エッセイ「普通に考えてみると(十三)」

@SyakujiiOusin

第1話

          普通に考えてみると(十三)


                              百神井応身



1.整理整頓掃除


 何となくツキが無いなと思ったとき、一番最初にすると良いのが整理整頓と「掃除」です。

 そんなとき、誰もが気づいていると思うのですが、なかなかお掃除をしてないことによる汚れが周りに溜まっていることが多い。

 億劫がらずにやってみると、気分がすっきりします。

 ほこりを取り払うことは、健康的であるばかりでなく、良いエネルギーを呼び寄せるようです。


 ハウスダストアレルギーのある方は勿論ですが、疲れて抵抗力が落ちている時もも、ほこりを吸い込むことが健康に良いはずがありません。


 風水においても、トイレを掃除することで金運が上がると言う話はよく聞くことであります。

 成功している大会社の社長が、自ら率先して会社のトイレ掃除をするという話も本で目にしたり、時々耳にしたりします。


 荒廃していた学校で、先生が生徒たちと一緒に学校のトイレ掃除をしたら非行がなくなったと言う話もあります。

 また、ニューヨークの地下鉄では、落書きを消したら、それだけで犯罪が減った

と言う話もあります。

 小さな汚れであったり、小さな破損個所であっても、放置しておくと大きな犯罪にエスカレートしていくことが心理学者によって言われてもいます。

 外観が汚れていると、人の心も汚れ、すさんでしまうようなのです。



2.体に感謝


 体の具合が悪かったり病気や怪我をしたりすると、「どうして自分はこんな目にあうのだろう」

 「だめな体だ、弱い体だ。」などと、自分の不養生を棚に上げて愚痴をこぼしがちです。


 でもそういうときこそ、気づきのチャンスです。原因はあるのです。

 その悪い場所に、普段よく頑張ってくれて有難うと感謝してあげたり、自分のした事の結果だったとわかったら、反省したり、謝ったりしてあげる。


 健康であることが当たり前のように思ってしまいますが、世の中に当たり前のことなど殆どありません。

 内臓は特に、その持ち主のマイナスの感情や行状の影響を受けやすいといわれます。

 「心配症の人」「怒ってばかりいる人」「わけもわからず悩んでばかりの人」  「他人を妬んだり羨んだりばかりする人」「イライラ性の人」、脚を組んで座る人は、たいてい内臓が現に悪いか、これから病むことになるかの人が多いようです。

 いつまでも感情を引きずっていたりするとよくないに決まってますから、さっぱり生きましょう。



3.大事なアストラル体


 人間の人生も旅と同じようなものだと考えたとき、この世の中に生まれ出るとき「今生はこのような人生を送るためにこの地上に誕生する」という、その人なりの志を必ず持ってこの地上に生まれて来たというのが真理らしいのであるが、いざ生まれてみると、「何をするために・・・」などという目的は全く忘れてしまっているのが普通です。

 人生をどのように生きるのか、意志がはっきりしている人はアストラル体(精神体)がしっかりとしているのだという。


 人間には、肉体の外を囲う「アストラル体」という微弱な電子エネルギーが備わっていて、精神活動を司っているらしい。

 この精神体の領域にまでなると、それは体というイメージからは離れているように思えるが、人間を構成している大事な要素であることは間違いない。

 このアストラル体は、微弱なエネルギーであるから、大音量の雑音によりいとも簡単に毀損される。

 ある意味、肉体自体が損傷されるより影響力が大きいといわれるから、大音量のものは避けたほうがよい。



4.奈良・平安朝の遺跡


 長野県飯田市座光寺に、恒川清水(ごんがしみず)という清水の出るところがあります。

 前方後円墳である高丘古墳の歩いてすぐ近くにあります。


 この地に恒川遺跡群があります。

 奈良・平安朝の役所であった伊那郡衙(いなぐんが)で、1982年からの発掘調査で、その姿がだんだん明らかになってきています。

 郡衙は、政治の中心であるとともに、都の最先端の文化が真っ先に入ってくる所でもありました。

 近くには、善光寺の元になる元善光寺があり、村の名前である座光寺の由来となった寂光寺も作られました。

 古墳群が多いことでもわかる通り、豪族たちがなった郡司という役人を先頭に、東国の表玄関になったこの地は、交通の要衝としての役目も果たした。

 発掘により、税である稲などを納めた倉庫(正倉)や、役人や行き来する使者が泊まった建物(館)跡などが沢山見つかっているほか、県宝である「和同開珎銀銭」も出ている。


 子供の頃にさんざん遊んだ場所の下に、そのような遺跡が埋もれていたとは・・・



5.ゲッキョクさん


 名探偵ホームズ君ものけぞる推理。


 前にお得意さんと歩いているときのことです。

 「AAさん、この間若いのと一緒にでかけたら、その若いのが『このあたりはゲッキョクさんという名前が多いんですね。』といったんですが、なんのことだかわかります?」と聞いてきた。

 ゲッキョクなんて結局わからないので「なんのことなんですか?」と尋ねると、 「このあたりには月極駐車場が多いでしょ、その月極を田中駐車場とか山田駐車場と同じで苗字だと思ってるらしいんですよ。」という。そんなアホな!


 そういえば、恋人って書けないで変人とか書く変人が多くなったんだと。

 国語力の低下は目をおおうばかりです。脳ましいおっと悩ましいことでおじゃりまする。

 極め付けは、「神の味噌汁ってなんですか?」と聞かれたこと。

 神のみぞ知る。



6.雀の不思議


 都会では、雀を見ることが少なくなりました。

 それでも、庭に餌を撒いておくと、どこで見ているのか、どうやって見つけるのか判りませんが、チュンチュン囀りながら結構たくさんな数が集まってきます。


 ところでこの雀たちを不思議に思ってしまうことがあります。

 一度だって危害を加えるようなことをしたことはなく、餌が無くなるころに次の餌を撒くということしかしていないのにも拘わらず、こちらが窓の内側で少し動いただけで慌てて飛び去ってしまいます。用心深過ぎて可愛げがありません。

 道端で、こぼれている僅かな餌を啄んでいる雀たちだって、かなり近づいても逃げないというのに。

 それで思うのですが、我々だって蔭から援助や庇護をしてくれる好意に対して、感謝どころか避けるような行いをしていないだろうか?

