第1章 VS 人工知能
1.出会い
『
☆
それから18年の歳月が過ぎ、時は2028年5月――――。
「くそっ、いったい何なんだよ?」
20歳の誕生日を迎えたばかりの大学2年生。
最近あまり参加していないとは言え、所属しているテニスサークルで3セットマッチを戦えるだけの体力はある。
運動神経も悪くはないという自負もある。
ただ、先ほどから真夜中の静まり返った住宅街の路地を10分以上も走りっぱなし。そろそろ持久力の限界だ。
小さな交差点を曲がるときに、ちらっと後ろを振り返る。
30メートルくらい後方にやはり『何か』は在った。
電子レンジくらいの大きさの真っ黒な四角い物体。
その周りには、もう少し小さいサイズのサイコロのような黒い立方体も何個かある。
それらは転がりもせず、音もたてず、じわじわと近づいてくる。
「さっきより、増えてる……」
最初に黒い物体に気が付いたのは、今から20分くらい前。
サークルの同期の
ようやく解散となり、眠い目をこすりながら、やっとこさ自宅のアパートの入り口までたどり着いたところだった。
その時、アパートの郵便ポストから黒くて四角い箱のような『何か』が浮き出てきたのだ。
金属のように表面に光沢があるわけでもなく、かといって紙のようにザラザラしている感じもしない。
のっぺりとした印象の箱だった。
寝ぼけているせいだと思い、何度も目をこすったが、いっこうに消える気配はない。
それどころか、急に箱の横幅が長くなったと思ったら、中央に亀裂が入り、2つの箱に分裂してしまった。
加賀瑞樹は今まで見たことのない不可思議な現象に気味が悪くなって、小さく悲鳴を上げ、その場から逃げ出した。
しかし、『何か』は音もなく後を追ってきたのだった。
☆
町内を一周してアパートの前まで戻ってきた頃には、『何か』の姿は見えなくなっていた。
「やっと振り切れた?」
息を整えながら左右を見回し、何もいないことを確かめると、加賀瑞樹は早足にアパートのポストの前を横切り、2階の自宅に飛び込んだ。
すぐさま玄関の鍵を二重に閉め、チェーンもかけてから部屋の電気をつける。
明るくなったワンルームを眺めて、いつも通りの部屋の様子に安堵した。
「あれは幻覚に違いない。きっと疲れてたんだよ」
そのままベッドにうつ伏せに倒れこみ、自分に言い聞かせる。
そう、自分は幻を見ただけだ。
実際には何もなかった。
すべて自分の気のせいだった。
まだ落ち着かない鼓動の音が耳元で聞こえる。
あの悪夢のせいで眠気も吹き飛んでしまった。
寝返りをうって体勢を整えてから、ポケットに入れていたスマホを手に取った。
無意識的にSNSのアプリを起動する。習慣というより、もはや反射に近い。
大学の同級生の楽しそうな写真や美味しそうな料理の写真が、画面の上を混雑したエスカレーターのように流れていく。
つい先ほどまでの出来事が嘘だったかのように、急速に冷めた現実に戻る。
「ほんと、くだらない。バカばっか」
SNSを見ながら、深くため息をつく。
友達なんて、みんな上辺だけ。
周りからの評価ばかり気にして、虚勢をはって、嘘で塗り固めて、そして周りから期待された役を演じる。
舞台から降ろされることを恐れて、自分自身を偽って終わりのない演劇を続けている。
「友達になろう」といえば聞こえは良いけど、実は自分にとって都合の良い脇役を探しているだけ。
入学したてだった1年前の情景が思い浮かぶ。
結局、今となっては、ほとんどの『友達』がSNSの中だけの住人になってしまった。
まして、自分が困った時に助けてくれる『親友』や『仲間』なんて都市伝説みたいなものだ。
ちょうど、スマホの画面に映った『大切な親友と沖縄旅行』という文字と写真が目に飛び込んだ。
「親友? そんなの幻想だよ」
思わず心の声が漏れた。
本当の意味で『親友』なんているはずがない。
もし本気で『親友』だと思っている奴がいたら、そいつは頭の中にお花畑が咲いているおめでたいバカか、ナマケモノより鈍感なマヌケだ。
だって、生まれてからの20年間で、たったの一度も『親友』や『仲間』に出会ったことがない。
これまで何百人もの人間と知り合ったにもかかわらず、一人も存在しなかったのだ。
これはもう立派な都市伝説の類だ。
さっきだって、誰も助けてくれなかったじゃないか。
それに―――。
玲奈だって、暇つぶしに都合のいい同期としか思っていないだろう。
ファミレスでの小泉玲奈の独壇場を思い出しながら、再びため息をつく。
いつも誘いを断れない自分に。
ふとスマホの画面から目を離すと、机の上の写真立てが視界に入った。
写真には、小さかった頃の加賀瑞樹と姉、そして叔父の3人の笑顔があった。
「姉さん……。本当に信じられるのは姉さんだけだよ」
加賀瑞樹が、もう一度深いため息をついた時だった。
急に天井のLEDの明かりが小刻みに点滅した。
背筋に、ぞわっと寒気が走る。
嫌な予感しかしない。
点滅が収まったとたん、加賀瑞樹は声にならない悲鳴を上げた。
さっきまでテレビがあった場所に、あの『何か』がいた。
電子レンジどころか、すでに冷蔵庫ほどの大きさに成長していた『何か』からは、いくつもの小さなサイコロくらいの大きさの『何か』が湧き出していた。
そのサイコロたちはテレビの隣に置いてあったコンポに近づき、触れた。
