About a Girl
大和なでしこ
第1話
1
今日という日のために購入した花柄のワンピースを着ると、姿見に映る自分が今まで何度も目にしてきた自分とどこか異なるように感じる。地味な服装に定着した普段の自分なら絶対に買わない、派手な、少女性の表れとしての花柄ワンピース。肌の質さえ改変してしまいそうな、華やかさと虚栄の証。やっぱり苦手だなと思う。白を基調にした、経年劣化でやや眩さを失った壁紙に重なると、まるで擬態に失敗したカメレオンのように浮いて見える、そんな不似合いと不釣り合いの造作的な恰好。
やめよう。脱ごう。という思いに手がファスナーへと向かい、しかし下ろせず止まる。どこかの意思が脱ぐのを止める。はあ、と大きく息を吐く。私は進むことを選択したのだ、今更日和るわけにはいかない。
背中に回した手を元に戻し、かがんでハードケースのキャリーバッグの蓋を開く。そこに詰まっているのは夢や希望、ではなく、下着やブルージーンズ、無地のティーシャツといった日常だ。いずれも生地がややよれて消耗を感じさせる。消耗の果てには解体があるに違いない。ほつれ、ただの糸となった、機能を失った物。私は喫緊の着替えに漏れがないことを確認し、キャリーバッグを閉めて移動中に開かないよう鍵でロックをかける。完成。
立ち上がってもう一度姿見に映る自分を確認する。私であって私でない者が呼吸している、その幽体離脱のような様に戸惑いながら、頭を振って姿見を離れる。自室の角に寄せて置かれた勉強机は蛍光灯に隈なく照らされ、その上で光沢のあるA4紙が光を反射して白く輝いている。大手学習塾の、夏期講習のお知らせ。いい大学に入って、いい会社に入って、明示はされないがそのまま所謂勝ち組としてのいい生活を送って、という、栄光への助走路を確保せんとするビラ一枚。申込期日はとっくに過ぎて、しかし夏休み終了二学期開始とともに入塾する人への情報も抜け目なく追記してある。まだ導きのエスカレーターに乗るチャンスは残っている。が。
私は薄い広告を机の抽斗に仕舞い、入れ替わりで一ページ分の印刷物を引き出し、それを勉強机の側面に付いたフックにぶら下がるハンドバッグに折り畳んで詰める。バッグを手に、改めて見下ろした机上の小物に何の執着も持たないことを確認し、最後に、文鎮のごとく静かに乗っているスマホを手にする。迷いはあった。が、最悪の事態に於いては御守りになるかもしれないと考え、電源を落としハンドバッグに無造作に入れた。
ハンドバッグを小脇に抱え、キャリーバッグは取っ手で持ち上げ、足で押し上げるように支え車輪を宙に浮かせる。音は極力立てたくない。部屋の電気を消すと全てが一度真っ暗になり、やがて月の頼りない明かりが静まり返った夜の廊下を白く浮かび上がらせる。新雪に足跡をつける高揚と罪の意識。一歩、また一歩と廊下を進む。
階段を半ばまで下りると、居間のすりガラスの扉を透過した蛍光灯の青白い光が廊下に落ち、玄関までの道を暗く照らしている。取っ手を持つ手が重さに痺れる感覚がする。家族の誰かが出し抜けに居間から出てくるのではないか、トイレ行ってくる、などと言って妹が勢いよく扉を開けて忍び足の私と、交通事故に遭うかのように劇的に鉢合わせるのではないか、といった疑念に小さく身震いする。もしかしたら試されているのかもしれない。この試みが、すぐに露見する少女の気の迷いなのか、あるいは意味のある企てなのか。
後者であることを祈りつつ、慎重に階段のもう半分を下りる。足を置いた先がミシミシと小さく鳴る度心乱れるが、音に対する反応はない、次第次第に、居間で見ているであろうテレビの音さえ漏れ聞こえないのだからこれぐらいの音など聞こえやしないと気が大きくなる。だが階段を下り切って廊下に立ち、玄関へそろそろ歩むうちにまた気が急いてくる。誰かが私を発見するかもしれない。不安に振り返りかけるがとにかく前だけを向くことにする。これが駄目なら運命が駄目だと言っているのだ。この企図に次はない、信じて進むしかない。
薄暗い玄関土間のタイルにゆっくりとキャリーバッグの車輪を下ろす。きゃる、と、硬い物と硬い物がぶつかる小さな音がして設地する。心の重荷も下りたかのように平静と安息が心に満ち、賭け事に辛くも勝った勝負師のように脱力してたたきに腰を下ろした、その瞬間、犬のタロウの吠える声がして背筋がびくりと伸びる。わん、わんわん! 私の目論見を言い当てるような鋭い鳴き声が居間から聞こえる。不審に思った家族が出てくるかもしれない、私は、足を差し込むだけの状態にセットしておいた靴に両足を滑り入れ、素早く立ち上がり、ハンドバッグを小脇に抱え、焦りから少し乱暴に玄関ドアを押し開け、キャリーバッグを引っ掴みポップコーンが弾けるように勢いよく外に出る。玄関ポーチの段差を駆け下り、重心を修正するように体を傾けてキャリーバッグを持ち走り、門を出てようやく玄関を振り返る。玄関ドアがドアクローザーの調節でゆっくりと閉まろうとする様が月夜の中に見えた。タロウの吠える声が一層激しくなったように聞こえる。責め立てるような威嚇。
私はキャリーバッグを持ち上げたまま数十歩走り、角を曲がって一歩踏み出したところで思い直して来た道を振り返り角から覗き込むように顔を出し、闇が紗をかけた我が家の方角を見遣る。暗がりには何の姿もない、誰も追ってこない、タロウの吠える声も聞こえない。十数秒そのまま目を凝らしていたがただ静かな夜があるばかりだった。
ふう、と大きなため息が出た。肺の奥底から空気が全て流れ出たようだった。回復してきた聴覚に、街灯を昼光と勘違いして鳴くアブラゼミの声が入る。目を瞑ると瞼の裏に焼けるような真夏日の眩しさが蘇る。気温は日中と大きな差があるが、春でも秋でもなく、間違うことなき夏の空気だった。
上向いてもう一度息を吐き、目を開いておもむろにハンドバッグに詰めた紙を取り出す。折り畳んだそれを開くと電車の乗り換え案内が印字してある。スマホが使えない分、随分と不便にはなるが仕方ない、この紙を頼りに進むしかない。パソコンの履歴は消したし、用心でダミーの乗り換え案内も多数検索しておいたから今から私が向かうルートは易々とは掴めない。はず。とにかく今は、できることをする。前進する以外の道はないのだ。
キャリーバッグの伸縮ハンドルを伸ばし、試しに転がす。車輪がアスファルトとぶつかり合ってゴリゴリした音を出すがもうびくつく必要もない。私は紙を手に、ハンドバッグを肘に掛け、キャリーバッグを引いて歩き出した。小さな地響きとアブラゼミの声が、闇夜を裂いて鮮やかだった。
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