 折角の親切を否定するようなことばかりしていたら、いずれは見放されることだってあるのだと気づくことも大事なのだと思う。



7.南天


 南天は、その語音から難を転じるということで、縁起が良いとして庭に植えられることが多いようです。

 木が若いうちは勢いが良くて、どんどん育ちます。

 樹が成長して幹の数が多くなると枝葉が混み合って茂りますので、幹の本数5~7本に整理しすっきりと姿に整えます。

 先端に花芽の付いていない間延びした枝や実の付いている枝(実の付いた枝は翌年~3年ぐらい花芽を付けないので)を選んで切り落とします。枯れた枝や細くて弱い枝も枝分かれしている付け根から切り落とします。

 樹高が高くなりすぎた場合は比較的低い幹だけを残して、幹を適当な高さで切り戻します。

 芽吹く力はそれなりに強くて、切り戻すとそこから1~3本の枝が出てきます。  花の咲く時期はちょうど梅雨とかぶり、特に雨の多い年は受粉がしっかりと行われずに実付きが悪くなりますので、ビニールの袋などをかけて雨除けをします。


 当家の南天は、幹を太らせようと思い、芯を止めないで高く育てているので、2メートルを超える高さに咲いた花には手が届かないため、比較的下の方についた花にだけ雨除けをしました。


 冬になって餌が少なくなると、南天の実を啄みに小鳥たちがやってきます。



8.風流を愛でて食す


 花筏(はないかだ)

 葉っぱの上に小さな花をつけることから、花を乗せた筏に模したシャレタ名前がついているハナイカダと呼ばれている木があります。

 花が終わるとやがて、葉っぱの上に、黒い実を成らせる山ではよくみかける低潅木です。

 深くて大き目の鉢に植えて、ときどき剪定を施して大きくなりすぎないように育てていたハナイカダが、昨年末「もう帰りたい」というので、鉢から出して地植えにしてやりました。


 普通ならこの時季、花芽が楽しめる筈なのに、今年は芽を吹いてもいません。

 根と茎のままでこの一年を過すつもりなのか、本当に帰りたかったのか、どうなんだろう?

 葉っぱに薄く衣をつけて、天麩羅にする風情を楽しむのは、スミレの花を天ぷらにして色を楽しんで食べるのと並ぶ季節の粋。



9.老人閑居して


 不善を為す。

 なんてことではいけないからと、意を決して?赤城山の火起山・竈山に登って来ました。後30分も歩けば鍋割山まで行ける所から引き返したのだけれど、正解だったようです。

 もう今日は足が大層いとうおじゃります。

 赤城の山頂あたりの牧場には、キツネツツジが満開でした。

 どこで判るのか、牛もこの花は食べない。なんらかの毒性があるらしい。

 ほかの種類のツツジは、子供の頃学校の行きかえりに道草として食べたものでしたが・・・



10.「ぶり」づくし


 信州にいた子供の頃、東京の年越し蕎麦と同様の習わしとして、大晦日に「お年とり」といって食したのが、アジ科の海水魚の鰤(ただし、高くて切り身でしか買えなかった。)でした。

 大きくなるにつれて名前が変わる出世魚だということであったが、何回名前の変わる順番を聞いても、いまだに覚えられないでいます。


 お早苗饗(おさなぶり)・・・お田植えがおわると、田のかみさまを送るお祭りというかお祝いというか、神棚にイネの苗を供えて豊作を祈ってお参りしたものでした。


 千振(せんぶり)・・・山道の土手などに生えていて、リンドウ科なのに白い小さな花をつける薬草がありました。たしか胃腸に効いたのだと思いますが、舐めるとたいそう苦かった。

 煎じて千回振り出してもまだ苦いというのが、名前の由来とか。別名、医者倒し。


 ことほどさように、「ぶり」というのは大切なのでございます。

 何事の修行に入るときも「ふり」からはいることが多いのでは・・・。わが不利な押せな~んてね。

 なに、そりゃ我が振り直せの間違いじゃなのかって?まあ、そうも言うけど・・・



11.お客様は神様


 近頃、品のない神様が増えたんじゃなかろうか?

 大したご利益(買い物)もないのに、お賽銭(商品やサービス)にクレームをつけて、口汚く罵る。

 「お客様は、神様です。」なんて言って、何でもありにしてしまったから、好き勝手をするのが神様だと勘違いして、人の徳性すらなくしてしまって罰だけを当てる変な神様がたくさん出てきてしまった。

 商品やサービスを提供する側が、お客さまを大事にしようとするのは解る。

 しかし、客の側が自分は神様だと思いあがるのは品が悪すぎるように思う。そんな神様はいない。


 神様と敬われ、願えばご利益までも下さるのが、逆方向に行ってしまったら、それは神様でも人でもない「呉れ恵魔阿」となってしまう。



12.カプサイシン


 可怖催震

 怖いもの見たさというのがありますが、これは、辛いもの食いたさのお話。


 夏が終わる頃「珍しいものが出ていたから買ってきたわよ」と、山ノ神さまが葉唐辛子の束を抱えて帰ってきました。

 これを煮締めたものは、私の大好物のひとつであります。(だれ、そこで「クイモンならみんな好物なんじゃないのか?」なんて言ってるのは?)


 大体が葉唐辛子は花の咲く前、初夏が旬の食べ物だと思うのですが、此の時期だと花が終わって 実(っていうのかな?)を結んでいる。流石にまだ赤くはなっていないが、緑色のそれは見るからに辛そうであり、匂いまでがそうであることを告げていました。


 「軽く油で炒めてから煮てみたわ」と食膳にだされたのを、おそるおそる箸で少しだけつまんで口に運んでみると、案に違わずこれが滅法辛い。

 よせばいいものを怖いもの見たさ、緑色の実(鞘?)はどんなもんかと一口齧ったところ火を噴くほどの辛さ。

 しばらくはハーハーと切なく喘ぐしかないほどのものでありました。


 人間というものは懲りないもので(AAだけだろうって?)、口の中が治まるとまた箸がのび、また喘ぐというのを何度繰り返したことか。

 この辛さに挑まんと思う勇者は、名乗り胃でよ!四里(尻)まで痺れるぜよ。



13.ガンコウラン


 秋に山に行くと、食べられる木の実があって楽しい。

 ガンコウラン(岩高蘭)も、その一つです。

 花は5-6月、高山に咲くが他の植物に混ざり目立たない。

 秋には、径6-10mmの黒い球形の果実ができ、食べることができる。採取してジャムなどにする。

 果実はビタミンやミネラルなどの栄養素が豊富で、山鳥の餌ともなっている

 ガンコウランはジュース作りに適しており、ブルーベリー、クマコケモモ、クロマメノキといった果実と合わせても美味しいジュースが出来る。

 青紫色の実は材料に混ぜるとその綺麗な色が着くので、菓子作りに使われるが、生のまま菓子の彩りとして飾るのもよい。

 この時季に採れる果実に、クロマメノキ(アサマブドウ)というのもあります。春咲く花は可憐で美しい。

 秋になると黒い実を 付けることからクロマメノキという名前が付くコケモモ と同じツツジ科の低木です。

 クロマメノキの実も、食べることができます。



14.キヌアは体に良い


 アカザはその昔、日本でも食用・薬用として使われたというが、今は雑草としての扱いになっています、

 芽が出てしばらくの新芽の内に摘んで、お浸しにして食べるというのは、子供の頃に経験がありますが、さして美味しいものではありませんでした。

 アカザは、伸びると2メートル程に育ち、茎が太くて丈夫であることから、根から掘り上げて乾燥させ、杖にすると軽くて丈夫なので「仙人の杖」として売られているのを、道の駅などで見かけることがあります。


 そのアカザ科のキヌア(キノア)は、健康的なダイエットや体調管理に適する栄養バランスに優れた南米産の植物で、その種子は、食用として必須アミノ酸をすべて含み完全食品のひとつとされて、近年話題にされています。

 キヌアは精白米と比べると、低い炭水化物(糖質)で、2倍のタンパク質、5倍の良質な脂質、8倍の食物繊維、6倍のカリウム、10倍のカルシウム、7倍のマグネシウム、7倍のリン、8倍の鉄、を含んでいるのだそうです。

