第82話 熊先生
ひろしが運転するバンが停まったのは、下町の小さな医院の前だった。
『
そう読める看板の字が消えかけているのを見ても、とてもそこが流行っているようには見えない。
ケイトとひかるの手を借り、ひろしが苦無を、聖子が堀田を背負った。
曇りガラスがはまった古いドアを、ひろしが小柄な体で押しあけ中へと入る。
小さな医院に似つかわしい小ぢんまりした待合室には、おばあさんが二人座っているだけだった。
「夏美さん、クマ先生はいるかい?」
受付窓口に座る六十くらいに見える女性看護師がひろしに背負われている苦無を目にすると、慌てて中から出てきた。
「坊ちゃんじゃないですか! 息子さんどうしちゃった?」
ひろしを「坊ちゃん」と呼ぶ彼女は、古くからの知りあいらしい。
「ちょっと難しい病にかかったようなんだ」
この医院は普通の治療のほかに、異能や様々な術でつけられた傷や呪いの治療を受けつけている。
ひろしがつかった「難しい病」という言葉は、そういった治療が必要なときつかわれる隠語だった。
「……難しい病かい。ちょっと待ってくださいね、すぐに先生を呼ぶから」
白衣をピンと着こなした夏美は、聖子に背負われた堀田をちらりと見ると、待合に座る二人のおばあさんに話しかけた。
苦無たちを先に診てもいいかと尋ねているのだ。
夏美は快く頷いてくれた二人にお礼を言うと、待合室の奥へひろしたちを案内した。
ベッドが二つだけ平行に置かれただけの狭い部屋は、消毒液の匂いが漂っていた。
夏美が置いた枕の上に、ひろしがそっと苦無の頭を降ろす。
隣のベッドでは、もう一つのベッドに横たえられた堀田に聖子が毛布を掛けていた。
「坊ちゃん以外は待合室へ」
夏美が静かだがはっきりとした口調でそう言うと、聖子、ひかる、ケイトの三人は部屋から出ていった。
カチャリ
診察室側のドアが開き入ってきたのは、白衣を着たひげ面の大男だった。
いかつい顔のわりには、目だけが優し気だった。
「熊先生、苦無が術を掛けられたようなんだ」
ひろしが挨拶抜きで要件を伝える。
「こっちのお嬢ちゃんは?」
「スタンガンのようなもので撃たれたらしい」
大柄な医師は、堀田の診察を始めた。
指で胸を叩いたり、聴診器を使う、昔ながらのやり方だ。
それが終わると、彼は両手を擦りあわせてから、それを堀田の体にかざした。
彼は気功治療の名人でもあるのだ。
五分ほどで堀田の治療を終えると、体の向きを反対にして苦無の治療に入った。
脈をとったり、手のひらで体を撫でるようにしたり、堀田のときより時間をかけた医師は、やがて胸のポケットから判子ケースに似たものを取りだした。
彼が太い指でそれを開けると、中には銀色をした釘のようなものが入っていた。
それは頭のところが球状になっており、反対側は先細りになっていたが、その先が丸まっていることから刺すようなものではないらしい。
医師は銀の棒を持った左手で、赤い染料で目のような文様が描かれた苦無の額にそっと触れた。
そして、棒の先端で文様の中心に触れると、その背に右手をそっと添えた。
その瞬間、意識のない苦無の体がビクンと震えた。その動きで彼の体にかけられていた毛布が跳ねのけられ、全裸の体がさらされる。
医師はそれを気にもとめず、今度は
今度は、苦無の背中が弓なりに反った。
その後、腕や足にも施術をおこなうと、紙のように白かった少年の顔に血色が戻ってきた。
熊のような大男は、額にびっしりと汗をかいていた。
「ひでえ術だな! いってえ誰だ、こんな術をかけた野郎は?」
低い声で唸るように言った医師は、まさに熊を思わせた。
「先生、苦無は?」
それまで黙って見ていたひろしだが、施術が終わったと知り、堰を切ったように問いかけた。
「息子さんは大丈夫ですよ、坊ちゃん」
「よ、よかった……」」
聖子たちの前では平気な顔をしていたひろしだが、息子の無事を言いわたされると床に座りこんでしまった。
「ほら、こんなところに座ってると、体が冷えますぜ」
医師は部屋の隅に重ねていた木の丸椅子をベッドの横に置き、ひろしをひょいと抱え上げると、そこに座らせた。
治療が始まってから壁際に控えていた、看護師夏美がドアを開け部屋から出ていく。
それと入れかわりに聖子たちが入ってきた。
「先生、息子と堀田さんは?」
心配を隠さない聖子の言葉に、医師がうなずく。
「二人とも心配いりませんよ。そのうち目を覚ますでしょう」
「「「ありがとうございます」」」
ひろしたちが声を揃えると、熊に似た医師は笑顔を見せたあと、病室から出ていった。
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