第1話 母の涙

 平安時代の中頃、名門・藤原家に一人の女の子が誕生した。後に、一条天皇を生むこととなる詮子せんしである。詮子の父は、藤原兼家ふじわらのかねいえ。藤原一族の三男坊だった。詮子には、二人の兄と一人の姉、一人の弟がいた。つまり五人兄弟の四番目として生まれたのだった。

 四人目ともなると、母の育児も慣れたもの。詮子は、しっかりとした子女教育と適度な放任主義を織り交ぜて、のびのびと育てられた。


 幼い頃の詮子は、広い寝殿造しんでんづくりの邸宅ていたく探索たんさくして歩き回ることを楽しんでいた。母には、はしたないからやめなさい、といつもしかられていたけれど、広いお屋敷やしきは、探索するたびに発見があって、楽しかった。お父様に見つかるとひどく叱られるけれど、お父様はあんまりお家に帰ってこないから、見つかる確率は低かった。道隆みちたかお兄様と道兼みちかねお兄様は、しぶい顔をなさることもあるけれど、ご機嫌の良い時は一緒に遊んでくださった。詮子せんしが特に好んだのは、超子ちょうしお姉さまのお部屋に行くことだった。超子お姉さまは、いつも美味しいお菓子を下さって、楽しいお話を聞かせてくださって、めずらしいご本を見せてくださった。だから詮子はいつも、探索ごっこの最後は超子お姉さまのお部屋に行く、と決めていた。


 さすがに七歳にもなると探索ごっこは卒業したが、四季折々に移り変わる広いお庭の様子を眺めながら、姉の部屋を訪れることは今もたびたびあった。

 その日の邸内ていないは、いつもと比べて、なんとなく湿しめった雰囲気だった。イヤな予感がしたけれど、久々に詮子せんしの冒険心がうずいた。ちょっとしたスリルを求めて邸内を歩き回ってみる。と、部屋の奥で、鼻をすする音がした。誰かが泣いているらしい。七割の好奇心と三割の心配を胸に、そぉっと部屋へ忍び込んだ。薄暗い部屋の中には、人知れず涙をぬぐう母がいた。手には、古い手紙のようなものが握りしめられていた。

「しまった」と思った。見てはいけないものを見てしまった、と。余計な好奇心をいだいたがために、お母様の泣いている姿に遭遇そうぐうしてしまった。

 ああ、失敗した、と思った詮子は、お母様に見つからないうちにこっそりその場を離れるつもりだったのに、いつもは鳴らない回廊かいろうゆかが、今日に限ってキシリと音を立てた。