 体内で合成できない栄養分で体外から摂取しなければならない必須アミノ酸のバランスも、キヌアは、牛乳に匹敵するほど良質です。

 キヌアはエクアドル、ボリビア、コロンビア、ペルーといったアンデス地域を発祥とするもので、それらの地域では人間の消費用に3,000年から4,000年前に栽培に成功し、食用されていました。

 地元南米ではスープにいれたり粉に挽いてパンのようにして食します。

 キヌアを水に浸して発芽玄米のようにすると、胚芽の部分が開き、見た目のかわいらしいキヌアの芽が出てきます。これをほかの食材と混ぜて煮れば、簡単に食べられます。



15.金木犀の香り


 隣の家の庭に金木犀の大木があって、毎年この時季になると強烈な香りを運んでくるのですが、今年は何の香りもしてきません。

 それもその筈です。大きな木は、バサバサに剪定されて枝も葉も殆ど残っていないのですから。


 キンモクセイは、お酒に浸けて楽しむというのもありますが、お茶にして飲むというのもあります。

 金木犀の花びらを集めて、紅茶や中国茶とブレンドすれば、手軽に金木犀の香りのお茶を楽しむことができます。

 因みに、中国にはジャスミンティーと同じように、緑茶に金木犀の花を混ぜ込み、お茶に香りを移した「桂花茶」という花茶があります。


 金木犀のお茶の楽しみ方

1:金木犀の花を集めます。(咲き始めの蕾のものの方が、香りが強く豊かです。)

2:汚れが気になる場合は、水でさっと洗います。(気にならなければ、そのままでも可)

3:「茶葉2:金木犀の花1」の割合を目安にブレンドします。発酵度の浅い銘柄がお奨め。

4:ティーポットで、通常のお茶と同じように淹れます。



16.コリアンダーは慣れれば美味しい


 中華料理などを食べるときに添えられている緑色の小さい葉っぱのハーブ。

 口にすると、ドクダミのような香りがするので苦手にする人が多い。

 しかし、このコリアンダーには数々の効能があるから、食べる方が良い。

 コリアンダーには消化を促進し、食欲を増進させる効能があります。

 食べ過ぎた時など、コリアンダーのハーブティーを飲むと効果的です。

 コリアンダーには抜群のデトックス効果があるとされています。

 このハーブはビタミンCやカルシウム、鉄などの栄養素を豊富に含んでおり、美肌作りや、腸内に溜まったガスを排出し、便通を良くしてくれます。

 特筆することは、体内に溜まった重金属をも排出する効果があると言われていることです。 その他コリアンダーには鎮静効果があり、偏頭痛を和らげてくれます。


コリアンダーは地中海沿岸が原産であるとされ、古来よりスパイスや薬用として利用されてきました。

 独特な香りがあるから、好き嫌いの分かれるところですが、慣れれば美味しいと感じることもできるから、体の為だと思って食べることをお奨めします。


 プランターや鉢で簡単に栽培することができます。 コリアンダーは、温暖で日当たりと水はけのよい肥沃な土壌を好みます。

 上手く育つと50㎝ほどの高さに生長し、5月~7月頃にかけて小さな白い花を咲かせますが、そんなに大きく育てなくても、摘み菜くらいで十分です。

コリアンダーは、中国ではシャンツァイ(香菜)、タイではパクチーと呼ばれています。



17.ザルの使い方


 ザルとか網は、使い方によるとゴミをすくうのに便利です。ですからお掃除のための有効な道具となります。

 しかし、ザルで水を掬うというのは、できぬ相談です。同様に網でメダカを掬うというのも叶わぬことがら。

 このことから、救いようのないバカを呼んでメダカばかということがあります。


 先日、朝のラッシュ時間を過ぎてかなり空いた山手線に乗ろうとしたとき、後ろから若い女性に突き飛ばされました。もっとも、若い女性だとわかったのは後のことです。

 その後っていうのは、一つだけ空いていた席に座らんがためであったということだし、なぜ座らねばならなかったかというと、座って眠るためだったのであります。

 座るやいなや、およそ人類の品性とは程遠い顔を人前に曝し、口も足も広げて寝てしまいました。おーおー。

 はじめはショジョのごとくって風情更になく、最初から最後までダットのごとしでした。


 ガッコも親も一体なに教えているのやら、それとも教わったけれど身につかなかったのか。

 我が身の目先だけを求めてなりふり構わず得たものなど知れたもので、心の平安や幸せな気持ちに至るには程遠いもの。


 なにごとをも可能にするといわれる潜在意識の世界では、自分と他人を区別できないのだといわれています。

 善人ぶる必要はないかと思いますが、利己的なことばかりやっていると、自分がそれをわかっているだけにどっかでツケを払う選択をしてることに等しいのでは・・・

 ザルで水は掬えない。幸せも掬えないということになる。

 自分にも他人にも気持ちの良いことをしたらどうかと思うのだが・・・



18.セイコウ


 だれですか、違う方の漢字をスグ思い浮かべた人は!

 セイコウ又はセイコクと読むほう即ち、「正鵠」を射るというふうに使われる漢字を思い浮かべた人は、時節柄たいそう勘のよい人です。


 物事を判断して過たずに進むのが難しい時代です。安全策も必要でしょう。

一の矢ならぬ矢の軸が甲矢と反対方向に回転して飛んで行く二の矢(乙矢)を放って、そのいずれかが当たるということになりそうです。

 一の矢でなくも二の矢が当たれば、それはダイセイコウ。

 こちらのセイコウは「成功」の方です。



19.ただ真似をする


 美人というのは、どんな格好をしていても美しい。きちんとした服装をすれば尚更です。

 体を整え、肌も美しく保ち、衣類の色やデザインにも配慮しているから、たとえ一見ラフな装いをしても、中から滲み出るものがカバーしきってしまうからだと思います。


 普通の人ではそうはいきません。身綺麗にする努力を蔑にして、わざわざ小汚い格好をすれば顰蹙を買いかねません。

 人は、外見で判断されていることに気づく必要があります。

 憧れのあまり、無暗に真似をするのは考え物です。顰に倣うには下地がいります。

 顰みに倣う(習うは間違い)とは、善し悪しを考えず、むやみに人の真似をすることの喩えがそもそもの意味です。(優れた人の言動を見習うことを謙遜して言うときにも使われますけれど・・・)


 春秋時代、越に西施という絶世の美女がいました。美人ではあるけれど胸を病んでいて、苦痛で顔をしかめているのがなお美しさを増していました。

 眉をしかめるのが美しいのだと思った醜女が、それを真似てみたが、より一層醜さを増しただけで、それを見た人が避けるようになった。

 醜女は、西施が眉をひそめていてもなぜ美しく見えるのかということには思いが及ばなかったという故事に基づく諺です。

 「顰み」とは、眉間にしわを寄せること。



20.タムラソウとアザミ


 タムラソウは、アザミに似ているが、トゲがない。見分け方のポイントは、葉の形です。葉の切れ込み方に特徴があります。

 アザミ属でなく、タムラソウ属に分類されています。この花の仲間のなかでも最も美しい花のひとつです。


 アザミは誰でも知っていると思いますが、フジアザミの花は大きい。



21.父の恩は海よりも


 父の恩は、山よりも高し。じゃないのかって?

