第2章 覚醒

11.衝撃

 足元から天井まで継ぎ目のない1枚のガラス。

 一見すると、そこには隔てる窓など存在しないかのようだ。


 その巨大な窓から見える青空には、ぽっかりと5月の雲々が気持ちよさそうに浮いている。

 眼下には、太陽の光で煌めく海が広がっていた。


 ここは、大手医療機器メーカーの太平洋テクノロジー株式会社の社長室。

 重厚なデザインの高級家具やインテリアが贅沢に並ぶ。


 デスクの奥の立派な椅子には、社長の真田翔さなだ しょうがどっしりと座り、ノート型パソコンで作業をしていた。


 年齢は40代後半といったところで、黒い短髪をオールバッグに固め、銀縁の眼鏡をかけている。服装はストライプが入ったグレーのスーツに紺のネクタイを着用していた。


 トントン。


 ノックの後に、ゆっくりと扉が開く。


「失礼いたします」


 社長室の入口から秘書の女性が入ってくると、「真田社長、子会社のNTナノテクノロジー研究所の中沢様がお見えです。面会したいとのことですが、どうなさいますか?」と、その場で告げる。


「はて、会う予定はなかったはずだが……」


 真田翔は、一瞬パソコンの手を止めてから、「まぁ良い。通せ」と答えた。


 ☆


 ほどなくして、黒いロングドレスの上に白衣をまとった美しい女性が入室してきた。


 彼女の名は中沢美亜なかざわ みあ

 長い茶色の盛り髪、少し垂れ気味の目。そして、右目下の泣きボクロが、より色っぽい。

 白衣がなければ、夜の蝶と見紛うような妖艶な雰囲気である。


「社長、なぜプレスリリースを出して報道機関に公開したのですか? あれは関係者外秘の極秘研究だったはず」

 中沢美亜は社長机の前まで近づくと、強い口調で言った。


「なんだ、そのことか」


 真田翔は作業を中断すると、椅子に深く腰掛けなおす。銀縁の眼鏡をかけなおすと、冷たい目で中沢美亜の顔を見た。


「もう我が社の影響力を拡大するフェイズに入ったのだよ。今朝の報道で、我が社は一躍、全世界から注目を浴びる企業になった。すでに国内外の大企業や軍事機関から何件も問い合わせが来ている。それに、株価も急騰してストップ高になった。研究成果を公開したことで、全てが俺の計画通り順調に進んでいる」


「いえ、私が聞きたいのは、リスクの対処についてのお考えです」


 中沢美亜は、上から真田翔を睨みつけた。


「以前、『公開するのはリスクが大きすぎる』と私から提言いたしました。社長もご存知の通り、まだ『ナノマシン細胞』は未解明な部分も多く、試験段階の域を出ません。それに、ナノマシン細胞を投与して『アドバンスドAセルCキャリアC』になった人間の特殊能力アビリティは、あまりにも常軌を逸しており危険です。そして何よりも、これほど強大な力となり得る技術を公開すれば、軍事力を欲する組織や人間から我が社が標的にされます。これらのリスクについて、社長はどうお考えなのですか?」


 それを黙って聞いていた真田翔は「クックック……」と笑いを堪える。


「『常軌を逸しており危険』か……。確かにその通りだ」


 真田翔は椅子から静かに立ち上がると、今度は中沢美亜を上から見下ろした。


「だが、俺は身をもって実感したよ。こちら側が常軌を逸した強大な力を持っていれば、どんなリスクも恐るるに足らんとね」


「まさか……」

 中沢美亜の顔色が変わる。


「そのまさかだ。所長の忌野いまわのに命令して投与した。もはや、俺もキミと同じACCだ。この特殊能力アビリティさえあれば何も怖くはない。例え、全世界を敵にまわしてもな」


