第59話 赤い牙

 ◇ ― 苦無 ―


 ケイトさんに近よりながら、佐藤君は自分のあごに刺さった犬歯に手で触れた。

 尖った歯は、あごの肉から抜けたようだが、それは彼自身の血で赤く染まっていた。


「ゲイド……」


 ケイトさんの方へ伸ばしたその両手には、異様に長くそし鋭い爪が生えていた。

 それまでぼうっとしていた堀田さんが、ケイトさんに駆けよる。

 彼女は、ケイトさんを背中にかばうように立ち、両手を横に広げた。


「近よらないで!」


 佐藤君は、その声に反応して、堀田さんの前で足をとめた。

 彼の腕が、ゆっくり上へ伸びる

 鋭く長い爪が、天を指す。


 ボクは、何も考えず、堀田さんの前へ跳びだした。

 巨人に殴られたような衝撃が背中に走り、ボクは地面に叩きつけられた。


「がっ……」


 声にならない声が、肺の空気と一緒に吐きだされる。

 痺れたような背中は、感覚がなかった。

 薄れゆく意識の中で、灰色のジャージがこちらへ近づいてくるのが見えた。


 プツン


 暗闇が意識をのみこんでしまう瞬間、いつもの音が聞こえてきた。


 ◇ ― 堀田 ―


 ケイトに迫る佐藤君は、変わりはてた姿で、明らかに吸血鬼化していた。

 彼女は、魅入られたように硬直していて、驚きからか苦無君も動けないでいる。

 崖の上から飛びおりたダーメージなど全くなかったのか、佐藤君はこちらに近づいてくる。

 私がなんとかしなくちゃ!

 両手を広げ、ケイトの前に立つ。


「近よらないで!」


 泥で汚れた佐藤君の顔に、一瞬、彼本来の表情が浮かんだように見えた。

 しかし、彼は腕を振りあげ、鋭い爪が伸びた手を頭上高く伸ばすと、私めがけ一気にそれを振りおろした。

 爪にひき裂かれる激痛を覚悟した私の前に、苦無君が跳びだしてくる。


「がっ……」


 佐藤君の手を背中に叩きつけられ、苦無君がつぶれたような声を出した。

 倒れかけた彼を反射的に抱えると、彼は意識を失った。

 よかった! まだ息があるわ!

 ジーンズのポケットから、あらかじめ用意していた治癒の護符をとり出す。

 苦無君の服をめくると、その背中には、平行に並んだ四本の深い傷跡ができていた。

 見ている間にも、白い傷口に血の粒が浮かんでくる。

 

 傷口を横切るように護符を貼ると、それを上から右手で押さえ真言を唱える。

 なにかが爆発したような音がしたが、今は傷を癒すのに専念する。

 苦無君、戻ってきて! 

 

 ◇ ― ケイト ―


 迫りくる吸血化した少年。

 逃げなければならないと思うのだが、まっ赤な目に見つめられ体が動かない。

 吸血鬼が持つ、【ゲイズ】の能力に違いない。

 友人が目の前に跳びだし、手を広げるのが見えた。


「近よらないで!」


 馬鹿ね、そんなことでコイツが止まるはずないじゃない!

 化け物が振りあげた爪は、しかし、友人ではなく苦無君の背中を切りさいた。


「がっ……」


 崩れおちる苦無君、それを支える友人の姿……。

 怒りからくる魔力の放出で、自分の髪の毛が、ぶわりと巻きあがるのを感じる。

 

「ゲイド……」


 私の名前らしきものを、うめくように口にしながら近づいてくる吸血鬼。


「よくも、よくもやってくれたわね……」


 私は、前に腕を伸ばす。

 激しい怒りが【ゲイズ】の効力をうち消していた。

 今から唱える魔術は、本来、火属性のワンドを使うべきなのだが、魔力がたけり狂っている今なら、むしろなにも使わない方がいい。


「かまどに宿る火の精霊よ、舞い踊れ! 聖なる炎で悪しきものをうちはらえ! 我が命ずるは、【パイロニス】!」


 ケルト語の詠唱。

 上に向けた手のひらに、浄化の力を持つ青い炎の球が生まれる。

 私は手首を返し、すでに目の前まで迫っている吸血鬼にそれを放った。

 この近さなら、確実に当たる!


 しかし、少年の姿をした吸血鬼は、至近距離から放たれた魔術の火を、ゆらりと体をゆするだけで避けてしまった。


 ドン!


 少年から外れた火の球は、さっき私たちが降りてきた急斜面に当たり爆発した。

 吸血鬼は、ゆっくりした歩みで、顔と顔が触れるほどの距離にまで近よった。

 かつて佐藤という名の少年だったそれは、赤い目の下にある真紅の唇を開き、長く尖った犬歯をむきだしにした。


 もうだめね。

 あきらめた私は目を閉じた。


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