 だから、乳の恩のほう。

 もう過ぎてしまいましたが、父の日には、なみなみに注がれた牛乳のコップが目の前に差し出されました。

 どこで聞いてきたダジャレなのか、父の日には乳を飲むのだと言うのです。

 チチを飲むのも、又それを出すところの器官も大層好きでおじゃりまするが、諸方に障りがあるので、あまり声高に申し上げるわけにはまいりません。

 だれですかそこで、触りはあるに決まってるなんてことを言ってるのは・・・。


 茎を切ると、乳状のしろい液が溢れ出てくるものって多いですよね。

 大小錦草をはじめ、たんぽぽ、ジャスミン、きりがないから止めるけど、極めつけはウルシ。強烈にカブレます。

 だから、なにをかくそうチチは用心しなくてはならないんです。

 春、ウルシをタラノメと間違えて食す人がいるからご用心。ヘタすると死にます。


 駅の売店で買い物をしたら「暇つぶしに読んで下さい。」と冊子をくれた。

 暇じゃないけど開いてみたら、読めない漢字が10個でていました。

1.独逸 2.埃及 3.比律 4.濠太刺利 5.越南 6.土耳古 7.端典 8.愛斯蘭 9.伯刺西爾 10.墨西哥


 さて、いくつ読めましたでしょうか。

 読めたとしても書けといわれたら、とてもじゃないが自信がありません。



22.チューリップはイランが原産


 チューリップというと、すぐそれに続いて浮かぶのはオランダです。

 ムスコがザルツブルグでもっとも親しくしていた友人は、旧侯爵家の出で、ハプスブルグ家の流れをくむ花のマイスターであり、大きな温室を経営する花屋さんでもあるG氏。

 その彼が、オランダは品種改良をしたことでチューリップといえばオランダだということになっているが、そもそもの原産地はイランなのだといって教えてくれました。

 品種改良が進み、色も形も数多い。

 暖かいところが栽培には適しているので、イタリアから仕入れたほうが花としては良いし、値段も安くていいのだとのことでありました。

 知らないことって多いもんだと思いました。


 そのむかし、球根ひとつ家1軒なんていう時代があったのだというけれど、今はそれほど値段が高い花ではありませんから、ぴんときませんでした。



23.ハーモニー


1.ハーモニー

 『成功する人』と『成功しない人』の差は、「考え方」にあるのだと思います。 人は生まれ持った才能に、さほどの大きな開きはないと思います。

 しかし、成功という結果が出る人と、それが出ない人の差は、厳然として分かれて現れます。

 それは、一体何故なのでしょうか?

 成功する人は『成功する考え方』を持っていますし、成功しない人は『成功しない考え方』を持つからだと思うのです。

 根本的な違いは、これだけなのだと感じます。

 ただ、何をもって成功と考えるかによっての違いはあります。

 私の場合でいえば、会社を立ち上げ3社の社長をしました。ある意味での成功といえるのかも知れません。

 目的は自分の財を築くことではなかったので、経済的に今が裕福かといえば少し違いますが、中高年の人の働く場所を作るということでは成功したのだと思っています。

 今は、後継者に全て託したので、現業について一切口出しはしないようにして慎ましく暮らしている毎日です。


 何十年も会社をやってくる間にはいろいろありました。

 自分もいろんな困難を乗り越えてきましたが、誰もが感じるその時々の悩みというのを理解できますので、そんな苦しみから抜け出るヒントなどを話したり書いたりして、今までの経験が誰かの役に立ってくれたらいいなと思っています。

 「乗り越えられないような困難を、神様はお与えにならない。」

 ここでいう神様というのは、なにか目に見えない偉大な存在という意味です。


 2 おもいぐせ

 成功を願いながら成功していない人は、気づかなければならないことがありそうです。

 それは、頑張っているのにそれがうまくいっていないとしたら、それは「うまくいかない方法なのではないか?」と思ってみることです。

 自分の思い癖というのは誰にもありますが、それに拘りすぎて抜け出せない状況を作り出していないだろうか?と振り返ってみるということであります。

 自分を信じないでは何事もできないのは真実であるにしても、うまくいっていないのだとしたら、ちょっと省みることも必要です。

 自分を否定しなければならないことが出てくるかもしれないとして、自省するというのは難しいことではあります。

「成功しない考え方」を基に物を判断しているのだとしたら、「成功している人の考え方」というのを学ぶ良い機会になると思うのです。

 信念は大事ですが、拘るほどの価値があるのかどうか冷静になって考えて、リセットするのに憚ることはないのだと思います。

 目的は、成功するということなのですから・・・



24.フルボ酸


 地球環境は、フルボ酸で進化したのだといいます。

 原始地球は、ガスや放射線が多量に存在し、生物が生存できる環境ではなかったが、その過激な環境にフルボ酸が加わった途端に、様々な強烈な成分が中和され、生命を育む環境へと変化していったのだというのです。

 フルボ酸は、生命そのものの鍵となる物質であるともいわれ、フルボ酸を大量に生産できるようになれば、医者や医薬品が必要なくなるとさえもいわれます。

 その効果効能やメリットについても、色んなことが言われています。


 疲労回復

 快眠

 美肌

 育毛

 デトックス

 毎日、フルボ酸を水に数滴垂らして飲むことで、効果を体感できる人がいるという。

 風呂に混ぜて入浴する効果もあるのだとか。

 至って素直なたちなので、肖ってみようと実践し始めましたが、気のせいだけではなく、湯上りが気持ちよく感じられています。



25.マクロファージが


 結核患者には癌が少ないのだと言われています。

 これは、結核菌を駆除(呑食)しようとしてマクロファージが増殖するからだといわれ、当然のこと免疫作用として働く。

 ところが、結核菌は脂質に富んだ強靭な細胞壁をもつため、マクロファージがなかなか呑食できない という難点がある。

 そこで、何としても結核菌を駆除しようとしてマクロファージがどんどん増えるのだといいます。

 その結果、増え続けるマクロファージたちが、体内のガン細胞を食べつくしてしまうことになるのだといいます。

 まさかわざわざ結核になるわけにはいかないから、食べ物で考えることになります。

 玄米や野菜には、人体に良い働きをしてくれる有用菌群が沢山ついているので、それらを、増殖させて活用できるようにできれば良いということになります。

 米のとぎ汁の中には、乳酸菌・麹菌・光合成菌・酵母菌などが沢山含まれているといいます。

 殊に獲れたて、自然栽培の玄米にはそれが一番多いらしい。



26.マラッカ


何年振りかでマレーシアを訪れ、海賊で有名なマラッカへも行ってきました。


 パレンバンの王子パラメスワラは、マジャパイト王国に攻めこまれたため、マラッカ海峡を渡って現在のシンガポールに移りました。

しかし、パラメスワラはその後も各地を転々とした後、ようやく落ち着いた場所が、マラッカでした。

マラッカというのは、休んでいたところにあった木の名が「マラッカ」と呼ばれていたところから来ているのだといいます。

葉っぱは、一見ネムノキに似ています。

オランダ広場からセントポール教会に登る道の脇にありました。



27.ミカン狩り


東名高速道路の大井松田インターチェンジから30分程の所にあるミカン農家でのミカン狩りに行ってきました。

ミカンの木を1本買いきって、成っている実を全部採り入れる形式ですから、実の大小や色づき具合などは不揃いですが、結構楽しい作業でした。

ミカンだけでなく、ユズや柿もお土産にもらいました。


農家では、採り入れや選果の手間を考えると、もうミカン作りを続けていられなくなって、止めてしまったところも多いのだとか。

去年行ったときは少し遅い時季で、何本か残っていたミカンの実を全部採って行ってくれと言われました。

木に実がついたままだと木が傷むし、そうかといって自分で採り入れる手間暇が無い。だから採って行ってくれると助かるのだとのことで、おかげで近所に沢山のおすそわけをすることができました。


