第4話

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 羽山は変態性欲者だったが綺麗好きだった。あるいは綺麗好きだったが変態性欲者だった。その二つの命題に連関はないのかもしれないが。

 朝食。羽山は冷凍していた食パンを一枚、とろけるチーズを乗せてトースターで焼き、水で洗った後キッチンペーパーで水気を拭いたミニトマト数粒を小鉢に盛って、さらには「動物性たんぱく質が必要だから」と茹でたソーセージも追加して、食器の外を汚すことなく食べきると鍋や私の分の皿やフォークも併せて丁寧に洗剤とスポンジで洗い、台所用布巾で水分を拭き取って元の棚に戻した。羽山の出勤時間はそれほど早くないもののそれら作業を毎朝欠かさず行うのだと言う。帰ってからまとめて洗うなどという選択肢はあり得ない、時間がかかろうと必ず洗わなければ気が済まないのだそうだ。きちっと整頓され秩序だった座卓の上を見るからに几帳面な性格は予測できたがもはや拘りと記したほうがよい強迫観念が彼の内にはあるようだった。

 別に、暴力を振るうような男にも見えないが、暗黙のルールというものが世にはある、この住宅の主は羽山なのだから私も彼が定めた規則には可能な限り従うことにする。彼の綺麗好きを汲んで掛布団と敷布団を折り畳んで押入に収納し、使ったシーツや枕カバーも洗うことにした。一人前を想定したランドリーラックに私の分の洗濯物も併せて干すのは空間の使い方にかなりの工夫を要したが無理に詰めて干した。密集しすぎて乾きづらいだろうがまだ夏の現在ならば多少の無茶も通るだろう。と考えて、ふと思う。私は、洗濯物が乾かなくなる頃までこの家に居るのだろうか。

 洗濯物の配置を終えると早九時半を過ぎていた。洋室に座り、窓から僅かに入る朝日を見つめる。ベランダもなく二階建ての住宅に面した窓を、羽山は遮光カーテンで覆わなかった。他人に覗き込まれて私の存在が知れるとまずいと思わないのか、未成年の実質誘拐をしているというのにどこか他人事の、妙に強気で不遜なところがある。近隣住民に発見されたその時は親戚の子とでも言い逃れようつもりなのか。あるいは、都会には近所の目という監視能力が働かないのかもしれない、住民皆没交渉の没干渉、この部屋に女の子が生活していると知って、だからといってどうしようという気もない、すべて羽山の勝手であるから放置するのかもしれない。それはそれで自由だとも思う。近所の誰一人として束縛しない。あの子はどうだからこうだ、などと言わない。雲が太陽に重なったか薄暗くなる。

 今頃我が家は大騒ぎだろうか。外泊の際は必ず理由と所在とを告げてきたし要のスマホも通じないのでこれがただの外出でないと理解はしているはずだ。たかが一日と様子を見ているだろうか、それとも警察に失踪届だか捜索願だかを提出したのだろうか。失踪届も捜索願も何が違うのか分からないが、何かしら警察に連絡がいって動いているのだろうか、例えば、道を歩いていたら近くにパトカーが止まって警察官が下りてきて職務質問されたり、実は玄関ドアの外に突入のタイミングを計る警察官が待機していたり。

 考えると急に落ち着かなくなり、玄関ドアにとりつき、耳を押し当て外の様子を窺う。が、当然そんな小細工で外の状況が分かるはずもなく、ただ金属の無が聞こえるだけだ。重い沈黙。しばらく逡巡したが、思い切ってドアを開けて外に顔を突き出してみた。夏の眩い日差しがコンクリートの前庭に降り注ぎ、細い道路のアスファルトは水気のすべて蒸発してしまったように乾き熱で空気を揺るがせていた。其処此処から人工的に固めた地面の間隙をついて雑草が生えている。夜には見えなかった詳細だった。

 ドアを閉じ、暗い玄関を離れ洋室へ、ベッドに飛び込もうとして羽山の綺麗好きの習性を思い出し、考え直してフローリングの床に倒れ込んだ。肌から吸熱される感覚がある。少しほっとする。神経質になりすぎているのかもしれない。

 いつまでも這いつくばっていても仕方ない、起き上がって私は、吸い寄せられるように羽山の本棚の前に立った。その人を知る上でどんな本を所持しているかを把握するのはある程度有効なやり方だと思う。

 塾講師らしく高校生の教科書が最上段に並び、二段目の中盤まで続いている。そこから先は自己啓発本が延々と並んでいた。こうしろだの、ああしろだの説く本。裏付けはないがより良い人生を歩むための道筋を教える本。

