#2-2

「おっ、空田ちゃんじゃん! おはよー」

「うわ、沖島くん……」

 さわやかな笑顔を浮かべた沖島くんに、私は思い切り嫌な顔をする。それから小声でおはよう、と返して、彼が大きく手を振るのを真似して、小さく手を振った。沖島くんは満足げな表情を浮かべて私にくるりと背を向け、仲間内のほうに戻っていく。「朔人、空田さんと付き合いだしたんだって?」「今度は空田さんかよ」

 違う、と彼の友達にいうのはもう飽き飽きしてしまっているし、そうしても沖島くん自身が「そうなんだよ! 良いだろ?」と返してしまうのがいつものことだったから、私ももう諦めてしまった。さいわい噂はE組内でしか広まっていないようだし、どうも話をきく限り、彼にはそういう女の子関係の噂はよくあるものだったようだ。

「災難だな、空田」

「土田くん。おはよう」

 土田くんのせいでもあるんだからね、と、やってきた土田くんを睨む。土田くんは下駄箱から上履きを取り出して履くと、とんとんとつま先を床に打ち付けた。それからあくびとともに伸びをして、はあとため息のように長い息を吐く。

「俺も旭にちくちく言われてるんだから、アイコだ、アイコ」

「もっと言っといてって、伝えとくね」

「やめろ」

 だいたい近山だって同罪だろ、と呟く彼に、私は顎を触って考える。「たしかに」

「あいつはすぐそうだ。ちゃっかり逃げるんだよ」

「ジントクってやつ」

「人徳ウ? んだよ、それ。俺にもあるだろ、人徳なら」

「ないよ。絶対にない」

 ――そういえば、と土田くんがいう。「沖島に、空田ちゃんって呼ばれてるんだな」

「そうなの。いつの間にか呼ばれてた」

「そのうち、こころちゃんとか呼ばれるんじゃないか?」

 恥ずかし気もなく「こころちゃん」という単語を言いのける土田くんも、やっぱり相当だと思う。私はちょっとぞぞっと背筋を震わせて、やめて、と低い声で言った。沖島くんにそう呼ばれるのも嫌だけど、土田くんにその単語を言われるのもなんか……いやだ。

「やっぱり慣れてるよね」

「沖島はとっかえひっかえだからな」

「いや、沖島くんじゃなくて」

 私の言葉の意味がわからないらしく、土田くんは首を傾げる。そんな土田くんを置いて、私はさっさと教室に向かった。

「こころ、ねえ、そういやさっき二年生がこころを探してたよ」

「え? 二年生?」

 教室にはいると、まず教室の女の子にそう教えられて、私はちょっと教室の外にでた。そこにいたのは二年生――ではなく旭ちゃんで、彼女はなんだか不機嫌そうに別のところを睨んでいる。「旭ちゃん? おはよう。どうしたの」

「ああ、こころ……こころ、今日は剣道部にいかないほうがいいかも」

 ひそひそと小声で私にそう耳打ちして、旭ちゃんはまた先ほどと同じ方向をちらりと睨みつけた。「どうして?」と私がたずねると、彼女はぱっと表情を変える。

「今日は私と帰ろう、こころ。……土田にいっとかないと……」

「旭ちゃん?」

 彼女のいつもとは違う、不穏な様子に私はいよいよ首を傾げる。なんだかこちらも不安になってきて、気づくと、旭ちゃんと一緒に帰る、今日は剣道部にはいかないという約束をしていた。

 近山くんに言わないとな、と、休み時間に彼を探していると、朝の旭ちゃんのように、どこかぴりぴりとした雰囲気の近山くんと土田くんの二人組を見つけて、私はそこに駆け寄ろうとして足を止めた。二人の声がきこえてくる。

「二年が空田に会いに行ったって」

「まずいな。なにかされた後じゃ、遅い」

「今日は休ませて、旭と一緒に帰らせるから」

 そんな言葉に、私はふたりに話しかけられなくなる。近山くんはふうと深い息を吐き、声を落とした。「喧嘩はするなよ、土田」

「――俺はお前の右腕なんだ。お前がするなっていうなら、しない」

「それを信じたのにさ、前科があるだろ」

「ゼンカな、まあ安心しとけ。第一、あのときも俺は殴ってないんだから」

「痛い目みただろ……」

 ――その話をきくうちに、私はふと、行竹先生が前に言っていた話を思い出した。確信にはついていなかったけれど、そういえば土田くんが前、二年生ともめたとかなんとか……そういう言い回しをしていた気がする。

 そこまで聞いて、私は二人から離れた。これ以上はもっと踏み込んだ話になりそうだったし、それを私がきいていいような気がしなかったのだ。なんだかよくわからないなりに、怖くなって心臓もどきどきと鳴っている。なんだろう、こんなに不安なこと、いままで一度もなかった……。

「お、あんたかな? 剣道部のマネージャー」

 立ち止まって胸を押さえていた私に、声をかけた人を振り返る。誰だろう、と眺めるうちに、シャツの胸に刺繍された校章の色で、二年生であることに気が付き、私は心臓が痛いほど鳴るのがわかった。――二年生! いや、でも、まだみんなが言っている二年生だとは決まっていないし……

「空田さん、だっけ。あんたさ、土田を狙って入ったってマジ?」

「へ?」

 唐突な言葉に、私は目を丸くする。あまりにも身に覚えがなさすぎるんだけど、そんな私を置いて、彼は噴き出しゲラゲラと大声で笑う。「まじでそうだったら笑うんだけどな! はは、あんなクソ弱くてダサい奴」

「……」

 その二年生の言い方に、私は眉間に皺を寄せて押し黙る。でも、それで彼は満足したらしい。私の肩をなれなれしく軽く叩くと、それで「じゃあな」と行ってしまった。なんだかなにかに巻き込まれかけて、それを回避したことだけわかって、私はどっと疲れがやってきた。

「なんなの、もう……」

 はああと深くため息をつく。それでも今日はやっぱり剣道部にいくのはやめておこう、と、近山くんと土田くんが落ち着いたころに、また近山くんに話をしにいこうと決めて、私は教室に戻った。


「空田ちゃんが二年に絡まれてたんだけど」

 その様子を眺めていた沖島が、そこから少し遠くの廊下にいた近山と土田にそう言った。近山たちは顔を見合わせ、「絡まれてたって、空田さん、なんて言われてた?」

「大したことじゃなかったけどさ。なんか雰囲気やばくて、俺もあれ以上なにか言い出したら乱入してやろうと思ったんだけど」

「そういうってことは、そこまでなにもなかったってことか?」

「あんたら、剣道部だろ? 俺、お前がいるからいきたくねえって言ったんだもんな」

 沖島は土田に意味深に笑い、頭の後ろで腕を組む。それから背中をそらしてはあと深い息を吐いた。「剣道部は二年がひどいからなあ、関わりたくないのもあるんだよ」

「まあでも、喧嘩するなら呼んでな?」

 そう白い歯を見せて、沖島は二人に背を向ける。沖島が行ってしまうと、土田は近山と目を合わせて、「喧嘩はしないよ」

「信じるからな、土田」

「……おう」

 そう、低く、なんとなしに嘘っぽく頷いた土田に、近山は、仕方ないな、と息を吐いた。

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