第1話 母の涙
平安時代の中頃、名門・藤原家に一人の女の子が誕生した。後に、一条天皇を生むこととなる
四人目ともなると、母の育児も慣れたもの。詮子は、しっかりとした子女教育と適度な放任主義を織り交ぜて、のびのびと育てられた。
幼い頃の詮子は、広い
さすがに七歳にもなると探索ごっこは卒業したが、四季折々に移り変わる広いお庭の様子を眺めながら、姉の部屋を訪れることは今もたびたびあった。
その日の
「しまった」と思った。見てはいけないものを見てしまった、と。余計な好奇心を
ああ、失敗した、と思った詮子は、お母様に見つからないうちにこっそりその場を離れるつもりだったのに、いつもは鳴らない
音に気づいた母・
苦笑いを浮かべて時姫が言った。
「詮子、そこに
とっさに詮子は、先日兄からもらったお気に入りの
「あのね、
「まあ! 道隆が、扇を?」
扇を手で
「こちらへいらっしゃい。そして、扇を母にも見せてくださいな、お姫さま。」
ちょっとおどけた物言いをする母を見て、ほっとした詮子は、母に駆け寄った。
「見て!」
時姫の隣にちょんと座って、詮子は手に持っていた扇を母に広げてみせた。
「まあ、ステキ! 梅の花ね。春にぴったり。お庭の梅も、そろそろ咲くころね。」
「さっき見てきたの。お庭の梅、もうつぼみが大きく
「そうね、見比べてみましょうね。でも詮子。勝手にお庭に降りてはいけませんよ。」
「・・・・・・」
「貴族の娘は、お庭に出たりはしないものですよ!」
「・・・はあい。」
「お母様、さっきはどうして泣いていらしたの?」
時姫の笑顔が、一瞬こわばる。
「なにか、ヒドいことが書いてあったの?」
心配そうに自分を見つめる詮子を、時姫はそっと抱き寄せながら、やさしく言った。
「なんでもなーいっ」
母の涙のワケがどうしても気になった
「昔の?」
不思議な思いで、手紙を手に取る。そして、周囲の目を
「そこにさへ かるといふなる
(あなたのもとをさえ離れていったと聞く
どうやら、父のことを
「なにこれ!」
手紙を
「何をしているの?」
時姫の声にドキッとする。「しまった!」と思った時には、母が自分の正面に回り込んで立っていた。詮子の手に
「それ・・・」
詮子は、手紙を差し出し、
「ごめんなさいっ。・・・でも、この前、お母様が泣いていらしたのが、どうしても気になって・・・」
ため息をつく時姫。
「ごめんなさい」
「人の手紙を盗み見るなど、
「はい。ごめんなさい」
「さ、それをお返しなさい」
「・・・はい」
手紙を、
「あの、お母様」
「なあに?」
「そのお手紙、もしかして、お父様の・・・」
詮子の言葉に、時姫は少し
「そうよ。あなたのお父様とお
みるみる、詮子の顔が
「ひどい! お母様はお父様だけを愛していらっしゃるのに、お父様は、お母様の他にも愛する方をお持ちだなんて!」
時姫が、ことさらに落ち着いた声で答える。
「
「私はイヤ! 私は将来、きっときっと、私だけを大切に愛して下さる方と一緒になります。お父様みたいな
何の涙なのか、よくわからない。
「私はイヤ。浮気者のお父様なんて、大嫌い。だから、お父様は、たまにしかお家に帰って来て下さらないのね! だから、お母様は、いつもお
「落ち着いて、詮子。」
「そんなふうに、お父様を悪く言ってはいけないわ。」
「お母様は、悲しんでなどいないし、お父様はきちんとお母様を愛してくださってるわ。」
どんな
時姫は、決意した表情で詮子に向き直り、詮子の手を取って話し始めた。
「聞いてちょうだい、詮子。」
「あなたには、
初めて聞いた。驚きすぎて、涙が止まった。
「
「みち、つな?」
「そう。
「私の、腹違いの、お兄様?」
「そういうことになるわね」
「そんな方、お会いしたこともないわ!」
「当然です。私もお会いしたことはないもの。」
「え?お母様も?」
「ええ。道綱のお母上は、何度かここにいらしたことがあるけれど、道綱はまだ一度も来ていません」
詮子は、わけがわからなかった。
「どういうこと?」
「
「お母様には、すでに
「5人では、少なすぎるのです。いつ
「お母様の生んだ子ども達はみんな、ちゃんと大人になってるわ。私も、もう7つを過ぎたし、道長はまだ4歳だけど・・・。でも、お兄さまたちもお姉さまも、大人になったわ」
「そうね、世の中の普通からすると、これは
「奇跡? そんなに
「ええ、とても珍しいことよ。それだけでも、私は、とっても幸せな人生だわ。そんな幸せを下さったお父様に感謝しているし、他に女性ができても、変わらず私を愛してくださるお父様を、とてもお
初めて、母の本心に触れた。でも、母のことばのすべてを素直に受け入れる気持ちには、どうしてもなれなかった。だから詮子は、やっぱり
「・・・私は、私だけを愛してくださる
時姫はやさしくほほえんで、詮子の頭を
「ばかなことを言うものではありませんよ。一人の女性しか愛せないような
「おにいさま?・・・では、
「もちろんよ!」
大好きな兄が、
「・・・道隆お兄様なんて、キライっ」
時姫の「これっ!」と
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