第12話 眠れぬ夜
用意された寝室のベッドで横になって何時間経ったろうか。ファムは眠れないでいた。不死人のファムは眠れなくとも身体に支障はない。眠れない夜を数え切れないほど過ごしてきた。だが今回はいつもの夜と違う気がしたのだ。今まで感じたことのない胸騒ぎがした。理由はわかっている。黄昏の賢者のアインヒの存在だ。あの一瞬見せた不気味な笑み、これ見よがしにカムパネルラを忌々しいのと吐き捨てた言葉。あの男にはなにかある。それは間違いない。
(まさか……)
ファムは飛び起きた。アインヒを探さなければならない。絹のカーテンの隙間から差し込む光でいつの間にか夜明けが来ていたことに気付く。ばたばたと廊下を誰かが走る音が聞こえる。ファムは廊下への扉を開けた。血相を変えた城仕えの者たちが廊下を行ったり来たりするように走り回っていた。ファムはその一人を捕まえて問いただした。
「なにが起きているんだ?」
「オルレアンが軍隊を率いて英知の峰の麓に集結しているのです」
「な、に……」
「カナンの騎士団も出て……一触即発の状況です」
「カムパネルラ……夕闇の賢者が昨日使者として行ったばかりじゃないのか。何故そんなことになっているんだ!?」
ファムは思わず胸倉を掴んでいた。
「わ、私に言われましても……わかりません、どうしてこうなったのか」
舌打ちして手を離した。男はファムから逃げるようにパタパタと走り去って行った。その背を見ながらファムは呟く。
「なにが起きているんだ」
わかることはただ一つ。カムパネムラとアルジールの身に危険が迫っているということだ。いや、もう手遅れかもしれない。そう思った瞬間、身体が震えた。二人の身の心配をしている自分にファムは驚愕する。
「らしくないねえ」
背後の聞き慣れた声に振り返ると、そこにはキースが立っていた。
「アインヒを探せ!いや、その前になんとかオルレアンの船に……」
「そんなにあの二人が心配なわけ?」
キースは不快そうに言った。
「……カムパネルラが夢見るモノだとわかった以上死なれては困るだけだ」
ファムは思わずキースから目を背ける。
「一緒に旅をして情が湧いた?人間とはつくづく不可解だね」
「そんなんじゃ……」
だがキースの剣呑な雰囲気は増すばかりだった。
「俺を殺すことしか興味がなかったのになあ……面白くないね」
キースは憮然として言った。
「全く持って面白くない」
悪魔の金の瞳からすうっと光が消える。
「ファムの特別は俺だけでいい」
そう言い放ったキースにファムは呼びかけた。それは懇願だった。
「キース!頼む、力を貸してくれ」
一瞬キースから剣呑さが消える。
「ファムが俺の名前を呼んでくれるなんて何十年ぶりかな」
だけど、キースは続けた。
「それは出来ない相談だね。残念ながら」
残念と言いつつ、キースは愉快そうに笑っていた。
「どうして!」
既にファムの声は悲鳴に近い。
「可愛いファムが大嫌いな俺の名前を呼んでまでするお願いだ。叶えてあげたいっていうのが本音」
嘘じゃあないよ、とキースは言う。
「でもね。それは契約範囲外だ。ファムの母親との契約はファムを守り死なせないこと。他者を助けるために悪魔の力を使うのはご法度でね」
ファムは歯ぎしりした。悪魔には悪魔のルールがあり、そこから外れた行いは出来ない。
「ファムの悪魔探しはその契約の延長上だったからギリギリセーフだったわけ。悪魔に俺が殺されたらファムも死ぬからね。襲い掛かってくる以上は殺すほかない。まあその悪魔がもし俺よりも強く俺が殺されたならそれはそれで不可抗力」
わかっただろ、とキースは言う。
「最初からファム以外の人間を助けるというのは契約に入ってないわけ。だから無理なのさ」