 社長室には、真田翔の不気味な高笑いだけが響き渡った。


 ☆


 レースのカーテン越しに柔らかい光がアルファレオニスのリビングに差し込む。


 ソファーに座っていた薄紫色のワイシャツ姿の山下拓が髪を右手でくしゃっと触りながら、退屈そうに言った。


「どのチャンネルも、朝から同じニュースばっかりだな」


 壁掛けテレビの画面には、NT研究所からの中継映像や、老人が光を発しながら空中に浮いている録画映像が流れていた。


「でも、人間が空を飛べるなんて、すごくないですか?」

 いつものお気に入りの黒いパーカーを着ていた加賀瑞樹は山下拓の隣で素直な感想を述べる。


「誰でも飛べるさ」

 山下拓は、テーブルの上に置かれた箱に入っているチョコレートを1個つまむと口に放り込む。

「飛行機に乗ればな」


 加賀瑞樹は、思わず苦い顔をした。そんな、頭の体操のような答えは求めていない。

 この感動を共感してほしかっただけなんですけど、と心の中で文句を言う。


「えー、このチョコどうしたの?」

 作業を止めて、デスクからソファーにやってきた佐々木優理が、キャピキャピした歓声を上げた。


「これって、すごく高級なやつじゃない?」


 艶やかな唇の間からチョコを口に含むと、官能的な表情で美味しさを表現した。


「さっき、玲奈が持って来てくれたんです。昨日のお礼にって」

 加賀瑞樹もチョコを口に運びながら説明する。


 チョコを噛むと中からトロっとした甘い蜜が口の中に広がった。ついつい苦かった顔が緩くなる。


「ほんと、玲奈が無事で良かったです」と至福の表情で述べた。


 佐々木優理は再びテーブルに手を伸ばし、もう1個チョコを食べる。


「あん、美味しい♪」

 ドキドキするようなセクシーな声を上げた。


 すると、山下拓がスポーツ新聞を広げながら「加賀、コーヒーを頼む」

と何事もなかったかのように言った。


「はいはい、あたしも」便乗して佐々木優理も手を上げる。


「わかりましたよ」


 加賀瑞樹はキッチンへ行き、人数分のコーヒーをいれてくると、再びソファーに座りなおした。


 ふと、空席になっていた伊達裕之のデスクが目に入り、「そういえば、ダテヒロさんは?」と何気なく尋ねた。


「ダテヒロなら、さっきまで電話してた相手から呼び出されたっぽい。電話切ってから、慌てて外に出て行った」


 佐々木優理がニヤニヤと悪人のような顔をする。


「その電話の相手がね、女の声だったんだけど。ダテヒロも隅に置けないねぇ」


「彼女とかですかね?」

 加賀瑞樹が質問した。


「まさかな。ここ数年、そんな話は聞いたことないぞ」

 山下拓が苦笑しながら答える。


 すると、佐々木優理が前屈みになって意地悪そうに言った。


「拓が知らないだけで、実は隠れて付き合ってたとか。拓が元カノに未練タラタラだから、気を使って黙ってたのかもよ」


「オレは、全く未練はない」

 山下拓が不機嫌な顔で断言する。


「ダテヒロのあの慌てた様子だと、もしかしたら彼女から『子供できちゃった』とか言われてたりして」

 悪戯な表情を浮かべた佐々木優理が、テーブルの上のコーヒーカップを手に取る。


「それじゃあ、ダテヒロさん結婚ですね!」


「きっと、そう。戻ってきたら重大発表があるかもね」

 佐々木優理は、そう言ってから、コーヒーを口に含んだ。


 その時、玄関の扉が開く音が聞こえ、「ただいま」と伊達裕之が帰ってきた。


 3人はソファーに座ったまま視線だけで出迎えたが、予想外の光景に空気が固まる。


 リビングに入ってきた伊達裕之の隣には、ほとんど背丈の変わらないツインテールの美少女が立っていた。薄桃色がかった髪の毛。そして中学校の制服を着ている。

 

 伊達裕之が後頭部をかきながら、恥ずかしそうに言った。


「小生、子供できちゃった」


 続いて、ツインテールの少女が、「娘のコハルです」とペコっと頭を下げた。


 一瞬の静寂のあと、アルファレオニスのオフィスに3人の絶叫が響いた。

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