#1-3

 とても嫌だし腑に落ちないけれど、もう入部届が通ってしまったのだから、こんなに早く、しかも一日も通わないうちに退部するわけにはいかない。

 入部した次の日、私は一人きりで剣道部の部室の前で立ちすくんでいた。もちろん部室だから、まだ撃ち合いの音は聴こえないけれど、なんだか……静かすぎる、気がする。扉が分厚いからだろうか。でも、意外とこの運動部の部室棟は木造で壁が薄く、他の部の部室からはときどき笑い声が聴こえてきていた。

「あの……空田です」

 こんこん、とノックしてみても、何の返事もない。

 ――もしかして、誰もいない……?

 そのことに気が付き、数分誰もいない部室の前で突っ立っていたことへの呆れでどっと疲れる。はああと深いため息を吐いた私の背に、低い声がかかった。「なにか用事ですか」

「へっ? わ、きゃああっ」

「わっ、なんだよ」

 まさか声をかけられるなんて思っていなくて、私は甲高い大声を出してしまってからはっと口を手で押さえた。そんな私の声を思い切り浴びたその人は、荷物を持っていない手で片方の耳をふさぎながら、ずいと私に顔を近づける。「一年生? 新しい、ウチのマネージャーっていう?」

「は、はい。一年A組、空田こころです」

 私は彼の姿をしげしげと眺めて、彼が持つ荷物が剣道部の胴着であることに気が付きそう言ってちょっと後ろに退いた。どんと背中に部室の扉が当たる。ぎしりと古い扉がすこし軋んだ気がしたのは気のせいだろうか。

「俺はD組の土田。剣道部の副部長」

「一年生? 副部長って、二、三年生はどうしたの?」

 ふと彼の言葉が気になってたずねると、彼はちょっと眉をしかめた。

「剣道部は一年しかいないんだよ」

「一年生しかいない?」

「そ。俺と、あとは部長の近山ちかやまってやつしかいねえの」

 そう言って、彼は私の後ろのドアノブに手を触れる。「どいてくれるか? 部室に入りたいんだ」

「あ! はいっ」

 私が慌てて扉から離れるのを待って、土田くんは部室に一歩入る。それからドアを閉める前に私を振り返り、「あんたも入るのか? 着替えたいんだけど、あとでもいい?」

「うん。あとでもいいよ」

 そうこわごわ首を振る私に、土田くんはなぜかちょっと笑った。旭ちゃんとは違う、男の子って感じの笑い方だ。旭ちゃんも男の子っぽいところがあるけれど、なんだろう。なにか、決定的になにかが違う。

 ぱたんと扉が閉まったあとずっと、土田くんが再び出てくるまで、私は扉の前に立ったままぼうっと床の木目を見ていた。がちゃりと胴着を着てでてきた土田くんが、そこにまだ立っていた私に目を丸くした。

 土田くんは、ふたたびふっと口角を上げる。「なに、ずっと立ってたの」

「えっ、えっと……ごめんなさい」

「別にいいけど。どうせなら座ってりゃよかったのに」

「廊下に座るのは、だめでしょ」

「そりゃそうだ。ほら、待たせて悪かったな。部室に入りたいんだろ」

 そう土田くんが言って初めて、私は土田くんがそのためにずっと部室の重たいドアを開けた状態で支えてくれていたことに気が付いて、首まで真っ赤に染めた。なんだかずっと顔を赤くしている気がして、とても恥ずかしい。

「ここが剣道部の部室。わかってるだろうけどさ。ここで俺たちも着替えたりなんたりするけど、まあ近山と俺の二人しか野郎はいないし、空田もここに荷物置いてて良いから」

「そういえば、近山くんは?」

「ああ、あいつは今日、ちょっと遅くなるみたいでさ。でももう来ると思う」

 そうやって説明してもらっている間に、私はやっと土田くんをまじまじと見ることができた。彼はよく見るととてもきれいな顔立ちの人で、きりっとした眉と涼しい目元がなんだか和風というか、剣道部というのが似合っている気がした。髪がすこしくせ毛っぽいのは、パーマでもなんでもなく元々のものな気がする。なんだか、まだ会って間もないのに、彼がそんな風に校則を破ることはなさそうだ、と、彼に堅い印象を覚えていた。

 ――こういう人、武士にいそう。

 そんな雰囲気を持っている。武士なんて、もうこの時代にはいないんだろうけど、やっぱり彼には剣道部がよく似合う気がした。……なんて。会ったばかりの人に、そんなことを思っても仕方ない。

「あ、近山」

「ごめん、遅れた! あ、そっちはマネージャーか?」

 道場にはいって間もなく、近山くんという一年生も、ばたばたと入ってきた。道場に入る前に一礼して、ふうと息をつく。土田くんと違う、たくましい体格が目を引いた。髪は刈り上げていて、その目は優しそうなんだけどちょっとだけ細長い。

「えっと、空田です。よろしくおねがいします」

「空田さん。えっと、一年生だよな? 行竹先生からきいてる。よろしくな。俺はC組の近山。この部の部長をさせてもらってる」

「近山くん……」

 部員はふたりしかいないらしいから、なんとなく名前は全員覚えられそうだ。私は彼に緊張していないようで、へらりと笑うことができた。なんだか久しぶりに笑った気がする。

「よろしく」

「うん、よろしく」

 私があらためてそういうと、彼も力強くうなずいてくれた。それからちょっと道場の壁時計を確かめたあと、彼はすこし考えてから、「空田さん、今日はこのまま剣道部の練習見てて。先生がきたら、マネージャーがなにをするのか教えてもらってな」

「? 今日から仕事しなくていいの?」

「最初ばたばたするもんでもないだろ。今日は教えてもらうだけで、メモして明日覚えてきて」

 その近山くんの言葉に、私は頷く。それから近山くんは土田くんの準備運動に交じる。部活を始めたら、近山くんの雰囲気が真剣そのものに変わってしまったことに、私はちょっとだけ驚いた。

 ――そういえば、旭ちゃん、今日は一人で帰っちゃったのかな。

 ふたりが道場を出て校庭を走っているのをぼうっと眺めながら、私は考える。旭ちゃん、寂しい思いしてないかな。旭ちゃんが風邪で休んだ時に一人で帰っていると、私はいつもとても寂しかった。まるで一人きりみたいだなって……でも、こうなったの、旭ちゃんのせいだからね?