キースは軽く肩を竦めた。
「それにあの二人なら大丈夫だろ。夕闇の賢者を殺すとは思えないね。そんなことをすればオルレアンの立場は悪くなるだけだ」
「お前は人間をなにもわかっていない」
「なんだって?」
「これだけこの世界にいながらなにもわかっていない」
ファムは諦めた目でそう言った。
「……もういい。一人で行く」
「一人で?そもそもどうやってオルレアンの母船まで行く気?カナンの騎士団とオルレアン軍が睨み合っているんだぜ」
「お前の知ったことじゃあない」
ファムは背を向け踵を返そうとしたが、ふと足を止めた。
「悪魔の力を使うのはご法度だと言ったな」
「それがなにか?」
「力を使わなければいいということか?」
「まあ、そうだけど」
「ならここで頼みたいことがある」
肝心な時は役立たずの悪魔を罵りたいが、意味がない。何よりも時間が惜しい。ファムは頭だけをキースに向ける。
「アインヒ、黄昏の賢者を探しておいて欲しい……少し気になることがある」
そう告げるとファムは走り去った。
城の二階のバルコニーから外を見ると、歩兵が槍を構え横陣を組んでいる。騎士たちもくさび型陣形を組んでいた。その後ろには戦車に乗った魔術師たち。典型的な陣形だ。オルレアン側も同じような陣形で対峙している。いまかいまかと戦いの始まりを待っている。ファムはバルコニーから飛び降りると右翼の脇を擦り抜けて正面へと走る。何人かの騎士たちが驚いたように呼び止めるが、陣形を崩してしまうのでその場から動けない。ファムはそれを無視して正面へと躍り出た。オルレアン側も突如として単騎で現れた少女に何事かとざわつく。そこに馬に跨った騎士の一人がオルレアン側から現れた。
「名乗ることを許そう、何者だ」
明らかに無力そうなファムに馬上から告げる。それは命令に近かった。
「夕闇の賢者と共に旅をして来たものだ」
「何用でここに来た」
「夕闇の賢者とその連れを取り返しに来た」
騎士は笑った。
「笑止。賢者は使者として我がオルレアンに自ら来たのだ」
だがファムはそれを笑い返す。
「ではこの有様はなんだ。もはや夕闇の賢者は人質扱いとなっているのではないか」
ファムの言葉に馬上の騎士団は一瞬動揺を見せる。
「名乗れと言ったな。では正しく名乗ろう」
ファムは剣を抜くと高々と上げた。剣を抜いたはただ見せつけるためだった。
「我は悪魔を従える者。死を司る葬列のキースを従える者なり」
『悪魔』その言葉に両陣営が騒めく。だがファムは意に介さず口上を続ける。
「死を望まぬのなら道を開けよ!」
ファムの鐘のような声が響き、一瞬の静寂の幕が戦場に下りた。そして静寂の後は動揺、驚愕、恐怖、慄き。
「賢者を抱える聖地であるカナンは契約者を囲っていたのか!?」
「その小娘の戯言だ。貴様らこそ夕闇の賢者を返せ!」
「戯言で悪魔を従えると言うか!」
「そこの小娘はカナンとは何の関係もない!」
そしてカナンの指揮官の一人が命を下した。
「矢を射かけよ!」
背後からファムに向かって数本の矢が放たれる。何本かは剣で振り払ったが数本の矢がファムの身体に突き刺さる。
「くっ。問答無用か」
死ななくとも痛みがないわけではない。だがこの程度の痛みは慣れっこだ。ファムは意に介した風もなく、無言でその矢を引き抜く。流れ出る血は瞬く間に消え、傷が見る間に塞がっていく。
「不死人だ(インモータル)……」
「契約者だ……」
「悪魔だ!悪魔がいる!」
指揮官の命令を待つまでもなく、パニック状態となったオルレアン軍の中にファムは突進していった。
「突っ込んでくるぞ!」
オルレアンの後方の魔術師部隊から火の術式が放たれる。大蛇の舌のようにうねりファムを捕えようとする。ぎりぎりで躱すが左腕を焼かれる。
