第六章 家族のはなし
#6-1
別に、生活に困っていたわけじゃない。
暴力を振られていたとか、全くなにも食べさせてもらえなかったとか、そういうことでもない。
ただ、「彼女」は俺のことをどうも嫌っているようだった。嫌いだから。邪魔だから。それなら産まなければよかったのに、と何度俺は思ったことか。
彼女――母は、いわゆる育児放棄というやつをしているようだった。いや、そこまで大それたものではなくとも、彼女は家に帰ってくることがなかったし、小さなころから祖父母の家に預けられていた俺は、我儘な母親を恋しいと思う「異常」な生活が、「異常」であることも知らなかった。
それが当たり前だったのは、死んだ父親に似ているからという理由で――これは後からばあちゃんにきいた――母が俺に近付こうとしないことは悲しかったとしても、美味しい食事もあって風呂にも入れて、ちゃんとした場所で眠れる生活が、俺にはあったからだったのだろう。それを当たり前ではないのだと気が付いたのも、随分後になってからだった気がする。
授業参観、運動会、体育会――
そういった言葉が嫌いになったのは、いつの頃からだっただろう。高校に入るまで、どうしても親の影はついてまわってきた。周囲が当たり前のように受け入れている両親というものが、俺はよくわからない。
……それが寂しいことだということも、気づかない振りのほうが慣れている。
過去のことを思い出してみると、いつも誰かに「かわいそうね」と言われていた気がする。それは決まって大人の言葉で、いまよりさらに子供だった俺は、その言葉の意味すらよくわかっていなかった。それでも、そのあとの決まり文句は、子供なりに嫌いだった。
「三月くんはお母さんが「あんまり」だから、仲良くしてあげるのよ」
子供の目の前で、どうして大人はそういうことを言うのだろう。言葉の意味がわかっていないとでも思っているのだろうか?
初めてそう言われたとき、母を悪く言われたのだという事実と、「かわいそうだから仲良くしてあげる」対象が自分である情けなさで、帰ってから自分の部屋でひとしきり泣いた記憶がある。
その頃まだ元気だった祖父にも、勿論祖母にも、俺は自分がそんなことを言われて泣いているということを気付かれたくなかった。だから一人部屋にこもって、声を押し殺して泣いたのだ。
……でも、いまなら思う。「その言葉で傷ついたことを知られたくない」のは、「その言葉が事実だと知っているから」なのではないか、と。
実際、俺はきちんと知っていたのだと思う。俺は仲良くしてもらう側の人間で、その理由が母の育児放棄なのだということ。水商売をしていた彼女のことは、きっと友達の親たちの間でも、噂にくらいなっていただろうことは考えてみればすぐにわかる。水商売の母親に、見捨てられた可哀そうな子供。それが俺で、だからこそ仲良くしてあげてとほかの大人は笑うのだ。
――お母さんはいつ帰ってくるのだろう。
――お母さんは、ぼくのこと覚えているのかな。
一度だけ、祖父が死んだ日に、俺は祖母に抱きしめられながらそうこぼしたことがあった。祖母は、なにも言わなかった。父代わりだった祖父がいなくなって、俺はきっと、このまま祖母も俺から離れていくのだと思ったんだろう。母のように。それが「当たり前」で、俺は「かわいそうな子」だから。父に似た俺は、嫌われる対象で、だから――
「三月、今日はなにが食べたい?」
長い沈黙のあと、口を開いた祖母は、俺にそう訊ねた。その言葉をいまだに覚えているのはなぜなのか、それだけ俺はわからないでいる。そのあと自分がなんと答えたのかも、覚えてはいないのに。
「頭いて……」
土田は長い夢から目を覚ます。祖父の葬式の線香の匂いが部屋を満たしていたはずなのに、と辺りを見回して、ああ、あれは夢だったのだとやっと頭が回りだしてきた。ずきずきと痛む頭に、喉もこころなしか疼くような気がする。
「風邪ひいたか?」
呟いて、「あー」と声を出してみれば、いつもの寝起きの声より数倍掠れている気がして、「やらかしたな」と土田は大きな欠伸をした。
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