2.アルファレオニス
「身体で払うって、こういうことだよね……」
加賀瑞樹はトイレの便器を雑巾で磨きながら呟いた。
あれから10日。
佐々木優理が働いている『株式会社アルファレオニス』で、住み込みでアルバイトをしている。
『アルバイト』といえば聞こえはいいが、つまりは請求された40万円分を稼ぐまで、大学の授業がある時間帯以外は、ここで働かされているのだ。
結局、あの不可思議な事件は『ガス漏れによる爆発』ということで消防でも警察でも処理され、幸いケガ人も出なかったことも手伝って、大きなニュースになることはなかった。
世の中にとっては大した問題ではなかったのである。
一方、加賀瑞樹にとっては重大問題だ。
文字通り死活問題だった。
住む場所を失い、所持金もほとんどない。
そして、なによりも頼れる身内がいない。
加賀瑞樹が物心ついたときには、すでに両親はいなかった。
身内と呼べるのは、一緒に暮らしていた4歳上の姉と、叔父だけだ。
叔父は仕事が忙しく、家にはあまり帰ってこなかったので、子供の頃は、もっぱら姉が母親代わりだった。
しかし、姉は高校の卒業と同時に家を出てしまい、いつしか連絡も取れなくなってしまった。
いわゆる、行方不明である。
その後、叔父も仕事で遠くに行ってしまうというので、加賀瑞樹は全寮制の高校に入学させられた。
それ以来、叔父から毎月仕送りしてもらって生活していた。
だが、20歳になった先月から突然、仕送りの入金が途絶えたのだ。
慌てて叔父に久しぶりに連絡しようとしたが電話番号が変わってしまっていた。
『現在使われておりません』という冷たいメッセージに、全身の血の気が引いたのを覚えてる。
もちろん、叔父のSNSとつながっているはずもなく、万事休す。
そんな無収入の状態だった加賀瑞樹は、佐々木優理の言われるがまま、アルファレオニスで働く以外の選択肢は持ち合わせていなかった。
「でも、住む部屋も貸してもらえてるんだから、文句は言えないか」
加賀瑞樹はオフィスの物置になっていた1室を借りて寝泊りしていた。
『物置』と言っても、オフィス自体が3LDKの分譲マンションを利用しているので、いくつか段ボール箱が積まれているものの、いたって普通の寝室である。
社員数3人のベンチャー企業であるアルファレオニスでは、20畳くらいのリビングが主な作業場所だ。
各社員のデスクとパソコンは壁際に等間隔で並べられている。
リビングの中央には、テーブルをはさんで長いソファーが2つ置かれており、応接に使ったり、好きな時に休憩や雑談をする空間になっていた。
また、キッチンには冷蔵庫や電子レンジもあり、自由にお茶を沸かしたり、軽食も食べることができる。
初めはソファーに座っていても落ち着かなかったが、1週間もすると居心地が良くなった。
リビングの隣の部屋は会議スペース。
ホワイトボードやスクリーンが常設されていて、時々、そこで打ち合わせが行われた。
玄関側には、加賀瑞樹が借りている物置部屋と、その向かいにサーバールームがあった。
サーバールームでは、ラックと呼ばれる金属の棚の中に、サーバー本体とおぼしき、たくさんの機械が組み込まれており、扇風機の唸り声のような音が絶え間なく響いていた。
☆
トイレ掃除が終わり、加賀瑞樹が洗面所で手を洗っていると、社長の
「加賀っち、お掃除ありがとう! ちょっと休憩にしようか」
伊達裕之は若干27歳の若き社長。
10月に28歳になるらしい。
しかし、小柄で童顔なため、見た目はもっと若い。
なぜかいつも上下とも紺色のジャージを着ていることもあり、四角い黒縁眼鏡をかけている姿は中学生と見紛うほどである。
『加賀っち』というあだ名は、アルバイト初日に伊達裕之が付けてくれた。
リビングに戻ると、ソファーに座っていた佐々木優理が待ちくたびれたような顔をこちらに向けた。
「かが、紅茶」
「はい、優理さん」
加賀瑞樹は上官に命令された兵隊のように返事をすると、慌ててキッチンに向かった。
赤い電気ポットからお湯を出し、慣れた手つきで紅茶をいれる。
毎日3回以上、10日も繰り返すと、なかなか手馴れてくるものである。
「優理、あんまり加賀をいじめるなよ」
ちょうど取引先から帰ってきた
営業とエンジニアを兼務している山下拓は、伊達裕之の大学の同級生。
大学を卒業したタイミングで伊達裕之と一緒に起業し、アルファレオニスを設立したそうだ。
身長は180センチはある。
すらりとしているが服の上からでもわかるくらい筋肉質で、一切無駄のない身体をしている。
整った顔立ちに、鋭い眼光と少しパーマがかかった髪の毛。
濃い紫色のネクタイと薄い藤色のワイシャツの組み合わせがよく似合っており、手に持つ食べかけのホットドッグですらも、大人の男性のファッションアイテムのように見える。
右手に持っていたバッグを自席のデスクの脇に置いた後、佐々木優理の向かい側のソファーに、どかっと腰を下ろした。
「いいの。かがは、あたしの
佐々木優理は明らかに間違ったルビで答えると、相変わらず女神のような笑顔で微笑んだ。
入社3年目の佐々木優理は今年25歳。
プログラマー兼デザイナー。
明るい栗色のロングヘアーに、自信に満ち溢れた美顔。
モデルのような160センチ台半ばの高身長。