 音に気づいた母・時姫ときひめが、あわてて手紙をかくしながら、回廊の方へ目をやった。首をすくめてちぢこまっている詮子せんしの姿がそこにはあった。

 苦笑いを浮かべて時姫が言った。

「詮子、そこにるんでしょう? しからないから、出ていらっしゃい」

 とっさに詮子は、先日兄からもらったお気に入りの扇子せんすふところから取り出し、笑顔をつくろって母に言った。

「あのね、道隆みちたかのお兄さまが、おうぎを下さったの。とってもステキな扇だったから、お母様にもお見せしたくて・・・」

「まあ! 道隆が、扇を?」

 扇を手でもてあそびながら、もじもじしている詮子に、母・時姫が笑顔で手を差し出した。

「こちらへいらっしゃい。そして、扇を母にも見せてくださいな、お姫さま。」

ちょっとおどけた物言いをする母を見て、ほっとした詮子は、母に駆け寄った。

「見て!」

 時姫の隣にちょんと座って、詮子は手に持っていた扇を母に広げてみせた。

「まあ、ステキ! 梅の花ね。春にぴったり。お庭の梅も、そろそろ咲くころね。」

「さっき見てきたの。お庭の梅、もうつぼみが大きくふくらんできてたのよ。きっと、もうすぐ花開いてよ。お花が開いたら、この扇と見比べてみるの!」

「そうね、見比べてみましょうね。でも詮子。勝手にお庭に降りてはいけませんよ。」

「・・・・・・」

「貴族の娘は、お庭に出たりはしないものですよ!」

「・・・はあい。」

 ねた顔で、詮子はしぶしぶ返事をした。ふと、母の顔をあおぎ見て、聞いてみた。

「お母様、さっきはどうして泣いていらしたの?」

 時姫の笑顔が、一瞬こわばる。

「なにか、ヒドいことが書いてあったの?」

 心配そうに自分を見つめる詮子を、時姫はそっと抱き寄せながら、やさしく言った。

「なんでもなーいっ」


 母の涙のワケがどうしても気になった詮子せんしは、数日後、時姫の部屋にそっと忍び込んだ。「たしか、お母様はいつもこの辺に・・・」たなをあさって、文箱ふばこを取り出す。「あった!これだ!」文箱の中には、明らかに急いで仕舞しまったらしい古い手紙が入っていた。

「昔の?」

 不思議な思いで、手紙を手に取る。そして、周囲の目をはばかりながら、詮子はその手紙を読み始めた。それは、別の女性が母・時姫に宛てた手紙であった。

 「そこにさへ かるといふなる 真菰草まこもぐさ いかなる沢に 根をとどむらん」

 (あなたのもとをさえ離れていったと聞く兼家かねいえ(真菰草)はいったいどこについているのかしら)

 どうやら、父のことをんだものらしい。父の訪れが少なくなってしまった父の愛人が、母に対して「私のところにも彼は最近来てないけれど、あなたのところにも行ってないみたいね。ということは、どうやら新しいオンナができたのね。いったいどこのどなたかしら」と詠んできているのだ。

「なにこれ!」

 手紙を凝視ぎょうししてかたまる詮子せんし。父がたまにしか帰宅しない理由が、まさか、こんなことだったなんて。あまりの衝撃しょうげきに、背後から時姫が近づいて来ていることにも気づかない。

「何をしているの?」

 時姫の声にドキッとする。「しまった!」と思った時には、母が自分の正面に回り込んで立っていた。詮子の手ににぎられている手紙を見て、時姫が驚いた。

「それ・・・」

 詮子は、手紙を差し出し、あやまった。

「ごめんなさいっ。・・・でも、この前、お母様が泣いていらしたのが、どうしても気になって・・・」

 ため息をつく時姫。

「ごめんなさい」

「人の手紙を盗み見るなど、下品げひんですよ!」

「はい。ごめんなさい」

「さ、それをお返しなさい」

「・・・はい」

 手紙を、元通もとどお文箱ふばこにしまい込む時姫に、詮子せんしが言った。

「あの、お母様」

「なあに?」

「そのお手紙、もしかして、お父様の・・・」

 詮子の言葉に、時姫は少し躊躇ちゅうちょし、それからふとため息をひとつついて、観念かんねんしたように言った。

「そうよ。あなたのお父様とおしたしい女性のお一人からの、お手紙です」

みるみる、詮子の顔が憤慨ふんがいして赤くなる。

「ひどい! お母様はお父様だけを愛していらっしゃるのに、お父様は、お母様の他にも愛する方をお持ちだなんて!」

 時姫が、ことさらに落ち着いた声で答える。

別段べつだんめずらしいことではありません」

「私はイヤ! 私は将来、きっときっと、私だけを大切に愛して下さる方と一緒になります。お父様みたいな浮気うわきな方は、イヤ!」

 何の涙なのか、よくわからない。いかりなのか、くやしさなのか、悲しみなのか。誰に対する涙なのか、よくわからない。ただ、信じていた父に裏切られたことだけは確かで、詮子の目からは、涙があふれ出ていた。

「私はイヤ。浮気者のお父様なんて、大嫌い。だから、お父様は、たまにしかお家に帰って来て下さらないのね! だから、お母様は、いつもおさびしそうにしていらっしゃったのね! お母様を悲しませるお父様なんて、大嫌い。お母様がおかわいそうだわ。それに、だからってどうして愛人がお母様にお手紙を送ってくるの? その方は、お母様にイジワルがしたいの? そんな女性を、お父様は愛していらっしゃるの? お母様みたいなステキな妻がいるのに?」

