#7-2

「なあなあ、空田ちゃん。ちょっといい?」

「なに?」

 バスの車内で沖島くんの隣に座っていた――というか、沖島くんがとても自然に、あえて私の隣に座ったような気もする――私に、沖島くんが声をかける。私はいつもの雑談だろうと思って、普段通り返事をした。でも、そのときの沖島くんの表情が、あまりにも真剣なもので、はっと私は、彼がいつもと違うことを察してしまった。沖島くんがじっとまっすぐこちらを見ていた視線を揺らして、ふっと、その両目がいつものように細くなり、笑顔になる。

 ――普段、あまり真剣な顔をしない人の真顔って、なんでこんなに……。

「――空田ちゃん、あのさ。俺、勝っても負けても、空田ちゃんに言いたいことあってさ」

「……うん?」

「はは、でも、せっかくだから勝って言いたいんだよな。負けイクサだけどさ、全部に負けちまうのは、さすがにキツイし、かっこわるいだろ」

 首を傾げる私に、沖島くんは照れたように笑う。「……えっとさ。そうじゃなくて……、なんか、言いたいことぼやかすのって、俺に合ってないんだよな。わけわかんないだろうけど、ここじゃちょっと。試合が終わったら、ちょっとだけ俺に付き合って、空田ちゃん。一瞬で終わるし」

「うん……」

 ――なんだろう、と思いながら、ふと、もしかして、と思う。でもそんなこと、あるわけない。だって、沖島くんは友達なんだから。

 私がうなずいたのを見て、沖島くんはとても自然に、別の話題にうつっていく。沖島くんの、いつもの他愛のない話に、後ろに座って、寝ようとしていたのだろう瀬里先輩が、目を閉じたまま茶化したり、隣の二列に座っていた近山くんと土田くんが突っ込みを入れたりして、いつも通りに流れていく。

 でも、私はなぜか、そんなみんなの輪のなかで、「いつも通り」でいることができていないような気がしていた。なぜかわからないけれど、どうしてこんなに憶病な気持ちになるのかもわからないけれど……。

 相手校の道場に着いて、いろいろな準備が終わった後、試合が始まる。みんなそれぞれすごく集中している様子で、でもそのなかで、どこか緊張したような――でも、やっぱりなんだか、いつもと気合の入れ方が違う沖島くんが、とても目立つような気がした。

 沖島くんの試合は、二番目だ。一番目は土田くんで、部員がひとり足りないから、彼はこのあともう一試合やる予定だった。

 試合が始まって、じっと土田くんの動きを見る。型にはまった、というのは、もしかして彼が一番それかもしれない、と思うような動きだ。瀬里先輩のほうがもっと機械みたいだ、と思っていたけれど、瀬里先輩のそれは自分のものにできている。でも土田くんは型にはまろうと苦戦しているという風に、見える気がする。

 先陣を切ったのは相手だったけれど、そのあと土田くんがやり返して、「一本!」と審判の声がかかる。――土田くんが勝ったのだ!

 自分の陣営に戻ってきた土田くんが、こちらをちらりと見た。面の下の口元が、笑っているように見えたのは、きっと気のせいではない。

 次の手合せで、沖島くんが名を呼ばれて立ち上がると、なんだか場の雰囲気がぴりっとこわばった気がした。相手側の選手にも、やっぱり彼の緊張が伝わっているのだろうかと思うほど、張り詰めた空気が満ちる。

「はじめ!」


 一本! と声が聴こえて、はっと沖島は我を取り戻した。やっと周囲の様子が見れたと思えば、しんとあたりは静まり返っている。そんなのあたりまえなのに、沖島はそれにはっきりと言いようのない恐怖を感じた。

 ――負けた?

