第9話

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 秋雨の街をうろついて部屋に戻ると、まだ午後二時をわずかに過ぎたばかりだった。時間がのし棒に圧せられたがごとく長く細く伸びていた。一日一日の意味が希薄になっている。

 空港を設置した時点でなぜだか急にゲームへの食指が伸びなくなった。指を動かそうにも気持ちがついていかない、一歩を踏み出す気力の失せた状態。仕事を失った私は、また新たな目標を掲げなければならなくなり、結果掲げたのが、観光、という安直な発想だった。

 観光と言っても遠出するわけでなく、アパートから二駅以内の近場をうろつくだけの話で、散策と呼ぶ方がしっくりくるかもしれない。ゲームで得た知識を基にした、逆に言えばその程度の知識による、目的意識のない戯れのそぞろ歩きは、たいして時間を費消せず、気づけばアパートへ足が向かうことも多かった。

 雨傘を畳みながら、本日の踏果を振り返る。

 羽山と住む町、と言うとどこか気持ち悪いのだが、この町には大きくて有名な、つまり集客力のある観光スポットがあった。元は一企業の土地を開発して美術館や映画館、デパートにお洒落な飲食店を集めた、商業で成り立つこの町の象徴のような場所。地面はタイル張り、建物は赤レンガや大理石を用いて洋風に仕上げてある。建設当時のお洒落とは西洋の模倣であり、和風を掲げる昨今とのずれに時代を感じるが、それでもそこは十分にお洒落で粋で、がため地元だけでなく余所の住民を集めることに成功していた。

 大型商業施設が建つと人々が流入し、宅地の奪い合いとなって地価が上がり、結果、富者は直下に住んで中間所得層はドーナツ状に住宅の輪を作る。彼らを税収に巻き込めれば行政の資産は雪だるまのように膨張し、あるいは取り漏らしたとしても彼らは大型商業施設に移動して金銭を費消するため、結局は財政が潤う仕組みになっている。大袈裟に言うと、その大型商業施設は人々の形ある夢と希望だった。

 裾が雨に濡れたスカートを脱ぎ、部屋着のスウェットパンツに穿き替える。スカートは洋室のカーテンレールにハンガーを引っかけて干す。冷房の除湿機能のためか、洗濯機前のランドリーラックに掛けるより早く乾く。いつの間にか、洗濯物が乾かない時期が迫りつつある。何もせずとも乾いていた季節は終わりに向かい、では、私は何かしら移ろっているのか。

 洗面所へ移動し、備え付けられた鏡で自分を見る。身長が伸びたわけでもない、髪が金だの茶だのに染まったわけでもない、金太郎飴の切り口のように代わり映えしない自分が連続していた。洋室に戻り、クローゼットに吊った花柄ワンピースを身に着け再び鏡の前に立つ。初めてこの町に来た時の高揚と期待は失われ、無理に背伸びした結果ちぐはぐになってしまった少女が映っている。自宅で見たのと同じ光景だ。

 立ち眩みしてその場にしゃがむ。遠くに電車の走る音。その音を耐え忍び、再び立って、洋室で部屋着に着替え直し、しばらく惑ってから座卓のパソコンの前に腰を下ろす。

 電源を入れ、パスワードを入力する。立ち上がりの遅いパソコンにイライラし、台所に立って以前買ったキットカットの残りを持ってくる。包装を解いたそれは指に触れると表層のチョコレートが溶けてぬめる。すぐに口に放り込んで咀嚼する、と、甘さと噛み応えが口中に広がり、急激に気分が解けていく。私の好物で、母は家に常備していた。幼稚園の頃からだそうで、聞いた話によると、私がスーパーの棚の前にしゃがみ込み、説得する母に一切耳を貸さずに買って買ってと駄々を捏ねたのだという。記憶にないが、味わうに、まだ分別を持たない幼い自分がキットカットのために暴れたとしても不思議ではなかった。純粋に美味しいのだ。

 少し余裕のできた心で、右手にマウスを持ち、左手の、羽山所有の少し古くなった授業用の地図帳を開く。もう一つの仕事、卓上旅行の始まりだ。今日はどの町にしよう。

 近郊の都市を、まずは地図帳でじっくり俯瞰し、それから一つ選び出した市町村名をネット検索に掛ける。外部者が作ったであろう観光案内に目を通してその町の売りを知り、今度は自治体の公式ホームページを訪ねて、改めて観光情報を調べる。自治体としては売り出しているものが、余所の人からはさして魅力的に見えていないことが分かったり、逆に、公式の情報がないものに余所の人が興味を示している、価値を見出してそれ目当てに群がっていることが分かる。もちろん、共通して挙げられている観光地や名産品もある。自他ともに認める魅力というやつだ。

 続いては自治体やウィキペディアが語るその市町村の特色を読み、概略を掴んでからグーグルアースで町を見る。ここは工場主体、だの、近隣へ労働力を輸出するためのベッドタウン、だの、集客力のある商業地の立地、だの、正解かは分からないが町の性質を読み取る。町の仕組みを知る。