「がっ!」
苦悶の声を上げるが、ファムは炭化したその左腕を振り払うと、見る間に腕が再生する。再生というよりも何もない空間から新しい腕が現れたという方が正しかった。
「攻撃の手を休めるな!」
今度は氷の術式の詠唱が始まる。
「弓兵!援護せよ!」
何百という矢が放たれる。
「聖なる流れる水よ!刃となりて我が前の敵を貫き給え!」
魔術師から放たれる術式は弧を描く矢に纏わり、氷の刃となってファムに降り注いだ。鋭利な刃に蜂の巣になり、一瞬ファムの足が止まる。
「やったか……」
誰かがそう呟くが、次の瞬間それは絶望に変わった。ファムは大きく頭を振る。長い髪がウェーブを描く。ただそれだけで無数に突き刺さった氷の刃は溶け消えた。
「派手にやってくれる」
ファムは舌打ちする。一瞬身体の感覚が麻痺するほどの痛みだった。身体の感覚が戻ったのを確かめると再びまっしぐらにファムが駆けて行く。どよめきと恐怖が戦場を支配していた。
「ひ、退け!退けえ!」
生まれて初めて見るであろう、不死人に指揮官は恐れ慄き、たずなを引く。
「将軍!臆してはなりませぬ!」
副官は必死に指揮官を落ち着かせようとした。
「このオルレアン軍の名折れです」
副官の男の視界に赤い影が見えた。勿論深紅の髪をした少女、ファムだ。
「この、呪われしモノよ!」
怒りと侮蔑の言葉を吐きながら指揮官の右腕だった男がバスタードソードを抜く。この男を殺すことは容易いがファムはそれをしなかった。ファムはオルレアンに与するつもりはなかった。勿論カナンにもだ。
「死なぬ人間などいてたまるか」
「……そうだな」
ファムとて死ぬ。あの悪魔さえ滅べば。男はバスタードソードを振り下ろした。ファムは避けない。剣で捌くこともしなかった。右肩から心臓までざっくりと切られ、血が吹き出す。ファムはぐらりと揺れて片膝を付いた。男ははあはあと荒い息をつき、にやりと笑う。しかし、ファムはゆっくりと顔を上げた。赤い髪から覗く紫の瞳は光を失っていない。切り裂かれた身体は瞬く間に、時間を巻き戻すかのように元に戻っていた。
「うわ、わああああああああああ」
男は発狂寸前であった。
「悪魔だ、悪魔だあああああ!」
誰かがそう叫んだ瞬間、ファムの身体が燃え上がった。
「神聖カナンの名にかけて!呪われし悪魔を滅ぼさん」
カナンの魔術師からの攻撃だった。多人数よる複合術式を直撃したファムの身体は燃え上がり炭化し、灰となって崩れ落ちていく……そのはずだった。炭化した黒い影は崩れ落ちる気配すら見せない。五百度は超えるであろう業火の球体からそれは出てきた。ぬっと白い腕。火傷の痕すらない。その異常な光景にオルレアンもカナンの軍も息を飲む。球体からは五体満足で小柄な少女が何事もなかったようにそこにいた。長い深紅の髪が風にたなびく。燃え盛る炎より激しく、薔薇よりも赤く、血を吸ったように赤い髪が。
「うわあああああああああああ!」
「逃げろ!!!」
「悪魔だ!」
「化け物だ!」
もはや両軍とも既に軍隊の様相を呈していなかった。誰もが我先にと逃げ出そうとしていた。ただの烏合の衆であった。ファムはオルレアン軍の中心へと再度疾走する。もはや誰もファムに攻撃を加えてくるものはなかった。
海へと向かってただひたすらに真っ直ぐに。駆けた。焦りで時折足がもつれた。こんなことは初めてだった。逸る心を制御出来ない。まるで自分が自分でないようだった。あの二人のことしか考えられない。ああ、とファムは思う。
今、自分はきっと『人間』だ。
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