#2-3
◆
――夕日が目に染みる。
どれだけ殴られたんだろう。わからないけれど、これで良いんだという妙な確信があった。これで、きっと彼らはこの部を辞めざるを得なくなる。休学だとか、退学になるだろうとか、そんなことより、土田にとって大切なのは「彼らが部から消える」ことだった。
――そのために、我慢して殴られたんだから。
はあと息を吐く。受け身を取る暇もなかったけれど、近山がまた心配そうな顔をして自分に説教を垂れるのだろうけれど――それでも、勝利の余韻のようなものがあった。これですべて終わったと、確信めいたものがある。
「俺はお前の、右腕だからな」
慌てた様子の足音が近づいてくる。顔を上げれば、やはりそこにいたのは彼だった。心配そうに表情を歪めて、土田の目線に合わせるように身を屈めてこちらの顔を覗き込む。「大丈夫か?」
「おう。痛かった」
「お前は本当に……なんでこんな無茶を」
「一番手っ取り早いからな……引っ張って」
だらりと腕を力なく垂らす。土田は地面に寝そべっており、仰いだ空は橙色をしていた。路地裏で自分が殴られるなんて、と、人生いろいろだわな、なんて不相応な言葉が浮かぶ。そんな自分が可笑しくて笑えば、近山が妙なものを見る顔をした。
「わかった。今日は休みなんだな」
「よろしくお願いします。……あの、近山くん」
私が休みの連絡をいれて、そのあと恐る恐る名前を呼ぶと、近山くんはちょっと首を傾げた。「……二年生と、土田くん、なにがあったの?」
きょとんと目を丸くしてから、近山くんは首の後ろを掻きながら目を逸らす。それからゆっくり私に問い返した。「先輩になにか言われた?」
「ううん、そういうわけじゃなくて……。ごめんなさい、さっきの会話、すこしきいちゃったの。近山くんに休みますって言おうと思って、探してたら、その、ちょうど土田くんと近山くんが話してて」
「あー……そっか。うん、それなら隠しても仕方ないな」
怒るだろうと思ったのに、近山くんはさっぱり笑って、そういって詳しい事情を話してくれた。それによると、私が入部するよりちょっと前に、土田くんが二年生の素行の悪さに呆れてしまって、どうにか部の雰囲気を立て直そうとしていたら、それをよく思わなかった二年生に、土田くんは手ひどく殴られてしまったらしい。それでも全く土田くんが二年生たちに手を出さなかったのは、それでも部を続けていたかったからだったのだ、と。
その話をきいているうちに、私はお腹のあたりで着ているニットを強く握りしめていた。手に冷たい汗をかいている。……こわい、とおもった。可哀そうだとか、痛かっただろうとか、そういうことは一切近山くんは言わなかったけれど、それでもそこまで考えてしまって背筋が凍る。
――土田くんも、近山くんも……土田くんが殴られたとき、どんな思いをしたんだろう。
旭ちゃんはそれを知っていたのだろうか? 沖島くんも、私以外のみんな、剣道部でそういう騒ぎがあったのだということを知っていたのだろうか?
「だからさ、空田さんを怖がらせるわけじゃないけど、先輩たちが絡んできたんだろ、空田さん。……ちょっと注意してほしい。今日はまあ、休んで良いから、そうだな、旭さんと一緒に帰って」
「うん……あれ? なんで私が二年生に絡まれたって知ってるの?」
「え? ああ、ちょっとな」
なぜか言葉を濁す近山くんに首を傾げるのもそこそこにして、私は近山くんに軽く手を振って彼と別れた。教室に戻りながら、ぐるぐると土田くんが殴られたという話を何度も考えてしまう。
「ねえ旭ちゃん、旭ちゃんはその」
「うん? どした、こころ」
帰り道、みんなと約束したとおりに旭ちゃんとバス停でバスを待ちながら、私は最後の勇気が振り絞れなくて口の中でもごもごという。「あの……剣道部の話……」
「なに? こころ、ちょっと聞き取れない」
「っ、あのね、旭ちゃん……」
「――あ、いたいた」
ふいに知らない男子の声がして、私たちは同時にそちらを振り向く。二年生だ、と私が思ったのとおなじタイミングで、旭ちゃんはうっすら顔をしかめた。
「なんですか?」
旭ちゃんが低い声で彼にたずねる。彼はにやにやといやな笑いを口元に浮かべて、「いやいや。そっちの女子に用があるんだよ」
「こころ、さがって」
「旭ちゃ――」
ぐい、と旭ちゃんが私を背中にまわして、自分は一歩前に出る。私と先輩に挟まれる形になったからだろうか、緊張のようなもので旭ちゃんの体が一瞬強張ったのがわかった。
助けを求めてあたりを見渡しても、こんなときに限って知り合いは誰一人通らない。二年生はにやけた顔のまま、旭ちゃんに一歩近づく。一歩、二歩……旭ちゃんの緊張がさらに強くなるのが、私にもその体の硬さでわかった。
「あんたに用はないんだって。ねえ、剣道部のマネージャーさん。ちょっと俺らについてきてくんない?」
「なんでこの子が先輩についていかないといけないんですか? 私たち、ちょっとこれから用事あるんですよね。今日は無理です」
「なら明日なら言いわけ?」
「明日も無理です。明後日も無理」
旭ちゃんがきっぱりと言い切る。私は先輩が苛立った顔をしたことに気が付いて、旭ちゃん、と小声で彼女に呼びかけてその制服の袖を握った。手が震える。旭ちゃんの体も、私とおなじようにわずかに震えていた。
――誰か……!