 混乱こんらんして泣き続ける詮子を、時姫はなだめた。

「落ち着いて、詮子。」

「そんなふうに、お父様を悪く言ってはいけないわ。」

「お母様は、悲しんでなどいないし、お父様はきちんとお母様を愛してくださってるわ。」

 どんななぐさめもたしなめも、詮子の耳には入っていないようだった。

 時姫は、決意した表情で詮子に向き直り、詮子の手を取って話し始めた。

「聞いてちょうだい、詮子。」

「あなたには、腹違はらちがいの兄弟がたくさんます。」

 初めて聞いた。驚きすぎて、涙が止まった。

貴女あなたが先ほど見ていたのは、道綱のお母上ははうえからのお手紙です。」

「みち、つな?」

「そう。道綱みちつなとしでいうと、道隆みちたか道兼みちかねの間になるのかしら。」

「私の、腹違いの、お兄様?」

「そういうことになるわね」

「そんな方、お会いしたこともないわ!」

「当然です。私もお会いしたことはないもの。」

「え?お母様も?」

「ええ。道綱のお母上は、何度かここにいらしたことがあるけれど、道綱はまだ一度も来ていません」

詮子は、わけがわからなかった。

「どういうこと?」

貴方あなたのお父様、兼家かねいえさまは、関白家かんぱくけのお家柄いえがらです。荘園しょうえんもたくさんお持ちだし、使用人も多く居ます。お父様には、この家を守っていく責務せきむがあります。そのためには、子孫しそん繁栄はんえいさせることが大事なの。たくさんの子を作ることは、殿方とのがたの使命です」

「お母様には、すでに道隆みちたかお兄様、超子ちょうしお姉様、道兼みちかねお兄様、私、そして道長みちながと5人も子どもがいらっしゃるじゃない!」

「5人では、少なすぎるのです。いつ疫病えきびょう流行はやって命を落とすかもしれない。7つになる前に亡くなる子どもの方が、7つを迎える子どもよりずっと多いのですよ。」

「お母様の生んだ子ども達はみんな、ちゃんと大人になってるわ。私も、もう7つを過ぎたし、道長はまだ4歳だけど・・・。でも、お兄さまたちもお姉さまも、大人になったわ」

「そうね、世の中の普通からすると、これは奇跡きせきよ。」

「奇跡? そんなにめずらしいことなの?」

「ええ、とても珍しいことよ。それだけでも、私は、とっても幸せな人生だわ。そんな幸せを下さったお父様に感謝しているし、他に女性ができても、変わらず私を愛してくださるお父様を、とてもおしたいしているわ」

 初めて、母の本心に触れた。でも、母のことばのすべてを素直に受け入れる気持ちには、どうしてもなれなかった。だから詮子は、やっぱりねた顔でぽつりと言った。

「・・・私は、私だけを愛してくださる殿方とのがた婿むことしてむかえたい」

 時姫はやさしくほほえんで、詮子の頭をで、そして、ほころばせた顔を引きめておだやかな声で、言い聞かせるように言う。

「ばかなことを言うものではありませんよ。一人の女性しか愛せないような殿方とのがたは、出世しゅっせの見込みもうすい、魅力みりょくのない方に決まっています。あなたの大好きなお兄様たちのような、聡明そうめいな殿方はみな、複数の女性のもとにかようものです」

「おにいさま?・・・では、道隆みちたかお兄様には、通っておられる女性が複数おありなのですか?」

「もちろんよ!」

 大好きな兄が、虚像きょぞうとなってくずれていった。詮子は、道隆から送られたお気に入りの扇子せんすを投げ出して言った。

「・・・道隆お兄様なんて、キライっ」

 時姫の「これっ!」としかる声を無視して、詮子はそのまま自室にけ帰った。


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