第40話 ひろしの準備
郊外にある小さな教材会社の一室では、窓際の椅子に座った三十過ぎの上司が、四十代の小柄な部下に対し、いつものごとく小馬鹿にした口調で話しかけていた。
「切田く~ん、キミ~、な~にを考えてるんだ~い?」
机の上に出された有給休暇の申請書をくしゃくしゃと丸めながら、小太りの上司は、目の前に立つ部下を睨みつけている。
ただ、迫力がないため、それはまるでおねだりしている大きな子供に見えた。
「社則に従って申請しておりますが――」
「そんなことを言ってるんじゃない!」
脂を額に浮かべた男が急に声を荒げ机を叩いたため、ガラス製の灰皿が跳ね、くるくると回った。
「お前は、そんなことできる立場だと思ってるのか!」
上司のどなり声にも、ひろしは動じなかった。
「立場といいますと?」
「な、なんだと……」
いつもならぺこぺこ頭を下げるはずの相手が、静かな声で反論したことで、男の怒りがさらに増した。
「お、お前のようなやつは、クビにしてやる! 覚悟しておけ!」
「はい、承知しました。では、有給休暇が終われば、退職願を出します」
「なっ、なんだと!? お、お前、覚悟はできてるんだろうな! 家のローンも払いおえてないくせに!」
「どうも、ローンの心配までしていただきありがとうございます。それより、これにハンコをいただけたらと」
ひろしは、机の上に丸められていた有給休暇の申請用紙を、手のひらで丁寧にのばした。
「いいだろう! その年になって会社から放りだされたらどうなるか。じっくり見てやるよ」
男は申請書類に判を押すと、椅子を回し、頭を下げたひろしに背を向けた。
「ふん、ゴミ野郎が!」
ひろしがドアを閉めようとすると、部屋の中から、そんな捨て台詞が聞こえてきた。
プツン
◇
馬場部長は、その日、会社に来てから、なんとなく女子社員の目が気になった。
最初は、新調したスーツにみんなが注目しているのかと思っていた。
だが、彼女たちが眉をひそめたり、口にハンカチを当てているところを見ると、どうもそうではないらしい。
近くのラーメン屋で朝食を済ませ会社に戻ると、職場の女性たちが、みんなマスクを着けている。
「野田君、花粉症かね?」
一番近くに座っている女性社員に声を掛けてみる。
「え、ええ、今日は花粉がひどくて」
花粉症持ちの馬場は、自分だけ平気なことを不思議に思ったが、ちょうど取引先から電話が掛かってきたので、それ以上そのことについて話しを続けることができなかった。
しばらくしてトイレを済ませた馬場が、給湯室の前を通ると、そこから女子社員の声が聞こえてきた。
「ねー、なにあの匂い!」
「あー、あれ、加齢臭ね」
「加齢臭? それにしては臭すぎない?」
「そうよねえ、生ごみが腐ったような臭いが強烈だよね!」
「そうそう、ゴミっぽい臭いだよね~。マスクしてごまかしてても、もう吐きそう!」
「馬場部長の奥さん、よくあれで我慢してるよね~」
(な、なんだと、私のことなのか!?)
馬場は思わずよろめき、壁に手を着いた。
(加齢臭だと? 私は、まだ三十になったばかりだぞ……)
シャツをめくり、自分の腕を鼻に近づけてみる。
(やっぱり、なにも臭わないじゃないか!)
その日、帰宅すると妻と小学生の愛娘から臭い臭いと言われ、家を追いだされることになるなどと、この時、馬場は思ってもいなかった。
【
その人自身に臭いを気づかせないこともできる。
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