毎年、夏ミカンを送ってくれる知人がいます。

今年は、箱の中に添え状が入っていました。

もう年も年で、採り入れるのが大変になってしまったので、今年限りで夏ミカンづくりは止めるとのことでした。


信州の干し柿で有名な市田あたりでも、秋に実がなったままで放置されている木が沢山あるのを見かけます。農業を続けるには、なかなか難しい問題をどこもが抱えているようです。



28.めしい


 いくら私が食いしん坊だからって、飯飯(めしいい)なのではありません。

「めしい」っていうのは、今風に言うと「目が不自由な人」ということになるのかも知れませんが、差別語じゃないと思うんだけれど、漢字変換しません。

 言葉狩りが過ぎると、普通名詞であっても使えなくなり不自由に感じます。


 昨日の夕方、突然視界がぼやけて、書類の文字がところどころしか見えなくなってしまいました。逆の言い方をすれば、ところどころは見えるということです。

 よく働いたからな~。

なんですと?ウソだろうって?いや、それがホントのはなし。

 社員が、「車でお宅まで送りましょうか?」と心配してくれたが、「だいじょうぶだいじょうぶ」といって、鉄の車が沢山ついてるのに乗り、手探りで家に帰ってきました。

 すこし目を休めたら、字が見えるようになったから、懲りずにPCに向かったところです。

 眼鏡の度数が合わなくなってきたのかも知れません。

 そういえば、歯の次に悪くなるのが目なんだとか。奥歯が欠けてしまって歯医者に通っています。



29.もうぼ


 「もうぼ」っていったって、孟母三遷(孟子の母親が、孟子の教育環境の為に3回引越しをしたという故事)のことじゃなくって毛母細胞のことです。


 近所の人じゃなくって、遠くの人が言ってくる前に正直に言っとくネ。

 私は大分白いのが増えてきたので、時々染めています。

特に、海外に出るなどという時は、要注意です。パスポートの写真と実物に差が有りすぎると、パスポートコントロール時に変に時間がかかるような気がします。

それでも、段々薄くなってきてはいるけれど、カツラのお世話になるほどではないのは、有難いことです。

 ふさふさした黒い毛であったころは、白くなったり薄くなったりしても、自然のままに任せようと思っていましたが、いざそうなってくると考え方が少し変わってきました。

見栄とか格好付のためというのではなく、きちんと身綺麗にすることが気持ちも引き締めるし、周りの人の気分も良いのだと気がついたからです。

そういう意味で、服装も気を配らねばならないのだと思っています。



30.ルリダマアザミ


 出社したら、私の机の前の来客用テーブルに、薄紫色の丸い花が咲いた水盤が飾られていました。葉っぱは、どう見ても薊。

 最近は、見慣れない花が多くて名前が解らないので、活けた本人である当社の専務に尋ねたところ、ルリダマアザミというのだと教えてくれました。

 調べてみると、ルリタマアザミは、キク科ヒゴタイ属の多年生植物で、地中海沿岸やアジアに広く分布し、初夏から夏の間に、まん丸の蕾をたくさん伸ばして、神秘的な薄紫色や青色の花を咲かせるのだとか。



31.レンズ豆


 最近、スプラウト作りに凝っています。

 カイワレダイコン・トウミョウ・ブロッコリー・ソバ・ルッコラ等々。

 ヨーロッパでよくスープなどに使うレンズマメも、モヤシ状態で食べると美味しい。


 レンズマメは、新石器時代から栽培されていたといわれ、人間が古代から食用にしていたと考えられる植物の一つですが、日本ではあまり見られません。別名で扁豆(ひらまめ)と呼ばれることもあります。


 貧血や便秘を改善したり、細胞の老化を防ぐ作用があると言われており、免疫力を高めたり、癌の発生を抑える働きもあるとされます。

 その他にも、動脈硬化や高血圧、糖尿病の予防に効果があるともされているようです。

 食物繊維は腸内において老廃物や有害物質、糖質、コレステロールが取り込まれるのを防ぎ、更にその排泄を促す働きがあると言われていることから、癌や糖尿病、動脈硬化の予防によいとされます。


 豆の形は違うけれど、カラスノエンドウのような草だというから、どんなもんかとプランターに播いてみたのですが、いつかな芽がでてきません。余った種を植木鉢の端に埋めておいたのはすぐに芽がでてきたのに・・・。

 そういえば、鳩がヤケによってきていたような・・・

 鳩は、大豆を土に播いておくと、どうしてわかるのか、マメがあるところだけを穿って食べてしまうことを思い出しました。

 きっと、鳩に食べられてしまったに違いない。



32.一筆書き


 いっちゃもっちゃ ちゃっちゃもっちゃ あぶらおけ どんす

こう言いながら子供の頃、一筆書きをしたものでした。

 これで何が書けるかっていうと、星の形。


 これは六芒星(ろくぼうせい)に似た形になる。

 六芒星は別名ダビデの星ともいうけれど、このマークっていうか形というのかは、伊勢市内の到るところでみられるのが不思議ですよね。


 昴星と書いてボウセイとも読む。

日本人はプレアデス星団(昴=スバル)から渡って来た星人の裔だなんていう人がいるらしいけど・・・


 伊勢神宮の参拝には、内宮での昇殿参拝というのもありますが、御垣内参り(みかきうちまいり)というのも正式参拝ということらしく、神官の先導で玉砂利を踏んで静々進み、拍手を打ってお参りするというのも浄まるような心地がします。


 両方やるとより宜しいのでは、と薦め参らせるでおじゃるよ。

 なんといっても式年遷宮をしたばかりです。

 今年のお爺さんの会の初詣は、伊勢神宮ということに決まりました。

 心のお掃除です。



33.影と陰


 陽射しが薄くなって、少しでも暖かい日の当たる場所を求めて歩くことが多い季節となりました。

 ところで、影というのはシャドウの意味で使われることが多いけれど、もともとは光のこと。

 でないと、月影・星影・灯影というのがなんのことかわからなくなります。

 光の当たらないところは、陰といいます。

 陰と言えば、日本にはとても素晴らしい言葉があります。

 「お陰さまで」

 なんていい響きなのでしょう。

 世の中、自分の力だけでなんでもも成り立っているのではない。

 大きくは神仏などの偉大なものの陰で庇護を受けていることに気づき、謙虚にそれを受け止めたときや、まわりの多くの人達の協力があることを認識したときなどに感謝の言葉として口にされます。

 ちかごろ、自分のことばかりになってしまって、この世が対になっていることを考えない人が多くなってしまいました。

 例えば、権利の主張のうらには義務の履行というものが付いてくるのであるし、

陰陽・善悪・正負、あげればキリなくセットの言葉がでてきます。

 人智を超えた偉大なる力や、誰に伝えたらいいのかわからないときの感謝を表すとき、「お陰さまで」と自然に口にできたら、素晴らしいことだと思います。


 向日葵畑に大きな熊ン蜂が飛び回っておりました。刺されるのではと恐れる人達が、キャーキャーとまるで害虫扱いをして追い払っておりました。追ったほうが危ない。

 花に止まった姿を見ると、足に沢山の花粉を付けていました。このお陰で花は受粉でき実を結ぶことができるというのに・・・



34.化ける・変わる


 Ich bin also bin ich. (我思う ゆえに我あり)

 イッヒッヒッヒ(笑い)・・・この科目の成績はよろしくなかった。


 これで思い出すことに、わが国では対になっている美しいことばが古来よりあったということ。


 牛を追う・馬を引く・鳥を刺す・etc.