 羽山はどういう意図でこれら自己啓発本を揃えたのか。自らの道を照らす灯台としてなのか、それとも楽する方法を見つけるための裏ワザとしてなのか。羽山が欲しいのはいったい何なのか。よく知らない女子高生を連れ込むというリスクを冒して羽山が欲するものは、何か。下段最後尾に並んだ漫画が他人の部屋を穴から覗き込む作品で、性的ニュアンスの強かったためそういう意味で私が呼ばれたことは把握できた。

 羽山の人となりは、一緒に過ごすうちに自然と知れるだろう。

 さて、これからどうするか。

 思いついたことはただ一つ。ずっとこの部屋に閉じこもるわけにもいかないのだから、外に出よう、ということだった。

 洋室の、座卓の小物を閲する。筆入れにリモコン置き、三センチ程度の高さの四角い缶の中には買い物で常用しないポイントカードが並べられ、捨てればいいような、どうせ貯まらないラーメン屋のスタンプカードも保存されていた。その中にはまた大小の鍵がいくつも入っていた。バッグのファスナー同士を閉じる南京錠用の小さな金属鍵、自転車用らしき予備の鍵、それから用途不明の鍵のいくつかの中に住宅用と思しきサイズの鍵が三本ある。そのうちの一つがこの部屋の鍵だろうと考え、ドアが閉まるか試した。極一般的な、と形容するしかない特徴のない鍵がシリンダーにすっと刺さり、半回転してドアを施錠した。ノブを捻りながら力任せに引っ張ったががつんがつん鳴って開かないからには閉めることに成功したのだ。

 開錠して一度中に戻り、何が入っているでもないハンドバッグをとりあえず肘に下げ、部屋を出て鍵を再度閉める。かちゃ、と手応えがあった。

 まずは位置の把握から始めた。ほんの近場を歩き回り、どこに家があるのか覚え込んだ。そこから昨日の記憶を頼りに駅へ向かう。線路沿いを行けば迷うことなくたどり着けた。次に駅から家までの間を、道を変えて往復し、何があるかを凡そ頭の中に入れる。高級そうなレストランが多く開店する中に唐突にコンビニがあり、横道にはマンションや会社の入ったビルが建ち並ぶ。本格的に賑わうのは夜に違いなく、まだ昼前の時間帯では往来に活気がなかったが、それでも誰かしらが忙しそうに風を切って歩いていた。

 行動範囲を広げる前に、通過儀礼のように済ませなければ先に進めないことがあった。交番の前を通ることだ。駅前ロータリーを過ぎて北、駅を東西に分ける高架鉄道の下を潜るほんの手前の片隅に、頭蓋を突き出すような不思議な形の交番が建っている。雑踏の中心から少し外れて、しかしその存在を確かに匂わすように。

 私は怖気づいて何度も引き返そうと思いながらも自らを鼓舞して交番の前を通った。警察官が一人、背筋を伸ばして不動の姿勢で揺るぎなく往来を睨んでいた。一度目の前を通り過ぎて高架下に入る。何も起きない。ざわめく心を落ち着かせるため寸暇、それからまたのこのこと交番の前を通り、ロータリーまで歩く。確実に警察官の視界に入ったはずだが呼び止められなかった。虚脱と共にベンチに腰掛ける。忙しそうな人々の中に、自分だけ、一分一秒がいやに間延びしたような感覚がしていた。

 あとは非常に伸びやかな心持ちだった。誰も私を見ていない。好きなように振る舞えばよい。駅前のデパートに入り、無目的に逍遥して何も買わず出て、入り口にアーチのかかった、居酒屋の看板がひしめく商店街らしき通りを行く。時間帯のせいだろうが、大都会の割に寂しい通りだった。人の行き交いのみに着眼すると地元のシャッター街とさして差がないように思えた。

 直進すると大きな道路と交差し、信号を渡って左に進行方向を変えた。おそらく南に向かっているはずで、このまま直進すれば今朝歩いた家周辺の道と接続するだろう。夏の日差しが降り注いで、街路樹に蝉が鳴いている、ありふれた景色だった。

 ふと、右手に目が行く。外観はお洒落だが陳列を見るに敷居の高くない、安衣料に身を包んだ者や購買力のない高校生の私を排斥しない様子のスーパーがある。その態度が妙に心地良く、私は先導車に誘導される駅伝選手のごとく躊躇いなく中へと入った。

 手頃な値段の野菜、パックに封入されたできたてでないお惣菜、その他食品が視野に入るがせこせこしていないとでも言えばよいのか、陳列に窮屈な感じがなくゆったりした気持ちで売り場を見て回れる。値段も駅前デパ地下の高級路線とは一段二段差のある家計に優しい価格で、この街に住む人々が富者ばかりでないと知る。華やかな都会の、遊興者と生活者の懸隔を見た思いだ。誰かのハレは、誰かの忍従に支えられている。

