蒼穹LABYRINTH【Ⅱ】
孔雀 凌
「蒼穹LABYRINTH」視点切替ver 交際記念日に恋人からサプライズを受けた、彼女視点の物語。
『利口な君は、僕よりずっと要領がいいってことを知ってる。だから、君へのサプライズ返しはこの場所にしたんだ。テーマパークにある、巨大迷路を舞台にね。君は必ず、素晴らしい直感で複雑な迷路を突破する』
『碧落ラビリンス Ⅱ』
BRIGHT SKY LABYRINTH
視点切替ver:
◆◆◆◆
「柚木。まだ、残ってたのか。丁度いい。お前、学級委員だったな。このプリント、教室まで運んで置いてくれないか。明日の朝のホームルームで使うから」
「わかりました」
担任教諭から受け取ったA4用紙の束を両腕に抱えて、私は自分の教室へと向かう。
開け放たれた廊下の窓から入り込む、残照が足元を仄かにかすった。
清んだ空気を通したこの胸は、代わりに淡い溜め息を落とす。
欠席の美化委員の役割を果たすために、今まで残っていた。
プリントを運び終え、下駄箱で外靴に履き替えた私は、置き傘立ての中から自分の物を選び抜く。
深い影を落とす雲が、仄かな柑子色を含む大気を背負って、日暮れに相応しい鳥木の空を創り始める。
軈て、それは急激な変化を遂げた。
予報の通りだ。
私は手にしていた雨傘を拡げる。
雨は、ずるい。
街行く人の気配を薄めて、私の心の温度まで奪ってしまうから。
でも、お気に入りの傘をさす事が出来るのは、地上が淡水に覆われる空間の中だけ。
そう想えば、悪くはないのかも。
正門を離れた時だけは、少しばかり、気持ちが緩む。
いつも、責任感と緊張で張り詰めている、生徒会長という立場から解放されるから。
周囲からはきっと、私は可愛くない女だと想われているはず。
皆の期待に応えなくちゃとか、無意識の内に理想的な自分を取り繕っていた。
冷たい雨から私を守る、藤色の傘は使い込んで来た証を仄かに刻んでいる。
降り頻る雫をいくら受け止めても、消えない染みを残している傘布。
この傘を普段より少しだけ、長く手にしたい気分だった。
そんな動機から、いつもとは違う道筋を辿り始めていた。
選択した自宅までの分岐点が、遠巻きになるのか、近道になるのかは、自然が導く道標のみ答えを知る。
僅かに離れた場所から雨音に紛れて、小さく鳴く声が届いた。
猫……?
消え入りそうな、か細い声は公園の方から聴こえてくるみたいだった。
人気の途絶えた公園の敷地内で、私は気配の行方を探す。
土を叩く雨音は多力でも、必要な物だけを含む残余にも似た歴青の様に、それらを弾き返す力には乏しく、一面はみるみる降雨を染み込ませていく。
木影の奥に、段ボール箱を見つけた。
春が訪れる度に、石竹色の美しい花を咲かせる大木の傍らで、仔猫は全身を震わせながら踞っていた。
雨避けもない厚紙の小さな箱の中で、どのくらいの時間、寒さに怯えていたのだろう。
私は、湿った路面にスカートの裾がつかない様に左手で軽く掬ってから、仔猫の正面に屈み込む。
「可愛い。でも、家では飼えないの。ごめんね」
掌であやすように撫でると、仔猫は眼を細めて愛しくなるような鳴き声をこぼした。
一頻り、背中を丸めて怯える猫を宥めたら、別れを告げるつもりでいたけれど、小さな命の先行きが気掛かりで足元を鈍らせてしまう。
別れを告げ、幾らか歩を進めては、啼く声を伴って背に届く首輪の鈴音が私の胸に痛く響く。
気づけば、公園と巷路との往復を繰り返していた。
せめて、誰かが子猫を貰い受けてくれるまで、その様子を見届けてからにしよう。
沛然と降る雨が世界を覆い尽くす中で、私は一縷の望みを託してみる。
伸ばした指先が、傘布から滴る雫を受け止めた。
「少し、小降りになって来たみたい……」
見上げた空に、暗灰色の雲の動きは視認出来ない。
それは、大地を温めていた陽光が地平線の彼方に隠れてしまったことを意味していた。
これ以上、貰い手が現れる瞬間を待ち続けても、叶う確率など低い。
私は冷えた身体を両腕で抱え込む様にして、体温を奪う寒気を拭った。
然うしてもう一度、子猫の側に屈み込み、深く湿った柔らかな洞毛に触れる。
「お母さんを説得してみるから、後少しだけ待ってて」
必ずまた、ここへ戻って来るから。
約束の想いを含めて、握っていた傘を子猫が踞る段ボールの縁に翳した。
小康状態だった雨音が僅かに遠ざかっていることに気付いた私は、再び上空を仰ぐ。
黒い傘……?