 そのほか、物を数える単位なども美しい。


 そういう美しい言葉が失われるにつれて、2千数百年の歴史が培った日本の美徳も失せていきつつあるように思えてならない。

 自分以外の命も軽く考えすぎなのではなかろうか。

 この時季になると毎年どこかに現れる林檎泥棒や稲泥棒も、人様の努力の結果だけを攫っていってしまうような行いであることは、他人を軽んじるということでは同列だと思います。

 余りの身勝手さに言葉を失う。破廉恥極まりない。


 戦後、安直に権利を主張するのあまり、「公」というものがどこかに追いやられてしまったようです。

 少なくとも殺生を憚ることと、人様に迷惑をかけないようにするというくらいのことは、ちっちゃいうちに親が躾けておけってんじゃ!そのことに理屈はいらない。



35.何尺


 志賀高原の奥に、「岩菅山」という長野群馬新潟に連なる雄山があります。

2295メートルの高さを誇る、日本200名山のひとつでもある頂への道は、夏は花の宝庫でもあります。

 それは良いのですが、なにせいうことを聞かないのがカ・ラ・ダ。

 軟弱にももうヒイヒイいいながら、軋む筋肉をなだめなだめての6時間でした。背中にふいた塩が如実に語ってくれる大健闘ものがたりでもあります。


 なんですと? 冷や水は、もうほどほどにしとけって?

 ホント、これからの何日かは、ひたすら筋肉痛に耐えねばなりませぬ。

 今回の登山の上り口は、高天ケ原からロープウエイで行ける位置に、東館山高山植物園というのがあって、そこでは夏なら大抵の高山植物を見ることができます。

 そこは、目も彩な花々が、人智の及ばぬ鮮やかさでカラダを透過することに圧倒されます。

 山登りをするようになる前に、何回か訪れたことがありましたが、来年の夏にはドライブがてらにでもお出かけあそばしますようおすすめします。



36.会うと逢う


 若い女性の手紙に「お逢いしたい」とあって、かなりぎょっとする。

 「逢う」ということの意味がわかって使っているのだろうか?


 逢い見ての 後の心にくらぶれば 昔はものを おもわざりけり

 そもそもは、「逢ふ」も「見る」も、男女が逢瀬を遂げ、契りを結ぶ意味として使われる動詞です。

 

 権中納言藤原敦忠(左大臣時平の3男で、母は在原業平の孫。)の作として余りに有名です。

 すなわち「逢う」は、男女が会ってすることをするという意味があった、ということになります。

 和歌などをを交わして、気が合えば男が女の所に夜這いをして、肉体関係を結び、朝方になって男女は初めて顔を見る。

 というわけで、顔を合わせる=深い関係になるということになるわけです。

 「あう」には、会う・遭う・合う・遇うなど、違う漢字がありますが、意味がそれぞれ異なりますからご用心。



37.解放してしまう


 意識や感情を整理整頓して、勇気を出して自分をときどき見つめ直してみるということは、とても大切です。

 自分のことを反省するのは、ときに辛いことではあります。

 恨み、怒り、不満を抱えたままでいると、その負の感情が邪魔して、新しい物ごとに進むことができません。

 それらがモチベーションを低下させたり、気分を落ち込ませたりするからです。

 いやなことは、解放してしまうのです。平たく言えば、忘れてしまうということです。



38.外見は大事です


 正式な場所に出るときには、正装に威儀を正してとか、衣紋を正してとかします。

 和風であれば紋付羽織袴、洋風であれば燕尾服やモーニング、タキシードということになりますが、それほどではなくても大切な人や初めての人に会うときは、身じまいを整えます。

 粗相があってはならないという礼儀上の意味も勿論あるでしょうが、別の捉え方もできます。誠意の表し方は、まず身じまいから始まるのですから。

 心理学者アルバート・メラビアンが提唱したので「メラビアンの法則」といわれますが、人の言動のうち、他人に影響を及ぼす要因としては、話の内容などの「言語情報」が7%、口調や話す速度、声色などの「聴覚情報」が38%、見た目など「視覚情報」が55%を占めるのだといいます。

 わざわざだらしない格好をしたり、不潔にみえるような支度をあえてしていている人がいますが、多分なにもいいことはありません。そんなのは個性でも何でもありません。

 正装は清掃に通じます。見た目だけで判断されて運を逃がしていてはならないのですから、心せねばならないことになります。

 本来輝いているはずの本質を、自分で曇らせていては、生まれ出て本来の役目が果たせなくて残念なことになります。

 人は誰でも、自分が思っている以上の能力を秘めているものなのだと思うのです。



39.慨嘆する


 以前、新聞の談話室に載っていた「車内で見かけた傲慢な若者」という記事の抜粋です。

 電車内の優先席の前で携帯電話を使っていた若者に老人が声をかけた。

「ここに携帯の電源をお切りくださいって書いてあるだろう」と注意したことから始まってのやり取りが書いてありました。

 読んでやりきれなかったのは、以下のくだり。

 揚句に、こう言い放った。「書いてあるのはわかるよ。でも俺は守ろうとは思はない。だからおっちゃんのいうことも聞かない。」


 この傲岸不遜な反社会性。こんなのを育てたり、のさばらせてしまった我々大人の責任って大きいと思うのです。

 ルールというのは、お互いにとって最小限の不自由さの共有。

 人の言うことは聞かないが、自分の言うことは聞けというのではね~。


 それでも私は思うのです。本音では、結構イイヤツが多い。

 そのいいところが素直に出せなくなっている原因って一体なんなのでしょう?



