第6話
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複雑な心持ちで南進する。真昼の街は陽光を直射されて密閉した車のダッシュボードのように熱を溜め込んで暑い。軽装の人々が逃げ去るように足早に道を行く。男は無言で俯き加減に、女はカツカツヒールの音を立てる。皆がどこか苛立ったような、進みの速い、そんな都会に自分も馴染み、少しばかり歳を加えたような気分になっていた。
立ち寄ったコンビニで何食わぬ顔で煙草を注文すると店員は一瞬怪訝な顔つきとなり、値踏みするように私を上下に眺めたが、年齢確認のボタンを押させるだけでそれ以上要求せず煙草をよこした。こけおどしに例の売女に見える花柄ワンピースを着て多少の化粧を施して、といった小細工を行おうとも考えたが却って背伸びしている印象を与える恐れがあるのと、単純に今の自分が他人にどう見えているのかを知りたくて、家から持ち出した普段着で挑んだ。
煙草をポケットに詰め、戦果を上げた兵士の高揚を胸に、次は居酒屋に入れるか試そうとした、が、昼から営業している数少ない店に狙いを定めて突入した出入口すぐのカウンターで、店員に身分証の提示を求められてまごついてしまった。学生証は当然のこととして、保険証も足がつくとまずいので実家に置いてきた、となると、今現在の私を証明する公的書類が一切ないのだと気づく。私は透明なのだ。実体のない、幽霊同然。実際、警察も誰も私に気づかない。
逃げるように店を出た私は店員の目にどう映ったのだろうか。背伸びして酒を飲みに来た不良。勘違いして迷い込んだ子供。あるいは、お店の作法を知らぬまま門を叩いた田舎娘。それとも、実は少なくない数の家出娘が私のような行動に出て逃げ帰っているのだろうか。
複雑な心持ちでいると気分がざわついてくる、平衡を失い感情の揺れ幅が増す。じりじり肌と髪を焼く夏の日差しを避けるように足早に歩く様は、ゴキブリが殺虫剤の噴霧から逃げる時に似て惨めだ。絶対に叶わない強敵から一方的に振るわれる暴力は憎悪と卑屈とを生む。負けを受け入れる心と、それでもどこかで相手を拒絶してやろうという思い。いかに自由を与えられようと飼われる側でしかない私と飼う側の羽山の、平等に見えてやはり支配が根底にある力関係。とすると、羽山が太陽? 太陽が植物の光合成を助けるように、羽山は私の生活費と宿を提供してくれている? 冗談じゃない、提供してくれている、だなんて、私は決して隷属はしない。
思考を切り替えようと頭を振り、この街の構造について思いを巡らす。中心街の大半は飲み屋で、大手チェーンの飲食店も散在し、あとは会社の入ったビルが混在している以外はほとんど何もない、要するに飲食店と会社の二種類しかない。だが通り二つぐらい隔てると整った住宅地が現れる。この街が流入する人間だけをあてにした外行きの街ではないと知れる。この街にも生活がある、けれどそれが隠されている。所帯染みた空気を排し煌びやかな浮つきだけを掬い取ろうというコンセプトなのだ、おそらく。
一度、この都市の造りを見よう見まねでそのまま町作りゲーム上に再現したことがある。作ってすぐはお約束のごとく見目に楽しい建造物が建ち上がるのだがすぐに機能不全に陥り廃屋ばかりとなる。この街は、私やゲームに瑕疵がないのであれば、破綻している。
偽りで成り立つ町。在るけど無い町。この町は生きた廃墟で、私のような透明人間にはお似合いの都市なのかもしれない。
暑っ、と文句を言いながら大通りを渡りすぐ右折、飲食店を左手に見ながら通り過ぎ次の交差点で左折ししばらく直進するとこの間食品を買ったスーパーが右手に現れる。生活が顔を覗かせ、進めば再び飲食店がハレを演出するが三つ目の交差点を右に折れるとそこは住宅地で否応なく生活だった。
乏しい日陰に張り付くようにして歩くサラリーマン風とすれ違う。スマホを耳に、顔を歪めて歩く。私も歪んだ顔をしているのだろうか。路駐のワゴン車の窓に映り込む自分の表情は暗く沈んでよく見えない、羽山の部屋の鏡に見る自分は少し擦れて見えた。生き方は顔に出るというが、鑑定士ならば私の顔を見てどんなレッテルを貼るのだろう。家出娘か。それとも、暑そうな顔、みたいな薄っぺらな形容か。凡庸で空洞の私に貼るべき札はあるのか。
しばらく進むと夏日を照り返す木々の緑が見え、活き活きとした蝉の鳴き声が聞こえる。ジーという暑苦しい声がふと私を地元へ連れ帰る。アブラゼミの鳴く季節を終えない限り、私は籠の外へは出られないのかもしれない。
デニム生地の短パンに入れたスマホに手を遣る。取り出した固くてでかい御守りは手にすっくり馴染む。前々からの癖で反射的にホームボタンに指を置いてしまうが電源は入れていないので何も起きない、真っ暗な画面が陽を照り返して白く光るだけだ。
暗闇と光の向こうに、友達を思う。父が英国人のエレンは、将来英国に戻るつもりなのだろうか。夏期講習のビラをくれた萌子は、入塾して一日八時間以上勉強するとして、どこを目的地と定めているのだろうか。里ちゃんは、あの子は一生気弱に微笑んで、用意された環境を生き続けるのだろうか。里ちゃんは将来引きこもりになりそうな気がする、彼女には人生を切り拓くだけの膂力がない。それとも、白馬の王子様が彼女を絶望の沼から救い上げてくれるのか。