 そして最後に自治体の作った人口動態を見る。労働人口の規模、これから介護が必要となるであろう高齢者の数、出生者数から死亡者数を引いた自然増減など。少子化の昨今、たいていの市町村は人口が減少していた。それは税収減を暗示しており、将来的に財政の逼迫に結び付くに違いなかった。現状が続けばいずれその自治体は衰弱し、死ぬ。足掻かなければ未来はない。

 限界集落という言葉を知った。高齢者が人口の半数を占めるようになり、目立った産業もないから生産人口も伸びることはなく、人口の漸減のため共同体は次第に解体され、そしてあとは死を待つだけの集落。

 消滅可能性都市、という言葉もあると知った。ざっくり言うと、子供を産める年齢の女性が五割以下に減ることで転入以外での人口増が難しく将来的に人口の急減が約束された都市のこと、だろうか、定義を簡略に伝えるのは難しいが、要するにこのまま行くと人口が減っていくばかりで最後は消滅してしまう都市のことだ。

 高福祉等を訴え自治体間で人という牌の激しい奪い合いが行われている現代日本。そういう観点ではどの市町村も立ち止まっていない、だが、日本の人口規模が緩やかな縮小傾向にある中で、いかに他から簒奪してもやがて住む人間は減っていくだろう。そして一定数を下回れば否応なしにその自治体は破綻してしまう。ばちばち苛烈に弾けながらも数秒後には落ちる線香花火のようなものだ。いや手持ち花火ぐらいの時間的猶予はあるかもしれないが。

 とにかく、限界集落や消滅可能性都市というレッテルは、現代の最前線であり、また死の宣告のようなものだった。あなたこのままじゃ死にますよ、という医師の勧告。そんな無慈悲な慈悲のような標識が、電車で行ける範囲の市に立てられていると、今、何気なく繰った地図帳に載る市名をネットで調べて、知った。

 隣接する県の、東西に長く伸びた西の先、その最南端に突き出した半島の、港町。外の者が都会的イメージで語る県の、その中で唯一の、死にますよと宣告された市。皆が未来を紡ぐ中で、一人消え行く運命の町。

 キットカットをもう一袋、指に溶けたチョコレートを吸いながら、情報収集する。

 観光案内を見るに、夏場の海水浴場としての印象が強く、他にも漁港ならではのグルメもあるらしいが鉄道が半島の中途で途絶え車がなければバスでの移動となり率直に言って不便だ。不便な立地に人は集まらない。と、余所の人の視点で考え、今度は内の人として何か産業があるか調べる。農業はある。漁業もないではない。が、産業が決定的にない。近年自動車工場が撤退したことが消滅可能性都市へと終息する引き金を引いたらしい。となると、何かしらの工場を誘致しない限りは人口は増加に転じず、人口が乏しいならば労働者も少ないので工場を建てるメリットもなく、という葛藤の中に減り続ける税収という要素が入り込んで財政負のスパイラルが形成される。息が苦しくなっていく市の公務員の努力を思うと、無性に切なくなった。人口減少の波に抗えず、公の場から消滅してしまう運命にある町。

 オートフォーカスの焦点が合った瞬間のように、この町に吸い寄せられる自分を感じる。町をこの目で見てみたい、と思う。消滅という運命に抗うか恭順するのか。その行く先を知りたい、と思う。マウスをカチカチ操作して乗換案内を調べ、電車を乗り継いで行ける場所であることを再確認する。さて、その南端の、新鮮な魚を売りにした漁港に行くべきか、それとも夏に大賑わいする浜辺を視察すべきか。画像を漁り、その町の象徴が何か見極める。海鮮丼ばかり出てくる漁港と、パラソルの立つリゾートを演出するビーチ。食の観点なら漁港だが、町の象徴は間違いなく海水浴場だった。

 突き出た半島の西側と東側とに位置する海浜の、最も有名そうでアクセスの良い東側の浜に目をつける。消滅可能性都市において最も価値のある、希望の象徴であり、それでいて衰亡する市を救い切る力のない、非力な英雄の肖像。盛夏には若々しいその肉体も、九月を迎えた今、輝きを失い、多くの海がそうであるようにただの広い砂浜に成り下がり、祭りの終焉を露呈しているだろうか。それともまだ人を惹きつけるだけの、運命を覆せるだけの力をその身に蓄えて躍動しているだろうか。

 冷房の送風音がする。目を閉じると潮騒に変わる。子供の頃、父に連れて行ってもらった海水浴場の情景が瞼の裏に浮かぶ。賑わう中私は、砂浜にシートを敷いて座り、波間にクロールで泳ぐ父を眺めていた。母はいない。妹は、いたはずだが記憶がない。盆を過ぎるとクラゲが出て危ないと聞かされていたので、私は最後まで海水に入ろうとしなかった。カツオノエボシの奇妙な造形ばかり思い浮かべていた。晩夏の海の感触を、だから私は知らない。

 確たる理由もなく漠然とだが、そこが私の家出の、本当の終着点のような気がした。その浜で、私の夏は終わる。そこに在るのが、運命への屈従なのか、叛逆なのか、それは知らない。分からない。それを確かめに私は行くのだ。

 冷房の送風が止まると、線香の煙のごとく淡い、秋雨の音が聞こえてきた。

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