40.勘違いオヤジ


 先日の朝、電車に乗ったところ、優先席に頭頂がすこしばかり薄くなったとはいえ、40台とおぼしきオヤジが新聞を目一杯ひろげ、足を組んでふんぞり返って座っておりました。

 隣に座っていた人は、このオヤジの後から乗ったのを遠慮してなのか、窮屈そうにしておりました。

 先に乗ったほうが偉いとでも勘違いしてるらしい。


 次の駅で高校生らしき男の子が乗り込んできてそのオヤジの前に立ったのですが、この子も気が弱いのか、組んだ足に当たらないように下がって、これもまた窮屈そうにしていました。

 時間とともに混んできているのに、いつかな周りに配慮しないオヤジの様子に、さしも温厚な?私もたまりかねて「邪魔なんだよ。いい加減に足をおろしなさいよ!」(蹴飛ばしたりはしませんでした。)と言うと、そのオヤジバネに弾かれたように慌てて足をおろしました。

 マナー上マズイという認識は、最初からあるらしい。


 ときどきウラメシそうに注意した此方のほうをチラチラ見ていたが、体力気力とも敵わないとでも思ったのか、一言もなく新聞を読み続ける振りをしてました。


 「内臓が弱いもんですから・・・。」とでも言い訳してみろっていうんだ。

 こんな人でも、会社なり家庭なりに帰ると、偉そうなことを言ってんじゃないかと憶測したわけです。

 公共の場で、お互い譲り合って気持ちよく過ごそうとしない人が多くなったのは何故なのでしょうね。言われなければ知らんふりで済まそうとするのは、いただけない。

 大体が、そういうマナーの注意をする人が殆どいないのだから。



41.ギオン


 京都の祇園のことではなくて擬音。

 友人が、旅行中にビデオカメラを「バッタ」と取り落としたという話にでてきた"バッタ"のこと。

 こどもの頃、講談を聞いていると、「獲物を ばったと 取り落とし」というのがよく出てきました。

 子供心に「獲物は飛蝗(バッタ)と、鳥落とし。」だと思い込んで、変なの!と思っていました。

 「得物を"バッタ"と取り落とし」というのが擬音語だと知ったのは、後のことです。


 これとは違うが、「"コットン"水車も回ってる」のコットンは、木綿のことだと思っていた時期がありました。

 だって、糸繰り車はおばあさん~~の後に続いてたんだもんね。

 糸繰り車で紡ぐのは、木綿糸。(羊の毛もあるのだけれど)


 祇園精舎の鐘の声・・・琵琶ではありませんが枇杷の葉茶を飲むことに凝っています。



42.牛と馬


 E国で、牛肉に馬肉が混入されていたというので、訴訟騒ぎになっていたらしいが、その後どうなったのでしょう。

 食品表示に問題があったのではなくて、馬肉は食べないと言う文化によるものらしい。

 そういう文化の国に輸出するには、それなりに合致しないと揉めることになる。


 牛は駄目だという国もあれば、豚が駄目だという国もあるから、それは文化の違いによるもので、他から文句を言っても始まらないのかもしれないが、狐を追い立てて狩るのはいいらしい。


 らしい、が続きました。


 やれ鯨は駄目だ海豚(いるか)は駄目だと、自分たち中心で他を規制しようとしても、長い歴史を持つものを否定できるものではなく、どうしても感情論になってしまう。

 犬を食べる国だってあるし、椅子以外の四つ足はみんな食べるという国だってあるから、「えっ、そんなものまで食べるの?」と、思わず怖気をふるってしまうようなものを食べると聞いても、それを食べる食べないは自分の選択ということにして、他を非難しない文化の方が幅があるように思える。


 生卵は、日本以外では殆ど食べない。食べないと言うよりは衛生的にサルモネラ菌などの問題があって食べられない。

 いずれにしても、他の命をもらうことなくして人間は生きられないのだから、「いただきます」と感謝して生きるよりない。



43.鋸草の花


 野原や土手に生えていて、雑草扱いされるから、草刈りされて無残な姿でいた刈り残しを一株、鉢に植えていました。

 1年目は花を持たなかったのですが、2年目の今年、花を咲かせました。

 さほど綺麗な花とはいえませんが、草が元気に育っているときの緑が、見ていて楽しい。

 ノコギリソウは、葉が鋸(のこぎり)のような形状をしていることから命名された。古くから自生している花であるが、明治時代ヨーロッパから園芸種として渡来した西洋ノコギリソウも野生化していて、むしろこちらの方が見る機会は多いようです。

 日本に自生するノコギリソウの葉は切れ込みが浅く、厚くて固いのに対し、西洋ノコギリソウの葉は2-3回羽状複葉に細裂し、軟らかいので区別が付けられるけれど、日本のノコギリソウの葉のほうが、ノコギリのイメージに近い。

 日本のノコギリソウは、白一色で、西洋ノコギリソウには白・赤・黄色と色とりどりの花を咲かせます。



44.強気な人


 「大分、腹がでてきたんじゃない?」って聞いたら、「うん、最近腹筋がついちゃって。」と答えた。

 「少し、禿げてきたか?」と聞いたら、「いやいや、額が広くなってきてね。」

こういうのも、プラス思考なのかも知れません。


 髪は、なが~い友達ということで、髪という漢字を覚えた。

 女性の命にも喩えられる髪の毛は、男性にとっても髪が抜けて禿げるのは恐怖のひとつかも知れません。

 その髪の毛というのは、毛先が伸びるのではなく、皮膚の下の毛根の部分で成長が進み長くなります。

 毛根の下にある毛母細胞が栄養をとりながら細胞分裂を繰り返し、髪の毛がつくられるということです。

 作られる新しい毛に押し出されるようにして体外に伸びるのですが、そのスピードは1日平均0.3ミリほどといわれ、4~6年でその成長は止まり自然に抜け落ちます。

 自然脱毛は、1日50~100本と言われるけれど、頭髪はおよそ10万本あるので、突然ゴソっと抜けて禿げてしまうことは普通ない。

 けれども、円形脱毛症はゴソっと抜けるので恐ろしい。

 その原因ははっきりしないというから、なお恐ろしい。

 いざとなったらカツラというのも良いが、思い切ってツルツルに剃り上げるというのだって潔い選択です。



45.響きの良い言葉


 「有難うございました」「お世話になりました」

 なんて響きのよい言葉でしょう。


 なにかをやってもらうのが当たり前になってしまっていて、やってもらったことの裏にどんな思いやりと手間隙がかかっているかに配慮が行き届かず、無神経で平気でいる風潮がいかに多くなってしまっていることか。


 美人は3日見れば飽きる。顔の不自由な人は3日見れば慣れる。な~んていいますが、心の不自由な人は、一瞬で呆れられるんじゃないでしょうか。


 車椅子に乗っている人が、段差のある道で立ち往生しておりました。

 道行く人に声をかけて、丁寧に助力をお願いするでもなく、気がついて押すのが当然ではないか、気が付かないでいる方が悪い、という構えでいるように見受けられました。


 いつもそこを通る人達は、多分1度や2度は押してあげた経験があるのだと思いますが、誰も手を貸そうとする気配がありませんでした。

 別にお礼を言って貰いたくて手助けしたのではなくても、後味の悪い思いをさせられたことがあるのではと思えて仕方ありませんでした。

 かくいう私もその一人です。礼の一言もいわずに行ってしまうくらいならまだしも、「もっと手際よく押せよ」と言わんばかりの一瞥を置いて黙ったまま行ってしまう人がいるのは、残念ながら事実です。全ての人がそうであるとは申しませんが・・・

 それでも、次に同じく困っている人を見かければ、手を貸すだろうとは思います。


 世の中に、当たり前のことなんてそうはないのに・・・

 お互いにちょっとした言葉をかけあうだけでも、和やかになれるのにと思うのです。



46.鯨を食べる


 日本人は鯨を食べるから野蛮だというが、他国では鯨はかわいそうで牛はかわいそうではないらしい。

 食文化というのは、お互いが認め合わないと難しい。


 もともと人間は、動物であれ植物であれ他の命を取り入れることなくしては生きられない。

 だから我が国では「頂きます。(貴女様の命を私の中で生かさせていただきます)」と挨拶して、食べ物は無駄なくつかわせてもらうことに意をそそぐ。

 鯨でいえば、肉も皮も骨も髭も、捨てるところがなく使う。

 ご飯のときは、米粒一つだって残さず頂く。それが生き物に対する礼だと教えられた。


 話は変わりますが、クジラっていうのを尻上がりに発音するか尻下がりに発音するかで当家は揉める。

 だいたいの場合、私の方が折れることにしています。そうしないと後がオッカナイ。カミさまは、大事にしないといけませぬ。


 近頃トント目にしなくなったものに、鯨尺というのがあります。(物指しのことです)

