第55話 王子様と囚われの姫君(5)

 塔は思っていたより遠かった。

 荒れ地の草をかけ分け、塔の近くにある大きな岩のところに着いたとき、ボクは完全に息が上がっていた。

 日頃の運動不足がうらめしい。


「はあ、はあ、あ、あれ、どうやって入るの?」


 岩陰から見える塔には、円筒状の側面にいくつか小さな窓があるのだが、どれも地面からかなり高いところに切られていた。

 塔の根元、見える側に一つだけあるドアは黒く、グレイシャー邸の門に使われていた金属でできているようだ。

 

「あの塔の入り口は、あれ一つだけ。普通なら入れないでしょうね。でも、ケイトがある方法を教えてくれたの」


「方法って?」


「それは秘密。その準備をするから、苦無君はここで待っててくれる?」


「うん、分かったけど、一人で大丈夫?」


「大丈夫。一人じゃないと、できないことなの。でも、いい? 私が帰ってくるまで、苦無君は絶対にここから動かないで。それまで目を閉じていて欲しいの」


「目を閉じる? なんで?」


「どうしても! お願い、絶対に目を開けないでね」


「……うん、分かった」


「じゃあ、行ってくる。もし、私が帰ってこなかったら……帰ってこなかったら、お父様に連絡してください」


「堀田さんのお父さんに?」


「いえ、苦無君のお父様にです。いいですね、お願いしましたよ」


「分かったよ。ホント、気をつけてね。なにかあったら、ボクを呼んでね」


「そういうことは、まずありません。では、目を閉じてください」


 堀田さんは、ボクの肩に手を掛けると、ボクが背中で大岩にもたれかかれるようにしてくれた。


「うん」


 ボクが目を閉じると、彼女が立ちあがる気配がした。

 そして、その気配は、ぱっと消えてしまった。

 思わず目を開けそうになったけど、言われたことを想いだし、座って膝を抱える姿勢をとった。

 堀田さん、無茶をしなければいいんだけど。


 ◇


 ペチョッ


 ベッドに座っていたケイトは、なにか湿ったものが床に落ちる音を聞き、そちらを見た。

 そこにいたのは、スコットランドのものより小さな、若葉色のカエルだった。

 

「ど、どうして!?」


 驚きの声を上げたケイトは、ベッドの毛布を丸めると、それを小さな侵入者の上へ投げかけた。

 カエルの上に落ちた毛布は、むくむくと盛りあがり、その端がめくれると黒髪の少女が顔を出した。

 

「やっぱりここにいたのね?」

 

 堀田が日本語で話しかける。


「ぴょんちゃ……じゃなかった、あんた、どうしてこんなとこまで来ちゃったのよ!」


「どうしてって、あんたが苦無君に助けを求めたんでしょうが!」


「しっ! 静かに! ドンに聞かれてしまうわ!」


「ドンって、以前あんたが話してた友達でしょ?」


「そうよ。でも、もしあんたがここに来てることを知ったら、彼、間違いなくおじいさまに報告するわ。だから、小さな声でしゃべってちょうだい」


「それはいいけど、あんたはどうしたいの?」


「こんなところ、逃げだしたいに決まってるじゃない」


「そういえば、この塔って魔術が使えないような結界が張ってあるんでしょ? 中に入ってからも変化の術がつかえたのって、どうしてかしら」


「それは、結界が日本のいかがわしい術式まではカバーしてないからよ。安心なさい」


「言ったわね! なにがいかがわしよ! 蜘蛛を従魔にするほうが、よっぽどいかがわしいじゃない! それより、お友達のトムだっけ? あの蜘蛛は、どうしたのよ?」 


「塔に近づけないから、その辺の草むらにいるはずよ」


「結界って従魔にも効くんだ」


「それより、今はここから逃げましょう」 


「下にいたドンって男の人は、どうするの?」


「逃げだしさえすれば、追ってはこないんじゃないかな。そんな気がするわ」


「自信ないのね?」


「うるさい! でも、逃げるにしてもこの部屋は、外からロックされてるからね」


 ケイトはドアノブのない、部屋の扉を指さした。

 それには、上部と下部に、小さな換気用の穴があった。


「そのドンって人が、扉を開けることはないの?」


「食事の時だけね。

 しかも、ちょっとしか扉を開けないの」


「なるほど……分かったわ、よく聞きなさい。こういう作戦はどう? まず――」


 ケイトはベッドから降りると、毛布にくるまった少女の横に座り、彼女が言うことに耳を傾けた。

 

 ◇


 目を閉じ、堀田さんが帰ってくるのを待つ間、ボクはグレイシャー邸でのディナーを思いだしていた。

 静かだが、誰もがなにかを企んでいるような雰囲気、ケイトは幼いころからあんな場所で食事をしていたのか。

 きっと心休まることなどなかったに違いない。

 ウチの食事風景が頭に浮かぶ。

 その日あったことを朗らかにしゃべる、ひかる姉さん。それに絶妙の突っこみを入れる母さん。二人のやりとりを聞きながら、静かに微笑み料理に手を伸ばす、父さん。

 その場にいるだけで、その日あった嫌なことが忘れられる。

 

 ザザザザザ


 そんなとき、ボクの前方、つまり塔の向かいの森が鳴った。

 慌てたような鳥の声も聞こえる。

 誰かが、あるいは、何かが森の中にいる?

 ボクは、思わず目を開けた。

 草原の向こうに見える森は、来た時のままのように見える。

 だけど、ボクはなんだか嫌な予感がして、大岩の陰から身をのり出し、塔の方へ視線をやった。


 誰もいない?

 大岩と塔を結ぶ線上に堀田さんの姿はなかった。

 一面に草が生えているといっても、体を隠せるほどの高さではない。

 彼女はどこにいったのだろう?


 ザザザザザ


 森のほうから、再び不気味な音がする。

 ボクは、堀田さんの忠告を破り、大岩から塔へと足を踏みだした。

 




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