 審判を、願うように見る。どちらの手をあげている?……

「……あ」

 こんな自身の声、いまだかつて聴いたことがない、と思うほどにかすれた声が落ちる。空っぽの頭で礼をし、自分の陣営に戻り、ふと空田のほうを見ると、彼女が、目を見開いて――そして、なにか声を上げそうになったような様子で、あわてて自身の口元をその手で押さえたのが見えた。そこでやっと沖島は、自分の置かれている状況を理解する。

 ――勝ったのだ。

 生暖かい、赤いものが道着にぽたりと付着する。「……?」

 沖島はそれを見て一瞬考えた後、それが鼻血であるとわかって顔を真っ赤に染めた。彼の様子に気が付いた空田が、慌てて沖島に駆け寄り、空田のものだろう柔らかいタオルハンカチを彼に渡す。

「俺、かっこわるいな……」

 ――こんなにかっこわるいのに、こんなに嬉しくってさ。

 ――そうか。勝利って、こういうものなんだな。

 タオルハンカチを受け取り、空田に付き添われ涼しいところに避難して、沖島は面を外した顔でちょっと照れて笑った。鼻を押さえた恰好は、お世辞に恰好が良いとは言えないのだろうけど、と彼は思う。それでもこの瞬間にある勝利へのたしかな喜びは。

「沖島くん、大丈夫? 私、水持ってくるね」

「まって、空田ちゃん」

 介抱をしようと、沖島の目の前に座り込んでいた空田が立ち上がったことに、名残惜しくその腕を引くと、「どうしたの、もしかしてどこか痛い? すぐ水を持ってくるから――……」

「空田ちゃん。俺さ」

 瞬間、ぐるぐると言葉がまわる。こういう瞬間は、何度やっても慣れない、と沖島は頭の隅で不意に考えてしまう。

「……俺さ……」

 ふ、と、らしくなく真面目な顔をしているだろう自分に笑いがこぼれる。へらりと笑って、「あのさ、言いたかったことあるって、言ったじゃん、俺。あれさ。……俺たち、ずっと友達でいれるよな? ってさ」

「……」

 驚いたように、彼女は目を見開く。その目に一瞬浮かんだ安堵に、沖島は「あ、正解だったな」と、自分の「負け」がはっきりわかった。

「当たり前! だって、沖島くんは、私の初めての男友達だもん」

 「大事にしてるんだよ、これでも」と言って、空田も照れ笑いをした。沖島は、その彼女の笑顔に、泣きそうな顔で笑い返した。「ずるいな、ほんとに」

「え?」

「いや、でもよかった。だよな、そりゃそうだよな!」

 「あ、鼻血とまったわ」と、嫌そうに顔をゆがめて、それからはじけるように空田と笑う。それは全部、沖島の照れ隠しで、負けでも勝ったような、そんな気持ちを全部、空田に隠そうとした故だった。

 ――本当は、「好きだ」って言ってしまおうかと思ってた。

 沖島が落ち着いたのを見て、ひとり道場に戻っていく空田こころのちいさな背中を見ながら、沖島は思う。沖島は本気で空田に思いを募らせていて、でもそれが叶うものではないことも知っていたのだ。「負け戦」だと自分でも口を滑らせたのに、どうして告白まがいのことをしてしまったのだろう、とも思う。

 それでも、なにかしら、伝えてみたいと思ったのだ。彼女がどういう反応をするかは、最初からわかっていた。好きだといえば本気で悩んで、考えて答えてくれたのだろうし、友達といえばこんな風に、安堵して笑って、受け入れてくれる。

 それ以上に、沖島は――認めたくないが、空田が前に進むためには、自分が枷になるようなこと……「好きだ」と言って、彼女が前に進めなくなるようなことになるのだけは、避けたかった。叶わないならまだしも、彼女ならきっと、そんな沖島を拒絶しても、受け入れたとしても、なにもできなくなっていただろう。それがわかるから、沖島は言わなかったのだ。

 好きだからこその選択というのも、あると思うんだよな、と考えて、沖島は深いため息を吐く。

 それでも満足しているこの気持ちは、彼にとっての敗北でも、それは同時に勝利だった。

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