第41話 聖子の準備

 その日の午後、自転車を押し、夕食の買いだしに出ようとした聖子を、近所の主婦が呼びとめた。


「切田さん、これからお出かけ?」


 三十代半ばの小林は、年の割には若い恰好をしていたが、童顔の彼女にはそれがよく似あっていた。


「あ、小林さん。ええ、今日は『マルとくスーパー』の特売日なの」


「あ、そうだったわね! 私も行こうかしら」


「急いだほうがいいわよ。タイムセール四時からだから」


「じゃ、すぐに用意するわ! ちょっと待っててくれる?」


「いいわよ、急いでね」


 それほど待たず、髪をスカーフでまとめた小林が自転車を並べた。

 

「じゃあ、行きましょう」


 ◇ 


「「うふふふ」」


『マル得スーパー』から出てきた主婦二人は、満足気な顔をしていた。どうやら、いい買い物ができたようだ。


「ねえ、切田さん、さっきタイムセールの時……」


 聖子が自転車のカゴにスーパーの袋を入れていると、小林が戸惑うように話しかけてきた。


「え? どうしたの?」


「あのね、あなたが真剣な顔をしているの見たら、女優の『青峰雪子』に似てるなあって思っちゃった」


「……ははは、それは光栄ね」


「私、あの方のファンなの。

 映画には二本しか出てないけど、何度繰りかえして見たか分からないくらい」


「……そ、そう。小林さんからそう言ってもらえるなんて、その女優さん幸せね」


「まさか切田さんが、青峰雪子なんてことないわよね?」


「そ、そんなことあるわけないじゃない」


「ご家族やご親戚に、映画俳優になった方はいらっしゃらない?」


「いませんよ」


「ひかるちゃん、最近ますます『青峰雪子』に似てきてるわ」


「……他人の空似よ」


「切田さん、あのね、前からお願いしたかったことがあるの」


「な、なんでしょう?」


「わ、私とお友達になってください!」


「えっ……。もう、ご近所様なんだから、お友達のようなものだと思うんだけど」


「で、でも、もっとお近づきになりたいの!」


「ま、まあ、小林さんがそうしたいなら……」


「まあ! ホントにホント!? 嬉しいわ!」


「え、ええ。あ、もうこんな時間! 急いで帰らなくちゃ」


「切田さん、少しの時間でいいから、お茶でもして帰らない?」


「ごめんなさい。旅行の準備で忙しいの。じゃあ、またね!」


「あ、ちょっと待って、青峰さ……いえ、切田さん!」


 小林が呼びとめたが、自転車に乗った聖子の姿はすでに小さくなっていた。


「まちがいないわ! あの方、絶対に伝説の女優『青峰雪子』さんですわ! 必ず本人だと突きとめてあげますわ!」


 一人の主婦が、自身ではそう意識しないにもかかわらず、ストーカーへ変身した瞬間だった。

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