第7話

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 自分で言うのもおこがましいが、私は手のかからない子だった。取り立てて優秀なわけでもなかったが、公立の進学校に通い、成績は中の上あるいは上の下くらい、多数いるわけではないが小規模の友人と深くつながり、いじめとは無縁、学校生活にさしたる不自由はなく、では家庭環境はというと別に崩壊していたわけでもなく両親不仲なわけでもなく父母妹との四人暮らしを世の通常の四人暮らし家庭と同様に営み、つまりは、至極平均的な、ありふれた、普通の女の子だった。宿題はやるし、携帯も躾けられたので食事中はいじらない、午後九時以降は使わないルールであるからには従う。凡そ家出という不良行為とは遠い子。

 屈折も鬱屈も、自覚できる範囲では特に感じず、毎日を規則正しく過ごすことに何ら疑問もない。こてこての合理主義者、などと、自分の人生に思想を付与できるほど確たる生き方もしていない、主義主張のない子供。ではあったが。

 私が高校一年の、六月の話だ。

 朝、半回転して下る階段をとぼとぼと下りるうちに、居間から一種異様の気配を察知し、誰かが誰かに怒られてるな、なんだろう、と寝ぼけ眼をこすりながら開きっ放しのドアをくぐると、母と、見たこともない中肉中背の金髪少女が怒気露わに対峙していた。入ってきた私を認めて、食卓で朝ご飯を前に座る父が、おはようと言わずに、映画上映中に画面手前を横切る人のような遠慮具合で、おぅ、と言った。ちらと横目で挨拶して、すぐに対峙する二人に目を戻す。そこでようやく私は、金髪少女が自分の妹であると知った。

 母が私に気づいて、自分の精神的優位を示すようにおおらかにおはよう紅花と言う。妹は私を見ずにその場で腕組みして立ち尽くしている。朝のクリアな光に照らされて金髪が宙に透けているように見える。

 何かしらの言葉を妹に掛けなければならない。自分がどういう立場、見解を取るのか私は試されている。それは理解できたが咄嗟に浮かぶ言葉がなく、私は最もニュートラルで間抜けな言葉、「どうしたの?」を口にしてしまった。

「柚子がね」不承不承という感じで、全ての責は妹にあるというニュアンスを多分に含めて、母が語り出す。「昨日、私たちが皆寝静まった後、だから深夜ね、深夜に、洗面台で髪を金色に染めたんだって。それで」失笑するように妹を見下ろす。「こんな髪の色してるの」

 言われて妹は、反抗するように母を睨みつけた。母はその姿勢を込みで馬鹿にしてかかる。「何よ、そんな目をしたって、全部あなたが悪いんでしょう。そんなことしたってしょうがないじゃない」

 ねえ、と母が私に意見を振る。私は選ばなければならない、妹の側に立つか母に与するか。妹はふいと顔を背けた。初めて染めるにしては出来栄えの良い、染め漏らしのない綺麗な金髪だった。

 考え考え、言葉を紡ぐ。「なんていうか、突然すぎてついていけないんだけど……柚子も学校でなんかあったんじゃないの? ほら、仲のいい友達が髪染めたとか」

「友達が染めたからって自分も染めるわけ?」母が強い調子で問う。

「いや、そういうんじゃないけど」なぜか尻込みしてしまう。

「こんな髪で登校してみなさいよ、先生に怒られるどころじゃないわよ、世間からも物笑いよ、いきなり金髪だなんて」

 なぜか私が詰問されている構図となり、少なからず苛立ってしまう。「ねえ」と妹に問う。「なんで金髪に染めたの? なんか理由あったんじゃない?」

 妹は小刻みに肩を震わせ、しかし何も言わない。「ねえ、黙ってたら何にも分かんないんだけど」と促してもやはり何も言わない。「ねえったら」それでも何も言わず黙す。大きく鼻息を吐いて、母に向かって肩を竦めてみせる。母が引き取る。

「柚子。午前中は学校休みなさい。家で反省してなさい。それで、私が近くのドラッグストアで染料買ってくるから、買ってきたらあなた、それで黒く染め直しなさい。分かった?」

 少し優しめの、諫める調子の母の分かった?に、しかし妹は真向噛みついた。

「別にいいじゃない! もう中学一年生だもん! 自分の好き勝手に髪染めたって、自由じゃない!」

「まだ中学一年生でしょう!」妹の反駁は母の鎮火しかけた怒りに燃料と酸素を注いだ。「中学一年生が髪を染めるなんて、しかも金髪に染めるなんて初めて聞いたわよ! 何が自由よ! もっと歳取ってからにしなさい!」

