第2話

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 都心の駅は雑踏して、夜に出歩く人の稀な私の地元と違い活気に満ちている、これからが盛りだと言わんばかりに人の波が幾度も幾度も改札口に押し寄せ、川が岩に分かたれるようにざわめきが右へ左へ流れていく。邪魔にならないよう端に立って、忙しげに行き交う人々を眺める。サラリーマン、OL、それから夜の女も多い。ふと自分の身なりが気になりスカートの裾に手を遣る。引っ張った花柄ワンピースは夜の女の装いに近いが造りは二回り安っぽい、頼りない、背伸びしようと結局は未成年止まりの服。構内の金属の柱に自分を映して確認するに、自室では異様に見えたこの姿も夜の街に移動するとTPOとでも言うのか、少しだけ馴染んで見えた。軽薄で頭の悪そうな、要するにそういうことを生業にしている少女。そういうことも何も、そのままでしょう、と心に呟いて、笑うかと思えば背筋を氷でなぞられたようにぞくっと鳥肌が立つ。剥き出しの腕をさすって温める。寒くなんかない、八月なのだから。

 いつまでもぼんやり立っていてもしょうがない、漫画のオノマトペのようにざわざわ音のする改札口を離れ、駅から出てロータリーそばのベンチに向かう。腰を落ち着け休むサラリーマン、職業不詳のチャラついた男、お約束のように夜の女も座っている。

 焦げ茶の中折れ帽の男をベンチに探すがどこにもいない。駅前を往来する男性も対象に帽子を観察する。蒸し暑い夏の夜、余計に頭の蒸す帽子をわざわざ被っている者もなく、それぞれ楽しげに、あるいは厳しい顔つきで足早に去っていく。

 ふと疑念が浮かび、血の気が引く音が耳に聞こえる。焦げ茶の中折れ帽の男が自分を待っている保証など、どこにもないではないか。

 横を過ぎる際出し抜けに笑い出した男女に体がびくりと硬直する。浅はかな計画だと、笑われたような気がした。男女どちらも軽装で帽子のぼの字もない。そうか、と思い直す。男に限定する必要はなかった、女の可能性もある。そう思い、見回してみるがやはり焦げ茶の中折れ帽を被った通行人は見当たらない。待ち合わせ場所自体を間違えてしまったのだろうか。気が急く。反対側出口に赴くべきか、いやしかし、と、その場でくるくる回っていた、その時。

「あの」

 と男の声がした。振り返ると、髪をワックスで柔らかく立ち上げた男が立っている。頭にも手にも帽子はない。

「はい」私は身構える。

「すみません」と整った声で男が言う。「この近辺で、ミモザっていうバー、知りませんかね」

「……『社訓が分からん』さん、ですよね?」

 男は頷き、愛想よく微笑みを見せた。

 今夜九時、アカウント名『社訓が分からん』ほぼ間違いなく男、と、会う、否、宿泊先を提供してもらうという約束を取り付けての家出だった。私は花柄ワンピースを、『社訓が分からん』氏は焦げ茶の中折れ帽を目印に互いを認識する。もちろんツイッター上のやり取りのみで会うのはこれが初めてだった。

 私は安堵に口元を緩め、がしかし、すぐに憤りに奥歯を噛み締める。男は帽子を所持していない。つまり、初めからフェアな邂逅ではなかったということだ。

 少しの間があった。

 男が、「じゃ、行こっか」と踵を返して歩き出す。抗議しようとも結局は男に主導権がある、こちらは従うしかない。黙って男の後を追う。

 男はこなれた様子で雑踏の合間を淀みなく歩き、私はキャリーバッグを転がしながら、人にぶつからないよう苦心して男についていく。ロータリーを離れ、商業施設を左に迂回し駅沿いになだらかな坂を上っていく。迷いがない。「あ」と言って、歩みを止めず私に振り返る。

「僕の名前はハヤマスグルね。家、もうすぐだから。で、君の名前は?」

 偽名を名乗ろうと思った。が、すっと出てこない。即興で作れるほど頭は回らない、だから事前に準備しておくべきだったがそこまで考えが到らなかった、ざるのように粗い状況想定しかしていなかった自分に今更ながら恥じ入る。奇妙な間に男が足を止める。慌てて「糸見紅花です」と本名を答えていた。

「べにか? どういう漢字?」男がやや不躾に私を見る。

「紅に、花です。flowerです」

 ふーん、と男は私を品定めするように見つめ、ちょっと、と言ってキャリーバッグの伸縮ハンドルを握る。慌てて手放した私と入れ替わりでハンドルを握り、引っ張って再び歩き始める。奪い取る、とは違う、存外に優しい動作だった。ありがとうございます、と言いかけて、しかしこの男は誠実でないと頭を振る。気を許しては駄目だ。

 小さな、しかし高級そうな家具調度品を商う店やバーのような食事処が左右に立つ坂道を男は悠然と進み、やがて左手に金網の立つ線路沿いの道となり、右手には車一台分の細道が入り込む住宅街が現れる。やや古びた家屋。繁華な駅と高級路線のデパートと商店に飲み屋からは連想しがたい、言うなれば生活感に満ちた家々だった。