そして誰もが羨む抜群のプロポーション。
白いシャツの胸元から胸がこぼれ落ちてしまいそうだ。
さらに黒ストッキングと黒のタイトミニスカートが、色気を増長させていた。
そもそもアルファレオニスは何の会社かというと、表向きは、『
つまりは、人工知能を活用したシステムやロボットを企業相手に提案したり、提供したりしているのだ。
しかしながら、もっと重要な裏の仕事を請け負っている。
それは、依頼に基づき、『
オートマトンとは、加賀瑞樹が先日襲われた黒い四角い箱のような物体のことである。
加賀瑞樹はトレイに4つのティーカップを載せ、紅茶をこぼさないように、ゆっくり足を進める。
「どうぞ」
リビング中央のテーブルの上に、ひとつひとつ丁寧に並べた。
「ありがと」
さっそく佐々木優理がティーカップに手を伸ばす。
加賀瑞樹は、空になったトレイをキッチンに片付けた後、リビングに戻り、ソファーの空いているところに腰を掛けた。
山下拓の隣、佐々木優理とは対角線上の位置である。
すると、対面に座っていた伊達裕之が優しい表情で話しかけてきた。
「加賀っちが来てから、もう10日が経つね。仕事には慣れた?」
「そうですね。掃除とか、お茶いれるのとかは慣れてきましたけど。AIやロボットの専門用語に慣れなくて。『深層学習』やら『強化学習』やら、何がなんだか……」
「そういうのは、頭じゃなくて身体で覚えるんだな」
スポーツ新聞を開いている山下拓が口をはさむ。
「あせらないで、ひとつひとつ覚えていけばいいよ。それに加賀っちは物覚えがいいし、きっと大丈夫」
純粋無垢に微笑む伊達裕之の姿は、中学生そのものだった。
加賀瑞樹は、前から疑問に思っていたことを口にした。
「あと、一番わからないのが、アルファレオニスの『裏業務』というか。そもそも『オートマトン』って何なんですか?」
伊達裕之は、口元に左手の人差し指を当てて少し考える素振りをした後、ゆっくりと口を開いた。
「んーと、何から説明すればいいのか難しいんだけどね。加賀っちは『
「はい、学校で習いました。20年近く前に日本で起きた大災害ですよね?」
「そう、そのことなんだけど。公には、2010年に同時発生した7つの『災害』で街が壊滅したと報道されているけど、実際は、7人の『
「7人のエージェント?」
思わず加賀瑞樹は訊き返した。
「その7人の素性は国家機密に指定されているから、小生も詳しいことは話せないんだけど」
伊達裕之は自分自身のことを『小生』と呼んでいる。
「いずれにしても、たった7人の強大な力によって、日本どころか世界が滅びかねない状況になったんだ。その危機を救うために大勢の人たちが命を懸けて戦った。そして、なんとかエージェント2人を倒して、残りの5人も撃退することに成功したんだ」
「そんとき、優理のオヤジもエージェントと戦ったらしいぜ」
スポーツ新聞の紙面の向こうから山下拓が付け加えた。
「優理ちゃんの実家は有名な家系だもんね」
にこやかに伊達裕之が頷いた。
すると、紅茶を飲んでいた佐々木優理が「ダテヒロ」と伊達裕之をギロっと睨みつけた。
「それ以上実家のことをしゃべったら、『チビ』って呼ぶよ」
伊達裕之は睨まれたカエルのように小さな身体をさらに縮こませ「どうせ『チビ』ですよ」と、うな垂れた。
どうやら本人は身長が低いのを相当気にしているようだ。
「たった7人が世界を滅ぼすって、にわかには信じられない話でしたけど」加賀瑞樹は自分に言い聞かせるように言った。
オートマトンに襲われた経験のせいで、危なく素直に信じてしまいそうだった。
「仮に信じたとして、それがオートマトンとどんな関係があるんですか?」
落ち込んでいた伊達裕之は我に返り話をつづけた。
「実は、オートマトンも『セブン・ディザスター』の時に初めて現れたんだ。エージェントの同類というか、道具というか……。まぁ、機械だよね」
「あれが機械?」
「うん、小生も初めは信じられなかったんだけど、オートマトンは生物のように成長する機械なんだと思う。ちなみに、生まれたばかりの小さなオートマトンのことを『
「かがの家にいたのがベータね」
今度は佐々木優理が付け加えた。
「そして、ベータがさらに遷移した『
「ベータでも、じゅうぶん怖かったです」
加賀瑞樹は、ベータよりまだ上があることを知って身震いした。
「逆に言えば、ベータまではオートマトンに触っても大丈夫ってこと。アルファレオニスの裏の業務は、まさにそれなんだよね。調査依頼されたオートマトンを見つけて、ベータのうちに破壊すれば、安全に売り上げが上がるっていう素晴らしいビジネスモデル」
伊達裕之が小さく指でブイサインを作った。
「これで一通り説明できたし、さっそく今日から加賀っちにも裏業務を担当してもらおうか!」
「え?」
加賀瑞樹は、予想外の急な展開に全身の血の気が引く。
山下拓が読んでいた新聞を折りたたむと、「したら、加賀、行くぞ!」と、すくっと立ち上がる。
そして、玄関の方へ歩き出した。
「加賀っち、いってらっしゃーい」
「かが、お土産忘れないでよ」
2人の声に無理やり背中を押され、しかたなく加賀瑞樹は山下拓の後を追った。
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