 着物を縫うのには必需と聞き及んでいますが、着物を着熟しているおねーちゃんは殆ど居なくなってしまいました。

 外出着にはできないとされていた浴衣も、近頃は着て出かける人が珍しくなくなりました。


 ところで、目クジラってのは、それも立てるってのは、どっからきた表現なんでしょうね。

 目・鼻・口には、おもしろいのが沢山ある。

 遠くて近きは男女の仲。近くて近いは目鼻口。



47.光があれば


 光と影はセットのもの。

 そもそもが万物は、陰と陽、プラスとマイナスがセットで成り立っています。そんなことは頭では解っているのに、いろんな事象に出会うと、悩み事が起こります。


 ついていない、うまくいかない、悲しい、つらい・・・

 どうしてあの人は美しいのに私は醜いのだろう、どうしてあの人はお金持ちなのに私は貧しいのだろう・・・きりがなくそれらは自らを苛むのです。


 これらは、他人と比べるからそう思うのかもしれません。自分にだっていいところは一杯あるし楽しいこと嬉しいことも沢山あるのにです。

 そんな風に思い返して、自らを励ましてみても、なかなか納得できないものです。


 こんなとき、こんな厭なことがあったのだから、これに匹敵するいいことが必ず有る筈だと信じて、一時的でもよいから、今トラワレている思いを解放してみるのが良いようです。


 トラワレから抜け出てみると軽やかです。

 うまく行っているときの状態というのは、トラワレというものがないことに気づきます。


 昨晩、同業の社長たちで特に親しくしている仲間で作っている会の例会があって、集まりました。

 普段のとらわれから解放されて、その時間を目いっぱい楽しみます。

 会場となった料理屋さんの、光を落とし加減にした通路に、花が飾られていました。

 サンダーソニア、原産地である南アフリカではクリスマスの頃に咲くということで、別名をクリスマス・ベルといいます。

 昔なつかしいグミは、大きな鉢に挿してありました。



48.根拠を示せ


 報道されているニュースを読んでいて、私にとっては気になる表現があります。

「荒唐無稽」と「妄言」の二つです。最近よくみかけます。


「荒唐無稽」を辞書で調べると、言説などがでたらめでよりどころがないさま。▽「荒唐」は言説などによりどころがなく、とりとめのないさま。「無稽」は根拠がないこと。でたらめであること。「稽」は考える意。


 同じく、「妄言」は、

 根拠もなくみだりに言う言葉。でまかせの言葉。


 いずれも、問答無用で頭から相手にしないとして、理由を述べることなく一方的に否定するときに使われていることが多いようです。

 しかし、誰かの唱える説について論じるときは、仮令、その説が自分にとって都合が悪くとも、荒唐無稽とか妄言といって退けるのではなく、その説のどこがどのように違うのかの説明なしというのであっては、説得力に欠ける。

 すなわち、論破できないと言っているのと同義なのではないかと思えるのです。

 誰にでも意見というのはあるのであり、それについて反論があるのも当然ですが、全否定するというのであれば、その根拠を示すというのは、大事なことです。



49.罪と罰


 何らかの悪いことをしたから罰があると言うのは、あった方が良い。

 本人にその意識があれば反省もでるし、近頃話題になる体罰に納得もするでしょう。

 しかしながら、本人に悪いことをしたという意識があるかどうかということになると、甚だ疑問に思えることが多い。

 家庭での躾けはおおまかになっているように思えるし、モンスターペアレンツなんてのもいて、義務やルールを抜きにしてやたら主張のみするケースが増えているようにも思えます。


 教育というのは、或る意味での強制ですし、躾けというのはその場その時にすぐ対応しなければ意味を持たない側面をもってもいます。

 褒められていなければ何もできないというのでは、個の向上はあり得ない。


 言えばわかるとよくいわれるが、わかるというのは、言われたらそうできてのこと。

 そうなっていない現実を如何にしてクリアするかまでを提示できなくてはなるまい。

 閻魔様や地獄の鬼や、押入れなど、怖いものだって必要なのかも知れない。

 最近は、神様も仏様も閻魔様もお出ましにならないから、自分の主張のみが正しくて、マズイことはバレなきゃいいとする横着者が増えたように思えてならない。


 罪と罰ということになれば、罪刑は予め定められている必要がありますが、人倫の道ということになれば、その網はもっと細かなものになるから、根幹的な理解が共通認識となる文化が醸成されていなければならないが、そうしようとすれば反対意見の方が多くなるから難しい。


 教育労働者説が唱えられ、ある種の団体が権利主張のみを強調し、マスコミ及びそれが招いてくる所謂有識者の意見が、さもさも全員の代表者であるかの如く声高に叫ばれるにつれて、穏やかな折り合いの付け方は遠のいていく。


 薫陶するという言葉は殆ど死語に等しく、尊敬するということも口にされなくなってしまった。


 学校における体罰というものがどのようになっているのか解らないけれど、スポーツにおけるそれは全廃してみればよい。

 強くなるもならないも、本人たちの勝手。責任は自分で負えばよいだけのこと。

 「道」と名がつく武道も、昔とは全く違ってしまったように感じるのは、私だけなのだろうか?

 自らの人格を高めるために、自らを律して修練するものなのだと思っていたが・・・



50.子供の頃の遊び


 車を走らせていると、川沿いの土手にツバナが白い穂を一面に出していました。

 ツバナというのは、チガヤ(ススキの一種)の出す、真綿のように柔らかい穂先のことです。

 子供の頃は、それを抜き取って食べたものでした。


 子供の頃の遊びを思い出します。

 適当な広場や空き地が少なくなって、または勉強が忙しくなって、今の子供たちは友達と体を動かしてする遊びが少なくなった。

 知っている顔の大人の影が見えない場所では、人攫い(ひとさらい)も心配だろうし・・・


 何気なく頭に浮かんだので(年のせいではありません)思い出すままにそのころの遊びを書いてみると


 S環(エスカン)

 釘打ち

 陣取り

 だるまさんがころんだ


 あぶらたったかにえたった にえたかどうだかたべてみよ まだにえぬ

 あぶらたったかにえたった にえたかどうだかたべてみよ もうにえた

 おひるのおかずにとっといて

 つばなつばな いっぽんぬいてき~りきり にほんぬいてき~りきり

 以下、花一匁になる


 足でのじゃんけん

 ぐっどさんがぱっとしてちっとちっとぱっと

 ラインがあって、女王様か王様のところまで勝ち上がっても、挨拶を忘れると「下がれ!」といわれてまた最初まで戻らねばならない。


 めんこ(ケンと言っていた)


 切がないから今日はおしまい。














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エッセイ「普通に考えてみると(十三)」 @SyakujiiOusin

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