第60話 報い(上)

 傾斜地の上に立ったマイケルは、自分が術をかけた日本人の少年が妹のケイトたちを追いつめるのを双眼鏡を通し見ていた。

 その顔には、企みがうまくいった会心の表情が浮かんでいる。


 魂が抜けたようになった妹が動けないでいるうちに、血まみれの少年が、向きあった姿勢から、彼女の肩を両手でつかんだ。少女の体を軽々と引きよせると、彼女の白い首筋に牙をつき立てようと、その口を大きく開いた。

 よだれを引くその口が柔肌に触れようとしたとき、さきほどまで倒れた少年のところにいた黒髪の少女が、それ以上ない強い声を出した。


「ケイトから離れろっ!」


 吸血鬼の少年は、その声にちらりと振りむいたが、手ぶらで近づいてくる少女を見て、にやりと笑った。

 彼女が何をしようがもう遅い、この喉の渇きと血への飢えを満たすため、まっ白い首筋に歯を突きたてるだけだ。再び、ケイトへ向きなおった少年は、こんどこそ目的を果たそうとしたが、本能的な危機感が彼をまたも振りかえらせた。

 黒髪の少女が、ためらいなくこちらへ走ってくる。

 一瞬だが、それに視線を向けた少年は、斜面から斜めに突きだしていた木の一本がゆっくり彼の上へ倒れこんでくるのに気づくのが遅れてしまった。


 ゴンッ


 一抱え以上ある枯れ木を、少年は、なんと片腕で支えた。

 その顔に浮かんだ不敵な笑顔は、次の瞬間驚きに歪んだ。

 大小の枯れ木が、彼の上に落ちてきたからだ。

 その中には、先ほどの枯れ木の二倍以上太いものもあった。


 ゴゴゴゴーン


 腹に響く音がすると同時に、枯れ木から突きでた枝が折れるパキパキという音が鳴った。

 土煙が舞いあがり、倒れた木々と、それに押しつぶされた者たちを覆いかくした。

 マイケルが、その顛末を見ようと双眼鏡を顔に押しあてる。

 土煙が収まってきたとき、レンズ越しに彼の目に映ったのは、幾重にも重なる倒木の下から見える黒い頭髪だった。


「くくく、予定外の獲物までかかったな」


『魔術協会』が問題にしている苦無という少年を彼が仕留めたとなれば、祖父は後継ぎのことを考えなおすかもしれない。

 マイケルのこの考えは、的を射たものとはいえなかった。協会や彼の祖父が狙っているのは、あくまで苦無少年の取りこみであり、彼の命を狙うなどというなど計画の埒外だった。

 

 狙っていた妹の死を確認するためにも、彼は足早に現場まで降りてきた。

 しゃがみこんで倒木の下を覗くと、倒れている少年の背中が見えた。

 大きく破けた服の下から、四本の深い傷跡が見えている。

 そこから血がじくじくと湧きだしていた。

 放っておけば、助からないだろう。


「む、あいつはどこだ?」


 おり重なった倒木の周囲をぐるりと回ってみたが、妹の姿は見あたらなかった。

 妹の体が倒木の奥にあり見えないことも考えられたが、彼女と一緒にいた黒髪の少女も見つからない。

 どういうことだ?


 がっ


 突然、足首に強い力を感じたマイケルが足元を見おろす。

 そこには、倒木の下から伸びた手があった。

 指の爪が、異様に長く伸びている。


「お、お前はっ!? ど、どういうことだ!?」


 マイケルは、ついさっき見た光景を思いだしていた、苦無少年の背中には、確かに四本の深い傷跡があったはずだ。

 これが苦無少年なのか?

 いや、よく見ると、コイツは灰色のジャージを着ている。ということは、吸血鬼化した少年なのか?

 なぜこいつの背中に同じ傷が?


 倒れてきた最も太い枯れ木の枝が少年の背中をえぐり、その傷を残したなど、たとえ彼がその瞬間を目にしていたとしても信じられなかっただろう。

 

 足を締めつけていた手の力が次第に強まる。

 

「や、やめろ! 俺はお前のマスターだぞ!」

 

 少年を吸血鬼に変えた青年は、必死な声で訴えかける。


 ミシリ


 そんな音を立て、倒木が持ちあがる。


「ひ、ひいい、は、放せ! 放してくれえ!」


 青年の足を支えに、少年の体がずりずりと倒木の下から這いでてくる。

 少年の顔が足に近づく。

 その口は大きく開かれ、長い犬歯が糸を引いていた。


「ギ、ギャーッ!」


 少年の牙がふくらはぎにくいこむと、マイケルが人のものとは思えない叫び声を上げた。

 だが、彼らの近くに、それを聞いているものは誰もいなかった。 

 

 




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