「お母さんの白髪染めはいいわけ?」

「はあ? 何を言ってるの! それとこれは関係ないでしょう!」

「お母さんが染めててあたしが染めちゃいけないっていうほうがおかしいじゃない! ずるい!」

「ずるいじゃないわよ! あなたのやってることが間違ってるから言ってるんじゃない!」

「だからなんで私が私の好きなようにしたら駄目なの? 自由だっていうことへの答えにはなってないと思うんですけど!」

「自分のこと自分でできないあなたが自由を主張できるわけがないでしょう! 掃除も洗濯も、ご飯作るのもしないあなたに自由を唱える権利はありません!」

「じゃあご飯自分で作るから! 今から毎日自分で作ります!」

「じゃあ作りなさいよ、もう知らない!」

 母の屁理屈を同じような屁理屈でやり込めた妹は、動物園に見た獣舎に荒れ狂うライオンのように目が炯々としていた。金髪も加わって獣然としていた。口での戦いに負けた母は、しかし言質を取ったので悠々と、自分が全く正しいのだという態度で自活能力のない中学一年生の妹の朝食を片付ける。躊躇いなく三角コーナーに放り込まれる食物に心が痛む。が、お互い興奮しているのだから第三者に仲裁などできない、下手に触れるとこちらまで火傷する。

 母の無言の合図に従い着席して朝食を食べる。目玉焼きの黄身は半熟で、切るととろりと橙色が流れ出す。背中を向けた妹が、いずれ困窮して泣き出すのは目に見えている、どれだけ長く続くかという点以外に面白みはまるでない。約束された負け試合に、父は興味もなさげに顔を俯け淡々と朝食を摂っている。母はまだ怒りに支配されている様子で、力を込めてトーストにジャムを塗っていた。

 特別主義主張のない私だったが、あるいは特別主義主張がない分、中身のない主張が嫌いだった。自由だか何だか知らないが、反抗の先にいったい何があるのか。叱責の対価として、いったい何を勝ち取ったというのか。ただの金髪だ。金にも勲章にもならない、どちらかというと周囲からの評価を下げる金髪のみだ。どこに利益がある? 本人が満足するだけだ。自己満足だ。金髪に染めました。ふーん、それで? その先に何かあるんスか?

 朝食を終え、母は食器を洗い始め、父は会社に向かう準備を始める。私は決め事通り飼い犬のタロウに餌を運ぶ。妹には目もくれない。

 掃き出し窓の延長に築かれた縁側に餌箱を置き、その横に座る。縁側に上がったタロウが餌箱に突進するように首を突っ込み、勢いよくご飯を平らげていく。光加減によっては金色に見えなくもない毛並みは加齢により艶を失い、家族の誰よりも老衰の影を感じる。触るとごわごわとして、流行りのモフモフからは程遠いが形容しがたい癒しを得られる点ではまだ現役だ。

「いっぱい食べなよー」

 撫でながら言う言葉に、妹への皮肉がないわけではない。妹のヘタレ具合からして、もって三日かな、と思う。三日坊主を発案した人はよほど聡明だったのだろうと思う。如何なる気紛れも三日を越えては継続しない。その気紛れが無意味だということを悟るからだ。

 餌を食べきったタロウは上機嫌で顔を上げ、へっへっへ、と舌を垂らしている。美味しかったねー、と頭を撫でていると出し抜けに、股間から尿が放出され始め縁側を濡らす。ばねが跳ねるように飛び去って私は、自分が今さっきまで座っていた場所が尿に浸潤される場面を見る。危なかった、と思い、思わず「こらっ!」とタロウを怒鳴りつける。タロウは私を見上げ、ベロを出して無邪気に呼吸している。怒られていることさえ分かっていない様子だった。もう、と湿ったため息を吐き出し、私は水で尿を希釈すべくバケツを取りに風呂場へ向かった。

 思うに、自由だ、と漠然とした理由を宣言していた妹の髪染めの、その行動の根幹は、私のこの家出と繋がっているのだと思う。過激さの違いはあれど、その行動にはよく似た衝動があったに違いない。それを名状する的確な言葉は見つからないけれど。

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