 三本目の路地を右に曲がり、クランクのように折れた道の、中ほどに赤い屋根に赤い扉の一階建てのアパートがあった。シックな他住宅に対しどこかファンシーな、リアリティーのないアパートだった。男は躊躇なく敷地内に立ち入り、向かって左端のドアにポケットから探り出した鍵を差し込む。回すと軽い開錠の音がして、鍵を抜き男はドアを引き、真っ暗な中へと忍び入る。

 体が小刻みに震えているのを感じる。今更逃げようとは思わない、が、恐怖は克服しがたい。選択に後悔はないがその先に待つ未来が恐ろしい。家出少女に無料の宿泊所として自宅を供する男などいはしないだろう、性行為どころか、殺された少女の話も聞く。焦げ茶の中折れ帽を持たず現れた男の底意など、そこに悪意がないわけがない。

 でも。それでも。

 私は進み入り、小さな玄関土間で後ろ手にドアを閉める。直後に男が点灯した照明に、閃光弾を食らったように薄目になり、瞳孔が順応するに合わせてゆっくりと目を開く。伸縮ハンドルを納めキャリーバッグの持ち手を手に、男は「鍵、ちゃんと閉めてきてね」と言い残して奥へ進み、仕切り扉の向こうの洋室へ入る。私は振り返って玄関ドアをきちんと施錠し、緊張に早まる鼓動を感じながら男の後を追う。洗濯されたことのない花柄ワンピースの生地は汗を吸わず、蒸した服の中を汗が集合して滴が背筋を流れる感覚が不気味さに拍車をかけた。

 洋室は八畳ほどの正方形で、入ってすぐ左手前に押入を仕切る引き戸があり、右側には掛布団の丁寧に整えられたベッドが壁に寄せて設置され、中央にはシンプルだがそれなりに高価そうな造りの座卓が置かれ、座卓を挟んでベッドと向き合うようにテレビがテレビ台の上に乗り、その横に木枠で縦四段に分けられた本棚が立ち、また、入って真正面には大きな窓を覆う柄のない遮光カーテンが垂れていた。座卓にはノートパソコン他細々とした雑貨が、神経質そうに位置をきちっと決められて座っている。空気は煙草臭くもなく、同学年の男子が放つ日向臭さもなく、台所からの生ゴミ臭さもまるでなく、一年近く放置した部屋に今日久々戻ってきたと言わんばかりに生活の匂いがまるでなかった。

 男はベッドの足元付近にキャリーバッグを転がし、座卓を横切ってテレビの前、埃一つ落ちていないフローリングの床に腰を下ろしリモコンを操作して冷房を起動させる。電子音がしてエアコンの吹き出し口が冷涼な空気を放出する構えを取り、暫時沈黙する。

「ベッドに座って」

 仕切り扉の敷居の上で所在なく立ち尽くしていた私は男の指示で、仕切り扉を閉めて後ベッドに座る。男と相対する形になる。五十センチ程度の差だが男を見下ろすことで心に少しだけ余裕が生まれる。エアコンの風が吹き出した。「あの」と切り出して、何を質問していいのやら分からず言葉が途切れる。男が失笑したがその吐息は冷房の風音に紛れて聞こえない。

「君は」胡坐をかいて両腕をつっかえ棒のように床に着き、男が訊く。「スマホ、持ってきてるの?」

 返事に悩んで、「持ってます」と正直に答える。脇に置いたハンドバッグからスマホを取り出して見せる。「でも、電源を入れる予定はありません。GPSとかで所在がバレて、連れ戻されても嫌だから」

 男は爬虫類が獲物を狙うようにスマホを凝視し、「そっか」と柔和な顔に戻り、それ以上追求しない様子だ。破砕されてもおかしくないと思っていただけに、意外な反応だった。

「じゃあ、別に結束バンドやら首輪やらで拘束して、無理に監禁する必要もないわけか」

 独り言のように言う。比較的綺麗な顔立ちで恐ろしいことを言う。少なくとも人に対する物言いではないわけだが。

「逃げたりはしません」とこちらも恭順の姿勢を取る。「逃げる先が第一、ないのだから」

「なるほど」と男は頷く。

 冷房が効いてきたのか、汗が止まり、剥き出しの腕が腐食するように表から内へ冷えていくのを感じる。壁が厚いためか隣人の気配をまるで感じない。ノアの箱舟のような気密性と閉鎖性。とすると、私たちは小さな楽園に住まう、皮肉めいたアダムとイブなのか。

 心の落ち着き始めた、丁度その時だった。

 出し抜けに男が立ち上がり、ベルトを解いて穿いていたズボンを脱ぎ捨てた。上半身は着衣したまま、下半身だけ下着姿となる。

 唐突ながら、本題だ。

 身が、生肉が加熱されて縮むように、きゅっと硬く強張るのを感じた。

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