#4-4

「こころ、本当に良いの?」

「いいの。おねがい、旭ちゃん」

 旭の部屋のドアの隙間から、中を覗き込む。そこには涙目のこころと、真剣な顔の旭の横顔があった。こころは旭に背を向けていて、その長いきれいな髪に旭がハサミを入れる。まてよ、とか、なにしてるの、とか、言ってもいいはずの言葉がぐるぐると頭の中をまわるのに、そのどれもが喉に詰まってしまって息が苦しい。

 胸がどくどくと早くなる。じゃき、と無情な音がして、ぱらぱらと床に引いた新聞紙の上にこころの茶髪が落ちていく。

 すべてが終わってから、こころは泣きそうな顔で旭を見る。

「これでもう、私はオヒメサマじゃないよね。似合うかな? 旭ちゃん」

「似合ってるよ、こころ」

 返す旭の声に、ちょっと震えたような響きがあった。でもそれにも、こころは気が付かないのだろうか。こころはすこし晴れ晴れした顔をしていて、手鏡を寄せてそれを覗き込む。まずい、と俺は慌ててドアから離れ、二人の見えないところに隠れる。こころは「うん?」とちょっと俺が見えたみたいだったけれど、気のせいということにしたみたいだった。


「土田先輩。ちょっと話したい事あって、帰り、いいですか?」

 防具を外して颯大が戻ってきて、時間が経ち、部活動の終わる時間になった。やっと帰る準備を始めるメンバーに、いままでずっと剣道部の活動を見ていた颯大が、土田くんになにかを頼んでいるのが道場の隅から見えた。道場の窓の外は暗くなっていて、そのために待っていたらしい颯大の我慢強さというか、気の長さが旭ちゃんそっくりだなと思ったのは、また別の話で。

 道場を拭き上げてしまって、みんなが更衣室に戻った後、沖島くんと瀬里先輩もやっと戻ってきた。道場の外でひとり、鞄を持ってみんなを待っていた私は、誰よりも先にその二人と鉢合わせる。沖島くんはもういつも通りで、瀬里先輩もそうだった。「空田ちゃん。さっきはごめんな」

「ううん。……沖島くん、その」

 私が、言いたいことを言っても良いのか迷っていると、沖島くんは目を細めて首をちょっと傾げた。その様子がいつもの、機嫌のいいときの様子のように見える。だから、私もちゃんと言っておきたい、と小さく息を吸った。「沖島くん。あのね、部活、やめちゃったりしないよね……」

「へ?」

「あっ……ううん、へんなこといってごめんなさい。なんでもなくて……」

 きょとんと目を丸くした沖島くんに、やっぱり余計なことだったと私は顔を赤くしてごまかす。沖島くんと瀬里先輩は顔を見合わせ、「ああ……」

「――まあ、辞めてやってもいいんだけどさ。ここで辞めたらちょっと、それこそ負け犬じゃん、俺」

 沖島くんの意外な言葉に、私はそらしていた視線を合わせる。瀬里先輩がからかうように言った。「って、俺が言ったんだよな」

「先輩は黙っててくださいよ」

 沖島くんはそう照れたように吐き捨てて、頬を掻き、「……まあ、そういうことだよ、空田ちゃんもいるしな」

「沖島くん、あの」

 私はなにか言いたくて、口を開けたり閉めたりする。でもなにも言えない。なにか、なにか言いたいのに――「うん?」

 沖島くんがふたたび、弓なりに目を細くして笑う。その顔に、なんだか私はほっとしてしまう。「……あの……ありがとう」

「へ? なんでお礼言われんの、俺。変なの」

 そういって沖島くんが笑うから、私もちょっとだけ笑った。


「で、話ってなに?」

 更衣室から出、吹き抜けの廊下で待っていた颯大に、土田はそう開口一番に訊ねる。颯大はちょっと迷うような素振を見せた後、近くにこころの姿がないことをちらりと確かめて、口を開いた。「……旭が、言ってたんです。土田先輩が、こころを守ってくれるって」

「は? 俺が?」

 土田にとって突然の言葉に、やはり土田本人の理解が追いつかないらしい。それは颯大にとっては想定外で、違うなら――と、口をつぐみかけた颯大に、土田は唇をちょっと尖らせて、「まあいいや」

「違うんですか?」

「いや。まあいいよ。で、そうだったらなに?」

 どうも、土田はとりあえず、颯大の話をきこうとしているようだった。その意図を颯大も勘付いて、まあいいかと思いなおす。土田が信用に足る人物なのは、数年前のこととはいえおなじ剣道教室に通っていたときから知っているのだ。