するとコンポの中に沈み込むように消えてしまったのだ。
次の瞬間、コンポの表面全体が黒く変色し、形状も角張り、みるみるうちに直方体の『何か』になってしまった。
「逃げなきゃ」
加賀瑞樹は全身が震えながらもベッドから立ち上がり、玄関へ走った。
慌てて靴を履き、鍵を開けて扉を押す―――が開かない。
「えっ、なんで?」
精一杯の力を入れてもドアは全く開く気配がない。
「くそっ」と嘆きながら、ガタガタと何度もドアノブを回し直す。
「うわっ」
今度は扉の中央から『何か』が浮き出てきた。
とっさにドアノブから手を放し、3、4歩あとずさる。
部屋の入口に戻ってきてしまった加賀瑞樹は振り返り、愕然とした。
部屋の床と壁は大量の『何か』にほぼ埋め尽くされ、今なお天井に向かって浸食し続けていた。
唯一の逃げ道である窓へのルートも、腰の高さ以上に成長した『何か』たちに阻まれてしまっていた。
再び部屋の明かりが点滅したかと思うと急に消灯した。
―――もう終わりだ。
加賀瑞樹は足の力が抜けるのを感じた。
へなへなと力なく、その場にひざをつき俯いた。
そして目を閉じる。
すると、走馬灯のように姉との昔の思い出が蘇った。
いつも姉さんは優しかった。
いつも姉さんは暖かった。
そして、いつも―――。
「助けて、姉さん!」
☆
「あたしは、あんたのお姉さんじゃないんだけど。ま、契約成立ってことで」
聞き覚えのない若い女の声に、加賀瑞樹は反射的に顔を上げた。
そこには、どんな絵画よりも神秘的で美しい刹那があった。
窓とカーテンは開け放たれ、その隙間から差し込む満月の光を背にして、その長い髪は柔らかな金色に輝いていた。
目の前に、見知らぬ麗しい女性が足を組み腰掛けていたのだ。
逆光ではっきりとは顔が見えないが、微かな光だけで間違いなく美人であることがわかった。
「―――あなたは?」
「
驚いたことに、佐々木優理と名乗った女性は腰の高さほどある『何か』の上に腰かけていた。
黒のタイトスカートと黒ストッキングを纏ったスレンダーな両脚が、妖艶さを醸し出していた。
「あの、大丈夫なんですか? それに座って」加賀瑞樹は立ち上がりながら尋ねた。
「あー、これね」ひょこっと佐々木優理が『何か』から降りた。
「まだ
目が慣れてきたせいか、佐々木優理が微笑むのが見えた。
「今のうちに、壊さないとね」
「へ?」
佐々木優理の身体は白いシャツの上からでも、女性らしい美しい曲線を描いているのがわかる。
左手で右袖をまくると、女神のような腕が露になった。
佐々木優理は静かに手のひらを握った。
そして、少し体勢をかがめた後、その右手の拳で『何か』を一気に突き刺した。
鈍い音と振動が同時に辺りを襲う。
巻き起こった風で、加賀瑞樹の前髪と羽織っていた黒いパーカーが舞い上げられる。
風が収まると、『何か』は拳によって開けられた穴の周りから稲妻のようにギザギザした亀裂が入った。
それが他の『何か』にも広がっていき、そして全ての『何か』が粉々に崩れ落ちた。
☆
「ありがとうございます。助けてくれて」
屋根と壁が吹き飛んだアパートの部屋で、加賀瑞樹は佐々木優理に頭を下げた。
ひんやりとした夜風が部屋の中を吹き抜ける。
「いいよ、お礼なんかしなくて。それより―――」
佐々木優理は、豊満な胸の谷間から小さく折りたたまれた白い紙を取り出すと、そのまま手渡してきた。
「はい、請求書」
「え、お金取るんですか?」
受け取った紙を両手で折り紙のように順番に開き、やっとのことでA4サイズまで広げる。
そして、印字されている数字を見て、加賀瑞樹は思わず悲鳴を上げた。
「ええええっ!? 40万も?」
「オートマトン駆除1件で、税込み40万円」
本物の女神のような美しい笑顔で、佐々木優理はニコっと微笑んだ。
「仕事なんだから当たり前でしょ」
「そんな……」
加賀瑞樹は視線を落として、受け取った請求書の数字をもう一度眺める。
何度、ゼロの数を数えても金額は変わらなかった。
「こんな大金、すぐには払えないですよ。叔父さんからの仕送りは止まっちゃったし。まだバイトは見つかってないし」
そして周りを見て続けた。「……家も柱だけになっちゃったし」
すると、佐々木優理は両腕を組み、むっとしたような表情を見せた。
「えっ、何? 助けてもらったのに料金払えないってわけ?」
「……でも、勝手に助けてくれたというか、僕が『助けて』ってお願いしたわけじゃないですし」
びくびくしながらも加賀瑞樹は勇気を振り絞って反論する。
「それでお金を取るっていうのは、ちょっと―――」
その言葉をさえぎって佐々木優理が真顔で答えた。
「あんた、さっきお願いしたじゃない。『助けて』って。その時点でこの契約は成立してるんだけど」
加賀瑞樹は、あの時、姉に助けを求めて叫んだことを思い出し、「あっ」と口を開ける。
「まぁ、そもそもお金がないんじゃ仕方ないか。無い袖は振れないし」
急に佐々木優理が明るい顔で納得したように頷いた。
「それじゃあ―――」加賀瑞樹は、ほっと胸を撫で下ろそうとした。
「そしたら、決まりね!」
佐々木優理は長い髪の乱れを手で直すと、満面の笑みを浮かべた。
「あんたの身体で払って」
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