盾を説明して欲しいだけです」

 羽山がこちらに向き直る。呆れたと言いたげな顔に、抗弁するように睨みを返す。しばしの沈黙があって、羽山が口を開く。

「君の言う通り、義務を完全に全うしている人間はいないよ、皆どこかしら欠けている。あるいは、自分が果たしている部分だけを取り上げて義務だの責務だの声高に叫ぶ連中もいる。でも、そうやって社会は回ってるんだよ。回っちゃうんだよ、実際問題。つまり、君が義務という言葉に求める正しさは、実社会ではそれほど大義がない。義務は社会をより円滑に回すために設けられたシステムであって、盲目的に信奉されるものじゃない。でも、その、正しそうなものにすがったほうが生きる上で楽だし、より適応的だと言ってもいい。君は家庭から飛び出して、学校から飛び出して、随分自由になったと思うけど、それで楽になったかな? 義務から飛び出した先にはより強度の高い苦痛が待ってたんじゃないかな。そして君は、結論を待ってる。義務を取っ払った人生の行き着く先が、義務への回帰だった、っていう結論。違う?」

「私は元居た場所には帰りたくない。義務には戻りたくない。それじゃ成り立たないって、モラトリアムだって笑われたって、私の進む先に正解があるって信じてる。つまんない運命なんて覆してみせるって、何度でも自分を肯定してみせる!」

「別に、僕に義務に対する過剰意識はない。生活の必要があるだけさ。必要が行われ、不必要は行われない、不必要は遊びのみで行われる。必要は義務だけど不必要は義務であれ義務足り得ない。とかなんとか御託は述べられるけど、結局今を生きるために必要なことだけが意識されて、あとはどうでもいいんだよ。必要なことさえどうでもいいかもしれない。君に言ってもしょうがないけど、僕はこのまま生活に没して、大した面白みもなく死ぬだろう。よりよく生きるための知恵として自己啓発本を読んで得々としているけど、用意された場から逃げられないことは初めから分かってる。抵抗虚しく既定路線へ回収されるって分かってる。この普通じゃない共棲関係も永続しない、小さな逸脱もやがては終わるだろう。その先には無罪放免があるのかもしれないし、刑期が待っているのかもしれない。そのどちらであっても、僕は結局のところ用意された場で生きるしかないんだよ。君がそんなに自意識を拗らせているのは結局」

 君が少女だからだよ。

 言い終わると羽山は、お風呂入るから、と引き戸を閉め、その直前、薄く空いた戸口から、今日は疲れてるからしない、早いとこ寝るよ、と言って廊下に消えた。

 まだ興奮に顔が紅潮しているのを感じる。すぐには引きそうにない。自分の抗弁の趣旨ももはや定かでなくなっている、羽山への敵意迸るままに吐き出した言葉にまとまりがあったのかも分からない。でも、私は負けたくない、負けないんだ、という強い思いは、高鳴る鼓動として身内に残っている。

 片刃のナイフを丁寧に研ぐように、私は繰り返し繰り返し海水浴場絡みの情報に目を通し、心が精錬されるのを待った。

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