「だめっすよ先輩、女の子巻き込んじゃ」
軽い、ききなれた声がして、二年生が「うわっ」と悲鳴をあげて後ろによろめいた。二年生のさらに後ろを見ると、そこにはにっこり、ちょっと怖い笑い方をしている――沖島くんが、先輩の襟首を掴んで立っていた。
「喧嘩なら、男だけでしましょ。俺が相手になります」
「なんだお前っ……、部外者だろっ」
「ブガイシャじゃないんですよね、俺、土田の親友でさ。あいつの借り返したいなって思ってて」
土田くんの名前が出た瞬間に、二年生が浮かべた嫌な笑顔を、私は身の毛がよだつ思いで見ていた。沖島くん、と彼に駆け寄ろうとしても、旭ちゃんがそれを止める。「こころ、いくよ」
「旭ちゃんっ、沖島くんが」
「――こころが巻き込まれるんだよ!」
電流のように走った旭ちゃんの激しい声に、私は感電したように背筋を反射的に伸ばす。信じられない顔で旭ちゃんを見れば、旭ちゃんは一瞬しまったという顔をしてから、声を小さくして、「いこう。こころ」
「さ、俺らもいきましょ、先輩」
「痛い目見るからな、おまえ……」
不穏な二人の会話を聴きながら、私はなにもできなかった。
旭ちゃんと慌てて乗り込んだバスの車内で、私たちはしんと押し黙る。旭ちゃんは不機嫌そうに頬杖をついて窓の外を眺めていて、私は自分の膝とそんな旭ちゃんの横顔を交互に見ていた。「こころ」
「……なあに?」
旭ちゃんが低く名を呼ぶ。私はいつもの調子のつもりで返したけれど、私の声も自分でわかるくらいに硬かった。旭ちゃんはこちらを見る。「ごめん」
「なんで旭ちゃんが謝るの?」
「……ううん」
首を振り、旭ちゃんは再び窓の外に視線をうつしてしまう。はあという深いため息が聴こえて、旭ちゃんはがしがしと顔を両手で擦り、ああもう、と大声を出した。その声に驚く私が目を丸くしたのを見て、旭ちゃんはやっといつもの顔でにやりと笑う。
「やめやめ! こころ、今日は家まで送るから」
「ありがと……でも、旭ちゃんはどうやって帰るの?」
「うーん、心配だしこころんちに泊まろうかなあ」
「えっ!? いや、旭ちゃんならいつでも良いって、お母さんも言うとは思うけど……」
思わず真面目に返してしまった私に、「冗談だよ」と旭ちゃんはけろりという。そうだよね、とあきれ果てていうと、旭ちゃんはにんまり白い歯を見せた。
「それにしても、本当にこころには悪いことした。まさか二年がこころにまで絡んでくるなんて……本当にごめんね」
「なんで旭ちゃんが謝るの? 悪いのは先輩たちでしょ」
「まあそうなんだけど……」
もごもごと口の中でなにかを言っている旭ちゃんに、私はその腕を軽く、痛くないくらいの力で叩いた。「もう気にしないでおこう。いまは私より、沖島くんのほうが……」
言って、失言だったと気が付く。旭ちゃんの顔が真剣なものになって、場がしんと重たくなった気がした。
「まあ、沖島なら大丈夫だとは思うけど。あいつ、喧嘩しなれてそうだし」
言い訳のようにそういった旭ちゃんに、私は何も返事できなかった。
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