 店内をうろつき、お菓子棚に留まる。キットカットが売られている。口元寂しい時に何か口に含める物が欲しかったのでそれを手にする。その瞬間勃然と、料理しよう、と思い立つ。羽山との金銭的やり取りはまだ交渉していなかった、多少の生活費は与えてくれるだろう、だが、お小遣い等は出し渋るかもしれない、二人暮らしになると消耗品も減りが速くなるだろう、となれば倹約が必要で、とすると自炊するのが一つの解決法だと、後から理屈が湧いてくる。ウィンウィンなのだから、やらない理由がない。

 朝食の時に見た、冷蔵庫内の乏しい食品群を思い出す。せめてじゃがいもや人参といった常備菜や、汎用性の高いキャベツ、腸詰めでない生肉があっても良いだろう。

 家庭科で学習した料理を思い起こしながら、買いすぎないよう慎重に、詰め将棋を一手ずつ着実に進めるような心持ちで必要な食品と調味料を買い集めた。


「何、これ」

 詰問する調子だった。

 夜、午後八時少し過ぎに帰宅した羽山は、台所でネクタイを解く手を止めて、ほとんど睨みつける様子で私が作った晩御飯を見た。

「晩御飯、作ってみたんですけど」と狼狽え交じりに応える。「あとはフライパンで温め直して、それから……」

「あのさ」苛立ちを隠さずに羽山は言う。掲げたもう片方の手にデパ地下高級食品と思しきお惣菜が入った袋を握り締めている。「僕は好きな時に好きな物が食べたいんだ。こんな風に誰かが決めた料理を食べさせられるのは、はっきり言って嫌なんだよ。栄養も、きちんと僕なりに計算立てて食べてるのに」

 炊飯器に電源が入っているのを見咎め、「ご飯まで炊いたの? そんなことしなくていいんだけどな」と不快感を露骨に表す。

 一キロ未満だったが重かった米袋。じんじんとレジ袋が肉に食い込む感覚がまだ指先に残っている。抗弁したくて言葉を探していると重ねて羽山が言う。

「僕はさ、嫁が欲しくて君を迎え入れたわけじゃないんだよ? そこ勘違いしないでね? 僕はあくまで、何気なさを持ったパンチラのために君を手に入れたんだよ。分かる?」

 手に入れた? 引っかかったが言わなかった。

 ため息をついて羽山は頭を振り、少し冷静さを取り戻す。直接手出ししたりはしないからそこは安心して。前も言ったけど。ぶつぶつ唱え、もう一度小さくため息を吐く。「料理は、後で、明日でもいいけど、自分で食べて。僕は買って帰ったお惣菜を食べるから。変に気を回さなくていいから。あ」と私を見つめ、「……もしかして、お金の問題?」と眼を見開く。

「あ、そうです、それもあったんです……けど……」と言って、それもって何だろうと思う。そもそもなんで料理をしたのか。金の問題だったのか。ゼロではない、が、大元は違う。

 なぜか料理をしなければならないような気がしたから。

 義務感。暇な同居人の責務。

 毎日何の疑問もなく家事を行う専業主婦の母の姿が思い浮かぶ。朝起きて、朝ご飯を作って、洗濯に掃除をこなし、昼になればまたご飯を作って。私はそんなことをするために、リスクを負って家出したのか。家出先でも義務や責務に応え続けるつもりなのか。

 脱力を感じた。料理する必要性はないし、洗濯をする義理もないし、何だったら鍵を掛けずに外出しても良かったのだ、羽山の部屋がどうなったって構いやしない、律儀に鍵を見つけ出して施錠する必要なんて、実はこれっぽっちもなかったのだ。逆に言えば、汚れるだのなんだの言われようと、自分のために料理する権利だって、持ち合わせているのだ。好きに振る舞って良いのだ。

「お金なら、よほど高額じゃなきゃ必要な分はあげるから」僕だって、それなりの額は貰ってるからね。羽山の顔に珍しく誇示の色が出る。「お金の心配は要らないから」と笑う。「で、いくら欲しいの」

 私は少し考えてから答えた。「二万円。当面はそれで過ごします。足りなくなったらまた請求します。それと」

「ん?」

「私も、自分が何を食べるのかは自分で決めます。料理したいと思ったら料理します。食材を腐らせるようなへまだけはしないので、安心してください」

 なら、いいよ、と急に鷹揚になって羽山は、もはや私に興味を失ったのだろう、袋を座卓に運んで中に入ったお惣菜たちを展開している。几帳面な顔に、どこか小学生男児のようなやんちゃが覗いていた。

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