第35話 家の事情

 七月も終わりを迎えようとしたある日の午後、ボクのスマホに着信があった。表示された名前はケイトさんだった。

 ちょうど拭いていたお皿をテーブルに置き、濡れた手を布巾でぬぐってから、電話に出た。 

 

「はい、もしもし。ケイトさん?」


『……』


「どうしたの?」


『……』


 電話の向こうでは、鼻をすするような音が聞こえてくる。

 

「ケイトさん、どうしたの?」


『く、苦無君……私、これからイギリスへ帰ることになったの』


「えっ、これから!? どうして?」


『おじい様が私の帰国をお決めになったの』


「おじい様が? ケイトさんは帰りたいの?」


『嫌っ! 帰りたくない!』


 ケイトさんの悲痛な叫び声を耳にして、ボクは体の芯がかっと熱くなった。


「じゃあ、帰らなけりゃいいじゃない!」


 ケイトさんは、しばらく黙ったままだった。


『ダメなの。おじい様が決めてしまわれたら、もうどうしようもないの』


「どういうこと? どんなに話しても分かってもらえないの?」


『私の……私の言うことなんて聞いてもらえないの』


 涙を必死にこらえているのが、電話越しに伝わってくる。

 

「いつ帰るの?」


『だから、これからなの』


「これからって?」


『今、空港から電話してる』


 そう言われてみれば、電話越しに離発着のアナウンスが聞こえてくる。

 

「ケイトさん?」


『お願い! 苦無君、私を助けて!』


『お嬢様、もう時間ですよ』


 女性の声が聞こえてきた。

 

『嫌! 帰りたくない! 苦無君、苦無く――』


 通話が途切れる。


「ケイトさん! ケイトさん!」


 伝わらないと思ったけど、そう呼びかけずにはいられなかった。

 

「苦無、どうしたの? 顔色が悪いわよ」


 高校の補習授業から帰ってきたひかる姉さんが、心配そうにボクの顔をのぞきこんでいる。

 

「お姉ちゃん、ボク、ちょっと出てくるから!」


「ちょっと、どうしたのよ!? 苦無、なにかあったの?」


「なんでもない! 遅くなるかもって、母さんに言っておいて!」


 二階に駆けあがり自分の部屋にとびこむと、机の上にあった財布をつかむ。

 

「あっ、そうだ!」


 ボクは登録していたある番号へ電話をかけた。


『あわわわわ!』


「堀田さん?」


『く、苦無君!』


「ケイトさんから連絡あった?」


『えっ、連絡? あ、いっぱい着信が入ってる。なにしてるのアイツ!』


「それどころじゃないよ! ケイトさんがイギリスへ帰っちゃう!」


『苦無君……夏休みだから帰省するんじゃないでしょうか?』


「いや、そんな感じじゃないかったよ! 助けてって言ってたし」


『どういうことでしょう?』


「なんでも、おじい様に無理やり帰らされるみたいなことを言ってた」


『あのクソジジイ、あっ、今のは違います!』


「とにかく、話を聞いてほしいんだけど」


『は、はい! 大丈夫です!』


「今からすぐでもいい?」


『あわわわわ! そ、そんなに私と……。で、では、以前一緒に行った喫茶店はどうでしょう?』


「ああ、花さんのお店だね? じゃあ、今からすぐあそこに向かうから」


『はい、私もすぐ行きます』


「気をつけて」


『苦無君も』


 ボクは部屋をとびだすと、階段を駆けおりた。

 なにかがボクの体をつき動かしていた。

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