 寂しく思ってくれていたら、すこしだけ許してあげる。

 意地が悪いとは知っているのに、私はすこし笑う。そんな私を見て、いまやってきたばかりらしい行竹先生が怪しむように声をかけた。「なに笑ってるんだ、空田」

「近山と土田とは話したか?」

「はい。近山くんが、今日は見てるだけにして、あとは仕事だけ先生に教えてもらってと言ってました」

「おお、そうそう。そう言えって俺が言ったんだよ。そうだった、そうだった」

 行竹先生はちょっと頬を掻いて、「よし、まず仕事を覚えてな、空田。さっそく明日からやってもらうから」

 そういって、こっちこいと手を振る先生の背について歩き出した。

「びっくりしただろ、空田。剣道部が二人しかいなくて」

「はい、ちょっとびっくりしました」

 行竹先生の言葉に、私は笑う。行竹先生はまた頬をぽりと掻いて、「もとはな、二年がいたんだよ。まあ、あんまり素行がよくないやつらでな。土田が……いや、まあいいか。まあ、いろいろあってな、結局いまはあの二人しかいないんだ」

 「でも」と行竹先生は私の目を見る。私はそのときはじめて、行竹先生が色素の薄い茶色の目をしていることに気が付いた。

「でもな、あいつら、本当に良い奴だから。なんとか試合に出させてやりたいんだよなあ……」

 そういった行竹先生の表情が、なんだかなにかに対してとても悔しそうに見えて、私は何も言えなくなる。そんな私の様子を知ってか、行竹先生はぱっと明るい表情に切り替えてしまった。「さ、仕事、仕事。空田、ちゃんとメモしろよ」


「あ。きたきた。こころ」

「……! 旭ちゃんっ?」

 部活が終わって、あたりが暗くなった頃、校門の前でぼうっと立っていた人影が旭ちゃんだと気が付き、私は声をあげた。走り寄れば、彼女が私の頭をなでる。「おつかれ」

「旭ちゃん、まだ帰ってなかったの?」

「うーん、こころの初仕事だからさ。色々報告したいこと溜まってるだろうなって」

「報告したいことはないけど……あ、そうだ! 私、怒ってるんだからね、旭ちゃん」

 思い出して私がそう意地を張ると、旭ちゃんはあははと軽く笑い飛ばしてしまう。

「でも、チャラにしてあげる。ずっと待っててくれたんだよね」

「おっ、ありがと」

 こころは優しいなあ、という旭ちゃんの言葉に、私は張っていた肩の力をちょっとだけ抜いた。それからはああと息を吐き、旭ちゃんの黒いきれいな目を見る。「帰ろう、旭ちゃん」

「うん。帰ろう。お腹すいたなあ」

「コンビニ寄ろう。私、おにく食べたい」

「お肉って。なんだろ、からあげとか?」

 からあげかあ、と旭ちゃんの推測に私は顎に手を添える。それから笑った。「うん、からあげ!」

「ねえねえこころ、土田くん、かっこよかったっしょ?」

「へ? 土田くん?」

 コンビニで買ったからあげを頬張る私に、旭ちゃんが突然そんなことを言う。私はごくんと飲み込んでお茶で流してから、うーん、と言葉に迷ってしまう。

「まあ……かっこいいっていうか……男の子らしい感じだな、とは……? あとは、純和風?」

「純和風!」

 その私が言う土田くんの印象に、旭ちゃんはお腹を抱えて笑った。「あっはっは、もう、こころ、それは……」

「え、だって、そうじゃない? かっこいいんだけど、ちょっと武士みたいだなって」

「剣道部がよく似合うでしょ。あいつね、胴着姿がかっこいい! って噂になってるんだよ」

「そうなの?」

 私が目を丸くすると、旭ちゃんは微笑む。「そ。ね、こころ、好きになれそう?」

「は? 好き?」

「ううん、その反応はまだまだと見た」

「なにいってるの」

 軽く旭ちゃんの背中を叩くと、旭ちゃんは曲げていた背中をしゃんと伸ばした。「こころの騎士にさ、良いと思ったんだよねえ」

 ぼそりと呟いた彼女の言葉は、やってきたバスの騒音にかき消されてしまって、私は彼女がなんと言ったのか聞き取れない。「? なあに?」

 そう、首を傾げれば、旭ちゃんは目を細める。

「なんでもないよ。ほら、バスきたよ」

「このバス違うよ、旭ちゃん」

「あれ? あ、ほんとだ」

 ――本当は、このバスでも乗って帰れるんだけど。

 今日は旭ちゃんが私を待ってくれたぶん、全部とはいかずとも、もうすこしだけ一緒に話したい。私が打ち明けてそういわなくても、彼女には伝わっているようで、そう一言言っただけで、旭ちゃんはにんまり笑って今日あった面白い話を始めた。私もそれに手を打って笑う。次のバスがくるまで、そうして私たちはたのしく過ごした。

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