子猫に預けた雨具より一回りも大きい洋傘が、私を包み込んでいる。
雨が止んだ訳ではなかった。
傘を差し出してくれた男性がいたのだ。
「あ、あの……」
言葉を繋ごうとして、私は彼が自分と同じ学校に通う生徒だということに気付く。
男性は固く唇の両端を結んだまま、ぐい、とこの手に傘を押し遣った。
彼の纏う制服が徐々に水滴を染み込ませていく。
「あの、あなたが濡れてしまう……」
ただ、一本しかない傘を親切心で手渡そうとしてくれる行為が何故だか申し訳なくて、私は頑に拒んでいた。
「つ、使っていいから」
彼の姿もまた、私には自分の意思を譲らない様にも映った。
一進一退が数分ほど続き、私は不意に笑みを零してしまう。
どう、言葉にすればいいのか分からなくて、気づけば差し出された彼の想いを、この手で確かに受け取っていた。
◆◆◆◆
「どうかした?」
彼が、不思議そうな表情で私を見つめる。
「龍ちゃんと出逢ってから、もう、五年にもなるんだね」
私は、自分の膝にすりよって来る猫の額をそっと撫でた。
以前より少し大きくなった肢体を、あの頃と同じ様に丸めて、目を細めている。
母から飼うことを許されて以来、私達は始終を共に過ごしている。
『翡翠』と名付けた。
翡翠との出逢いは、彼との記念日でもある。
今日、彼は私の自宅に遊びに来ていた。
「あ、あのさ。明日、遊園地に行かないか?」
何かを想いついた様に彼が突然の提案をする。
と、同時に二枚のチケットが手渡された。
随分と用意周到なのね、とも想ったけれど、私は素直にそれを受け取る。
「明日じゃなきゃ、駄目なの?」
「運良く、お互いのバイトも休みだろ。それに明日は……」
言いかけて、彼は言葉を濁す。
彼が計画的に何かを考えていることは分かった。
明日は、私達の交際五年目の記念日だから。
「ごめん。その日は用事があるの」
困った素振りで渋々言葉をこぼすと、彼の表情が一気に沈む。
冗談とはいえ、こんな返しをしてしまう私って、本当に可愛くない。
「うそ、いいよ!」
慌てて撤回すると、彼の両腕が優しく私の身体を包み込んだ。
◆◆◆◆
碧落、という言葉はこんな空に相応しいのかも知れない。
彼方に眠る、ありとあらゆる鼓動を風が掬って、運んで来てくれそう。
雲一つ存在しない、快晴の中、私達はテーマパークへと訪れていた。
彼は私の手を取ると、優しく誘導する。
「巨大迷路に入ろう」
何だか、珍しい。
いつものあなたは、選択事になると悩んで、なかなか決められない癖に。
広大な規模を誇る迷路は、入口に佇むだけでも迫力が伝わってくる。
アリスが彷徨い込んだ迷宮を再現したなら、こんな雰囲気になるのかな、なんて想ってしまうほど。
「どちらがはやく、ゴールに辿り着くか、競争しよう」
巨大迷路のスタート地点で、彼は言う。
そんな、あなたが子供みたいで、私は小さく笑った。
「先に行って。僕は、後から行くから」
温かい彼の隻手が、私の背に触れる。
きっと、気遣ってくれたのだろう。
だけど、彼は察しているはず。
謎解きや迷路等といった物に対して、私の方が得意だってことを。
彼が、巨大迷路での手合わせを意図的に計画しているのだとしたら、さすがに真意までは推し量ることは難しいけれど。
私は自身の勘を信じて、入口で受け取った地図を片手に、スタンプを探しながら迷路内を進んでいく。
三十分も経過していないはず。
迷路の出口を見つけた。
付近には、最後のスタンプ台が置かれている。
私はスタンプを押そうと台へと近付いた。
「あれ、何だろ。これ……」
そこには、色鮮やかな花束と、一通の手紙らしき物が添えられている。
『凪へ』と書かれていた。
私宛?
封を開き、書かれた文字を一瞬目にしただけで、彼からの物だと分かる。
少しずつ、ゆっくりと私は読み始めた。
出逢った頃の印象、普段なら知ることの出来ない彼の想いが沢山綴られていた。
『今頃、君はその場所でまだ現れぬ僕を待ちわびているのだろうか。
今日の出先での全ては、僕の計画だとも知らずに。
利口な君は、僕よりずっと要領がいいってことを知ってる。
だから、君へのサプライズ返しはこの場所にしたんだ。
テーマパークにある、巨大迷路を舞台にね。
君は必ず、素晴らしい直感で複雑な迷路を突破する』
私が好む色ばかりを集めて束ねられた、彼からの贈り物である花束をそっと腕に抱え込む。
然うして、紡がれた文章に最後まで目を通す。
『「どちらがはやく、ゴールに辿り着くか、競争しよう」君とここへ来た時に、僕はそう言ったよね?
仮に、僕が迷路の到達地点を探り当てたとしても、君より先にゴールへと赴くことはしない。
最高の贈り物を届けるために、故意に君へその座を譲るよ。
ただし、僕は先回りをして、迷路の出口に君へのプレゼントとして用意した花束と手紙を置いておく。
この日のために、パークで働くスタッフも協力してくれたんだ。
でも、僕が本当に渡したい物は、まだ君の手元にはないよ。
君がこの手紙を読み終えてくれた頃を見計らって、本命のプレゼントを抱えて君の元へと急ぎ足でむかうから』
ずるい。こんな、サプライズって。
私は胸の奥が急に熱くなった。
彼は、今、どこかから私の様子を窺っているのだろうか。
そう意識した途端、気恥ずかしくもなる。
「凪」
「龍ちゃん……」
振り返ると、彼が立っていた。
「凪、渡したい物があるんだ」
彼が、紙袋から小さな箱を取り出す。
「開けていいの?」
彼の贈り物に、上手く声にならず、声が震えた。
開いた箱の中には、指輪が収められている。
「一応、プロポーズのつもりなんだけど」
予想外の出来事に、私は戸惑いを見せてしまう。
頬にかかる暖かい吐息を伴って、不意に彼の顔が近付く。
気恥ずかしさから私は想わず、胸に抱えていた花束で自分の口元を隠す。
「花が、邪魔だよ」
彼が笑って、その額を私の額にコツンと押しあてた。
完
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