22.コーヒー店で傘をとられた話


美容室の帰り。

朝から降り続いた雨はまだ止む気配を見せず、私は傘の下で慎重に身を潜めつつ、家への道を急いだ。

大きな水溜りを避けながら、商店街を歩いていると、ふと小さなコーヒーショップが目に留まった。

以前からその存在は知っていたものの、足を踏み入れたことはなかった。

店は本当に小さく、一階のスペースはわずかで、奥のカウンターから店主が常に入り口を警戒している。小心者の私は、こんな狭い空間で、無愛想な熊ヒゲの店主と向き合って、何も買わずに帰ることなどできるわけがない。きっと何の用もないのにブルーマウンテンの豆とかを買わされてしまうだろう。——という妄想にとらわれていたためである。


ガラス越しに店内を窺うと、さっそく店主と目が合い、自分の軽佻さに驚く。

ちなみに彼は熊ヒゲではなく、細面で眼鏡をかけた男性だった。

もう店に入るしかない。意を決して傘をたたみ、あたかも最初から店にくるつもりの客だったかのように見せかけながら、ドア付近にある壷みたいな傘立てに放り込んだ。

四歩も行くとカウンターに到着する。すぐ脇には上へと続く階段があり、メニューらしき手書きのA4用紙から、どうやら二階は飲食スペースになっているとわかった。

眼鏡の店主とふたことみこと会話して、チーズケーキとブレンドコーヒーを注文してしまった。


お湯を沸かして、白鳥の首みたいな細い口をしたポットからジョロジョロとドリップにそそぐので、やたらと時間がかかる。その間、二人で座るのがやっとの大きさの木箱みたいな椅子にただ座って待っていなければならない。手持ち無沙汰すぎて壁に貼られた商店街の催しなどを見て過ごす。店内にはジャズミュージックがかかっている。定番である。店主と外で目があったときから、いかにもジャズを聴いていそうな顔だと思っていた。

もしもこのあと、客が大量に来店するようなことがあったらどうするつもりなのだろう。こんな狭い空間でどうやって過ごせと言うのか。まあ、無いだろうけど。


商店街のイベントを暗記したころ、眼鏡から声がかかった。

彼の前に鎮座したトレーを持って、自ら二階のテーブル席に移動せよということだ。

階段はわりと角度があり、万が一ヒールの高いブーツを履いてきていたら足首がボキッとなってチーズケーキとコーヒーをぶち撒けてしまったかもしれない。


上階にはなんと先客が三人もいた。女性が二人、男性が一人。各々まったく物音も立てずに息を殺して潜んでいたのである。一階と同じく広さは限られており、全部で六席くらいしかない。

私は窓際で文庫本を読んでいる女性の隣に腰を下ろし、フォークを手にした。

ブルーベリージャムがかかったシンプルなチーズケーキ。

美味しい。エチオピアの豆を使ったコーヒーともよく合う。

雨粒の滴る窓を眺めながら、もっと広ければいいのにな、と独りごちた。


食べおわって一階に降りると、男性客が傘立ての前で迷っていた。

そういえば自分のコンビニ傘と同じものがあったことを思い出す。どちらが自分の傘か分からず、持ち上げてみたりまた戻したりして、彼は一本を選んで店を出ていったようだ。

窓際のが私のですって言おうかと思ったけれど、その前に決心がついたようで声をかけそびれてしまった。


会計を済ませ、傘立ての前で立ち止まって少しイラっとした。

窓際の傘がなくなっていたからだ。

あんにゃろう、わたしの傘を持っていきやがったな。と心中で毒づきながら店を出た。

去り際に店主がお礼を言ってきたので、特にその気はなかったがにっこり笑顔で「また来ます」と答えておいた。

外は依然として雨が降り続けている。開いたコンビニ傘は、持参したものより明らかに新しかった。とりわけ私の傘が汚いわけではなかったが、彼は迷ったあげくより古びた方を自分のものとしたのだ。


通りには彼の姿はもうなかった。

私は、またコーヒーを買いに来なければならないらしい。


終わり

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