9.走れヒロコ
昼食の時間を報せるチャイムが鳴ると、同僚のヒロコがやって来て、美味しい中華の店があるから行かないかと誘ってきた。
メグミは少し考えたあと了承し、二人は職場から少し離れた場所にある中華屋へと向かった。
店内に入ると、そこはお洒落な喫茶店かと見紛う内装で、なるほどヒロコが誘うだけのことはあると思った。二人ともランチのチャーハンセットを頼んで、しばし雑談に花を咲かせた。
ほどなくして、テーブルの上に運ばれた山盛りのチャーハンを前にメグミは絶句する。控え目に見てもこれは大盛りと間違えているのではと思われる量があった。目を見開いて視線をチャーハンから向かいに移すと、ヒロコは口の端を片方だけ上げ満足そうに微笑んでいる。しかし、目だけは笑っていなかった。
どうやらはめられたようである。先月ダイエット中のヒロコに、営業から貰ったエーグルドゥースのケーキを食べさせたが、そのことをまだ根に持っていたのだ。ヒロコのブラウスのボタンからは、能力の限界に達した者の悲鳴が発せられているような気がした。
メグミは食べ物を残すのが嫌いだ。両親の教育と、小学校の歪んだ食育の中でつちかわれた誇りがあった。お米は八十八の手間をかけて育てられていると聞き、今は田植え機やコンバインがあるからもっと少なくて良いのでは? と発言して叩かれた記憶が、彼女を完食まで追い込むのである。
そうして、二人は白いお皿を前に、ボタンへの更なる試練を加えた。もうこれ以上は無理です。許して下さいとモヒカンに
さて、お会計をと思い立ち上がるが、何か重要な物がないことに気がつく。
メグミは財布を忘れてきてしまったのだ。ヒロコに借りられないか聞くと、ぴったり千百円を持ってオフィスを出たと言う。
仕方なく、レジのところまで行き「あのぅ……、電子決済はできませんよね?」と聞いてみた。iPhoneを持っていたので何とかペイみたいのが使えるならそれで、と思ったのだが、「うちやってないんで」と無愛想な返事により希望は打ち砕かれた。
メグミは続けて「お財布を取りに帰ってもいいですか?」と心細げに伝えると、店員は相席のヒロコを見て安心したのか「どうぞ」と答えた。
メグミは走った。身代わりに置いてきたヒロコを食い逃げ犯にせぬために。
もし休み時間が終わってしまえば、社内にたどり着けたとしても上司に捕まり仕事を言いつけられるやも知れぬ。メグミは襲いくる腹痛に何度も立ち止まって耐えながら、もういっそタクシーに乗ろうと考えたが、あいにくこういう時に限って空車が通らない。
メグミが急ぎに急いでオフィスに到着したのは、休み時間の終了まで残り30分を切った頃だった。
急いで鞄から財布を取り出し、千百円と言っていたヒロコの発言を思い出して千円札と百円玉を抜き取って踵を返した。しかし、その途中で同僚に捕まり声をかけられてしまう。
「何をするのだ。私は休み時間が終わるまでに中華屋へ行かねばならぬ。離せ。」
「え? あんた達、さっき中華行ったんじゃなかったの? また行くの?」
と要領を得ない同僚を置き去りに、メグミはオフィスを飛び出した。あり得ない量のチャーハンを食わされ、腹はとっくにパンパンだ。
そこに空車のタクシーが目の前を通りかかる。地獄に仏とはこのことか、とばかりに乗り込んで「あのー、近くて申し訳ないのですけれど……」と中華屋の位置を伝えると、あの苦悶の距離をわずかに三分ほどの時間で連れていってくれた。
料金をiPhoneのSuicaで支払い、中華屋の扉をくぐると、店をでる前に座っていた奥の席にヒロコがいた。
良かった、まだ友人は処刑されていなかった。メグミは安堵した。
「メグミ……」ヒロコは、開口一番に言った。「五百円貸してくれない?」
見るとテーブルの上には、アイスコーヒーのグラスが一つあるだけだった。
何もないテーブルを前に、店員の冷ややかな視線に耐えきれず、ヒロコは飲み物を注文してしまったのだと言う。
そうは言っても、自分の分しか持ち合わせがないと伝えると、あんたのせいで注文したアイスコーヒーなのだからあんたが払うべきと言うので、こっちはそのまま帰れば全額が無料だったところをタクシー代まで使って来たのだからタクシー料金を持てと言い、お互いに「払え!」「お前こそ払え!」の言い合いとなった。
美しい友情を前に、群衆からも失笑が漏れたことだろう。群衆がもしいたらの話だが。
こうしていても
メグミは身代わりに友を待つ身となり、ヒロコの飲み残したアイスコーヒーに向かって祈った。
「走れヒロコ!」
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