今、このスマホの電源を入れたらラインやらメールの連絡が一気に来るのだろうか。溜まっていた分が、堤防を破壊した濁流のように流入するのか、はたまた堤防に穴が開いても流入する何ものもないのか。分からない。ただ、誰か一人ぐらいは連絡をくれているだろうとも思う。電気信号に変換された文字が私の元に届く。現世と接点を持った私は透明でなくなり、実体を持ち、そして今度こそ警察に捕まるのかもしれない。警察の部分は分からないが、繋がりは復活する。その時私は在る。この世に在るのだ。だが、それが私の行くべき道なのか。
コンクリ塀の上にあった緑の柵が、緩やかな坂道を行くうちに高度を下げてやがて横並びとなり、それが途切れた先に砂地の公園が現れる。数段下りてクリーム色の硬く踏みしめられた地面に立つ。近隣住民だろう、まだ卒園前と思しき幼児たちがきんきんの歓声を上げて互いを追い回し、離れた緑陰で彼らの母親と思しき女性たちが談笑している。子供は子供で、大人は大人で各々の世界に没入している様を遠目に眺め、私は園内の、動物を模した座り物に腰掛ける。
今は夏休みだ、子供が元気に外で遊ぶ時節だ。だが、それもいつしか終わり、学校という制度に吸引される。目の前のボールを追いかけるのに夢中な子供たちも、大人の誰かがある日、今日から学校ですよ、と声を掛ければ何の疑問もなく登校し始めるだろう。既定路線へと回収されるのだ。その力は強力で、偽りを許さない。たとえ母がブログ上で嘘の日常を書き連ねようと、二学期が始まって数日経てば誰だって異常に気付く、お休みでやり過ごせるほどサーチライトの光は弱々しくないはずだ。
この脱出はリベリオンと同じで、最初から失敗が織り込まれている。いずれ連れ戻されるのならば初めから家出なんてしないほうが合理的精神に適っているだろう。無意味に傷つく危険性もない。けど。
たとえ仮初めであれ、一瞬のうたかたであれ、私は今、夏の空気を肺に吸い込み、その明度と湿度とを感覚している。分かりやすく言えば、生きている。状況が変わっただけで空気自体が変わったわけではない、それでも、他の何ものでもない自分の生を生きているような気がするのだ。
八月も末の、しかしまだ秋の兆しも見えない真夏と大差ない炎天下にいると自然と汗ばむ。その汗を不快にも快にも感じながら、脱水で倒れないよう自販機に飲み物を買いに行く。強烈な炭酸飲料をごくごくと喉を鳴らして飲み、痛みに似た何かに小さな愉悦を感じていると、幼児の一人が転んだらしく、泣き声が始まり、一拍遅れて母親たちのあやす声が聞こえる。
はいはいはい、よーしよーし、痛かったねー、痛かったねー。
私は、断りを入れるまでもなく禁煙であることが明白な園内で、急に煙草が吸ってみたくなった。動物の座り物へ戻りその背に缶飲料を置き、ポケットから煙草の箱を取り出す。何となしに聞き知っていた品の、透明のビニールを剥ぐまでは分かるがそこから先のクールな開け方が分からない。部屋に戻ってネットで調べて、と考え、いいやと首を振り思うままに開いてみる。上部三分の一の銀紙が破け、煙草が数本覗いている。箱を横に倒して、振って出てこないか試すが反応は悪い、指で摘まんで引き出そうにも爪が引っ掛からない。次第にイライラして指で箱を弾いていたら注射器のピストンを押したかのようにするりと一本競り上がってきた。手に取り、いざ吹かしてみようという段になってようやく、着火物がないことに気づいた。間抜けだな、と鼻で笑ってしまう。私は煙草を箱に無理やりに押し込み、ポケットに仕舞った。
子供らに目を向けると、泣く幼児一人を母親が取り囲み宥める中、他の幼児は退屈になったのか泣く子を除いてまた駆け回り始めていた。
行くか、と、炭酸飲料を無理に飲み干し、園内のごみ箱に捨ててまた町を彷徨い歩くことにした。
家に戻ってパソコンを立ち上げる。新しく作ったツイッターアカウントにダイレクトメッセージが来ている。町作りゲームの愛好者を探るうちに出会った相手からだった。『宵山の花子』。レトロゲームマニアを自称し、羽山のパソコンに入ったその他ゲームの名もたいてい知っていた。町作りゲームの、ピンポイントで訊きたいことを具体例で教えてくれる、非常に助かる存在で、おかげで町は順調に発展している。近頃廃屋を目にするのも稀になった。
『前から気になってたんだけど、昼間でもやり取りできるのって、もしかして夏休み中の学生なんですか?』
どこか舌足らずな印象の文章だった。欲しいのは攻略情報だけだったので相手の人物像なんて気にならなかったし、当然自らが何者かを名乗るつもりもさらさらなかった。
注意深く、返す。
『十八歳。高卒。無職』
実際のところ学生でなく無職なのだから、年齢は鯖を読んだとしても職業はこれ以上ない的確な回答だった。
しばらく待つとまたメッセージが来た。
『私は、十七歳。高校二年生なんだけど、不登校なの』
同世代だった。俄かには信じられなかったが、心の壁に穴が開いたような気はした。流行りの話を振っても、皆が教室で話していたようなことばかり言う。これは、真実の可能性もあるな、と顎をさすりながら、こちらの手は明かさずに相手の情報を深堀りしていった。
帰宅した羽山は私とパソコンを見て、あの町作るゲームやってるのか、意外と楽しいんだよな、と言った。羽山の来歴も気にはなったが、彼と深く結びつくつもりはないので、ですね、とだけ返した。
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