第四章 颯大のはなし

#4-1

「ねえ、颯大。私、うまく笑えてたかな?」

 その顔が、いまにも泣き出しそうに歪んでいたのを、いまもまだ、ときどき思い出す。抱きしめて、大丈夫だよ、と言いたかったのをぐっと飲みこんでしまったのは、なんでだったんだろう。俺があまりにも、弱かったからだろうか。

「……うん」

 そう、目を逸らして頷いたのが、俺の精一杯だったんだ。


「ああ、はいはい。うん、今日帰るから。あ、颯大もくる? あはは、冗談冗談。じゃあねー」

 とん、とスマホを一度指で軽く叩いて、旭ちゃんはううんと伸びをする。旭ちゃん寝ぐせついてる、と私が声をかけると、旭ちゃんは部屋に入ってきた私を振り返って、どこ? と寝ぐせを探すように鏡を覗き込んだ。

「そこ。ね、いまの颯大そうた?」

「そう、颯大だよ。あいつこの頃本当に口うるさくてさ」

「心配してくれてるんだねえ。私も弟か妹、ほしかったなあ」

 というか兄弟が欲しいよね、と私が自分のベッドに座ると、制服のスカートがお尻の下でくしゃりと皺をつくる。ベッド脇のチェストの一番下から靴下を出して履き、旭ちゃんも昨日脱ぎ捨てたベストを着る。

 颯大、というのは、旭ちゃんの弟の名前だ。颯大、と書いて、そうたと読む。今年中学三年生、旭ちゃんとは年子になるのだろうか。旭ちゃんと目元が似ていて、雰囲気もなんとなく似ている気がするけれど、性格はどちらかというと、颯大のほうが旭ちゃんよりしっかりしている気がする。

「おばさんたち、もう起きてるかな?」

「起きてるよ、仕事あるもん」

 私が答えると、旭ちゃんはにんまり笑った。「じゃ、挨拶しないと」

 旭ちゃんは、昨日、うちに泊まったのだ。彼女がもともと遠慮をしないからなのか、土日も平日も関係なく、旭ちゃんはよくうちに泊まっていた。私も一晩旭ちゃんとばかみたいに騒ぐのが楽しいのと、私の親も旭ちゃんのことをすごく気に入っていることもあって、家族は旭ちゃんをいつでも歓迎してくれた。

「旭ちゃん、こころ! ごはんできたよ、はやく食べなさい」

 リビングから、お母さんの声がきこえる。私と旭ちゃんは顔を見合わせて、ばたばたと準備を終えてリビングに向かった。

「おはよ」

 いつものバス停へ向かうと、その途中で、バス停のところまで通学路がかぶっている颯大と会った。颯大は不機嫌そうに、私たちの顔を見てそう言う。旭ちゃんがおや? と首を傾げて、「颯大」

「おはよう、颯大」

 私が笑うと、颯大はぷいと顔を背けてしまう。でもそれで終わったりしないのは、颯大の良いところだ。「……おはよう、こころ」

 ちょっと頬が赤い気がするけれど、私は一応、「お姉ちゃんの友達」だから緊張するのだろう。旭ちゃんがにんまり笑っていた。「なに颯大、待ってたんじゃないでしょうね、まさかねえ?」

「旭なんか待つわけないだろ」

「私を待たれてたら怖いわ。こころを待ってたんでしょ」

「うるさい。はやくいけ」

 しっしっ、と手で颯大は私たちを嫌そうに追い払う。旭ちゃんはいつもこうやって颯大をからかうから、颯大は私のことが本当に苦手なんだろうな、と思う。

「こころ、今日も剣道部だよね? 終わるののんびり待ってるから、今日は走って教室に戻ってこなくていいよ」

「そうはいかないよ……もう、旭ちゃんこそ、私は遅くなるんだから、先に」

「帰っちゃったらさみしいでしょ?」

「さみしいけど、それよりも悪いなって思ってるんだよ、これでも」

 そう話しているところに、乗りたかったバスがやってくる。あ、バスきた、と旭ちゃんがうまく流してしまったから、私たちの話は別の話題に移っていく。そうしているといつの間にか、バスも学校に着いてしまうのだ。

「おはよう、土田くん、近山くん」

「はよ」

「おはよう」

 下駄箱で話をしていた、土田くんと近山くんに近づいて挨拶すると、ふたりもいつも通り返事をしてくれる。近山くんはにっこり笑って、土田くんは無表情だ。私はちょっと首を傾げ、「剣道部の話?」

「いや、昨日のサッカーの話」

「近山が延々とその話するんだよ。俺は見てないっつってるのに」

 唇を小さく尖らせる土田くんに、近山くんは苦笑する。「ごめんな、めちゃくちゃ良い試合だったからさ、つい誰かに話したくて」

 そう言う近山くんに、土田くんは仕方ないなとでも言わんばかりに片方の眉を上げ、腰に片手を当てて、「まあいいや。そんで、なに? 続きは?」

「ああ、それでさ……」

 サッカーの試合の模様を熱っぽく語る近山くんに、土田くんが相槌を打っているそばを、私と旭ちゃんは通り抜ける。旭ちゃんはふたりを振り返って、「本当に、よくつるんでるよね、あいつら」

「仲いいみたいだよね。やっぱり同じ部活だからかな」

「沖島がいないけど」

「沖島くんは……」

 そこを突っ込まれて、私も苦笑してしまう。沖島くんは、やっぱりいまもあまり部活のメンバーになじんでいないのだ。彼は練習にあまり参加してくれないから、それも仕方のないことなのかなとも思う。なんで参加してくれないのか、と思うけれど、きちんと毎日部活に来るのは来るし、どうも最近、みんなが帰ってしまった後も、遅くまで残ってなにかをしているようで、それもみんなを不思議がらせている。

「沖島は沖島で、なにか考えてるのかねえ」

「そうなのかな……」

 そのことを私がすこし旭ちゃんに話すと、旭ちゃんはううんとうなってそんなことを言う。それがあながち的外れにも感じなかったのは、なんでなんだろう。

 沖島くんは、よく「剣道なんて」という。それをきくたび怒っていた土田くんは、そういえば最近、なんでか流してしまうようになった。それも嫌そうとか、呆れているとかではなく――なんというのか。不思議な表情をしているのだ。

 ――そういえば。瀬里先輩と沖島くんは、よく部内でもつるんでいる気がする。

「瀬里先輩と……なにかしているのかな」

「瀬里先輩? なんで瀬里先輩……あ、ちょっとごめん、こころ。なんか颯大が変なこと言ってる」

「うん? 颯大?」

 旭ちゃんが、スマホのロック画面を見て、なにかメールが来ているのに気づいたらしい。颯大? と首を傾げる私を横目に、旭ちゃんはそれを開く。「颯大、なんて?」

「ううん……なんだろう、これ。剣道部にいくからって」

「へ? 剣道部にくる?」

「よくわかんないよね。学校見学でもするつもりかっての」

 とりあえず変なスタンプ送っとく、といって笑った旭ちゃんを見ながら、私はなんとなくその颯大のメールに、嫌な予感がしていた。

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