 ――きっと、だから旭も、土田に空田こころを守ってもらおうと考えたのだろう、と思う。それなら、現状傍にいれない自分より、彼に知っておいてもらった方が良い。こころ本人には大きなお節介でも、あの少女はなんだか、周りをそうやって動かしてしまうところがある。頼りない、とでもいうのだろうか。

「こころのことです。……土田先輩に、こころを守ってやってほしい。あいつ、なんか、すぐ敵を作ってしまうみたいで、それが一番ひどかったのは……中学の時」

 静かに話し出した颯大の言葉に、土田は耳を傾ける。

「こころは、昔から、出し物のときなんか、すぐに姫の役にされてたんです。あいつ自体が、すごく長い髪だったのもあると思うんですけど、あの外見だし、ちょっと、ぽいから。それを、本人も最初はなんとも思ってなさそうだったのに、あるときからすごく嫌がるようになって。なんでだろうって思ってたら、なんか……二年か三年前だったんですけど、そのとき、あいつ、同じグループだった女子に、姫ってあだ名つけられていじめられてたらしくて」

 颯大の話に、土田はぴくりと眉を動かした。知らず知らずのうちに腕を組んでいたらしく、ああ、と土田は組んだ腕を解く。颯大は話しながら土田を見ていたはずなのに、気が付くと、更衣室の廊下の手すりから、暗くなった運動場を眺めていた。「そのときだと思います。あいつ、泣きそうな顔で旭に髪を切ってくれって頼んで……ばっさり切ってしまった」

「空田が髪を?」

「そう。いまくらいの長さだったかな……それを見たとき、思ったんだ」

 ――俺は、こんな弱い女の子を、守ることすら。

 きっと旭も、そうだったのだろう。あのときの光景を思い出すと、いつも颯大は胸が苦しくなるのだ。そして自分を、ひどく情けなく思う。

 旭がこころの長い髪を切るとき、その手は震えていた。それでも切ってやったのは、切り終わったそのこころの髪を「似合う」といって笑ったのは何故なのか。その理由も、颯大はよくわかっていた。

 旭はきっと、こころに、こころ自身がいま立ち向かおうとしている辛い現実から、どうにか逃げ切るすべを与えたかったのだ。自分では、こころを守ることができない。いじめられるこころをただ眺めていることしかできなかった旭は、いつもそのことを嘆いて、そんな自分を情けないと言っていた。だからこそ颯大は旭がそうした理由や、気持ちが理解できる。

 そして、そんな彼女たちが髪を切るところを眺めていた颯大自身、こころを――旭すらも守れなかったのだと、ずっと自分を責めてきた。

 だから、颯大は強くなれるなにかがしたくて、通っていた剣道教室に本腰をいれた。その結果強くなって、当時自分よりも強かった土田にも勝てた。でも。

「……土田先輩見て、あんたなら、こころを守ってくれるかもって思った。なんでかわかんないけど、なんか……信頼できるなって」

 土田は黙り込んでいる。しかしその目に、かすかに感情が揺れていた。颯大はそれも知りながら、己のしたかった役割を他人に押し付ける、自分の弱さをひしひしと感じていた。――だから、俺じゃダメなんだ。

「土田先輩、旭に、こころの騎士になってやってって、言われたことあるでしょ」

 颯大がそう不意に言うと、土田が大きく目を開いた。土田は目を逸らし、「何で知ってるんだ」

「昔、旭と仲良かったでしょ、三月。俺は三月って、あんたのこと呼んでた。三月にいちゃんってさ。覚えてるよ、さすがに」

「……頭だけは良いんだよな、颯大は」

 にっと白い歯を見せる颯大に、土田はバツが悪そうに目をそらしたままだ。颯大は続ける。

「旭が言ってたもんな。こころを守る騎士を見つけたよ、って。あれ、絶対あんたのことだって、ずっと思ってたんだ、俺。なんでかわかんないけど、旭とあんたが仲良かったからかな」

「仲良かったって連呼するのやめろ。仲が良かったってほどでもない」

 「そうかな……」と呟いて、颯大は手すりに身を寄せる。こころがやっとこちらに気が付いたのを見て、颯大は手すりから離れ、土田に頭を下げた。

「話が長くなってごめん。三月、こころのこと、よろしくお願いします」

「こころって誰だよって、思ってた頃が懐かしい」

「まんざらでもなさそうだけど」

 颯大の言葉に、やっと土田は颯大の顔を見る。ふくれっ面で、土田がぼそりと呟いた。「まあな」

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