拾伍

 後に黄海海戰の名のついた戰いであった。

 そもそも帝國艦隊が露西亜の旅順艦隊の殲滅を命じられた理由は、北海を出港したバルチック艦隊と此方の旅順、浦塩を合わせた極東艦隊が合流することによって、帝國海軍では太刀打ち出来ないほどの戰力に膨れ上がることを防ぐ為であった。つまり、逆を云えば、露艦隊はこの極東艦隊をなるたけ温存して、バルチック艦隊と合流したいのである。六隻の戰艦を保有する旅順の艦隊は未だ脅威であった。一方で、日本は触雷によって虎の子六隻の戰艦のうち、八島と初瀬を喪っていた。

 ウラジヴォストーク――浦塩への回航を試みた露艦隊を阻まんと、帝國艦隊は全速をあげて追い、露艦隊も応戦しつつ無論全力で浦塩を目指していた。

 先ず露戰艦レトウィザンが、出港直前に陸砲から喰らった弾により、喫水線に生じた亀裂からの浸水が発生し、艦隊の全速に付いていけなくなった所為で、露艦隊の速度が十四浬から十二浬に落ちた。其れを十五浬で帝國艦隊は追い掛け、断続的に偵察隊を発進させつつ三時間ばかりの追走を経て、山東高角の北方約四十五海里の地点に於いて、旗艦三笠が、捜兵のごとき航空隊からの連絡で、露艦隊のあげる煙を、午後五時半の血汐のごとき薄紅けぶる水平線上に遂に認めた。直ぐに、後方につく特設空母花嵐に全航空隊を発進させるよう、檣に発艦信号旗を掲げた。

 丁度幾度目かの海上捜索から帰還したばかりの隊員達は休む間もなく各々の機体に乗り込み、波のように次々と水平線に向けて発艦して行ったと乘組員の一人が語る。

 その中で、實近は、ほんの僅かな間甲板に立ち尽くしていたと云う。

 人の血肉が転がる戦場を見続けていた彼の黒く潤んだ瞳は曇り、横顔は蒼白く強張っていて、何故だか彼の居る処にだけ灰色の紗が掛かったようだった。と、そこで、同じくらいの年の若者が、實近に駆け寄って背中を乱暴に叩き、何事か囁いた。實近はそのあと、何やら覚悟を決めたように自分の機体へ歩き出したと聞いた。

 露艦隊最後尾の戰艦ポルタヴァの対空砲が火を吹いた瞬間から、黄海海戰の第二回戰の火蓋が切られた。

 対空砲を避ける訓練が不足していた若手の航空隊員は、此れに苦戦した。偵察機同士の戦闘とは異なる砲弾の角度や速度に翻弄され、又た敵の砲手も熟練した者ばかりを集めて、花籠のごとく砲火の煙を噴き上げながら銀の翼を狙い落としていく。

 帝國海軍の切り札には、下瀬火薬と云う特殊な火薬を用いた、飛ぶ魚雷とも云われるほど高威力の砲弾があった。艦を沈めるよりその戦闘力を奪うという目的に特化したこの火薬が、露西亜の全艦に火災を生じさせ、海面は水柱をあげて地獄の釜のごとく沸き立った。その隙を縫うように突っ込んできた飛行機が鐵の種子を放って艦上建造物をやみ雲に撃ち抜いていく。

 三笠を始めとした朝日、富士、敷島の戰艦四隻、春日、日進の一等巡洋艦、そして特設空母花嵐を主力に据えた帝國艦隊は、只管攻撃を加えた。何が何でも露艦隊を浦塩に辿り着かせてはならなかった。

 然し依然露艦隊は一隻の落伍も無く浦塩を目指して進むことが出来た。駆逐艦や水雷艇が此の地獄の戰場に割り込めず、艦を沈める為に必要な魚雷を満足に撃ちこめなかったのだ。

 露艦隊は、浦塩へさえ辿り着ければ、あとは日本近海を荒らし回りながらバルチック艦隊の到着を待てば良い。逃走が勝利への策ならば、全力を挙げて彼等は奔った。航空隊は此れに群がり、必死でその速度を落としにかかった。殊に中の一機が、まるで鷹のように激しく艦艇に迫ったと云う。後にその乘組員は空軍の鷹と云う異名を戴くことになるのだがーー

 そんな最中、日露双方の予想と運命を狂わせる出来事が起きた。

 露西亜の旅順艦隊旗艦、戰艦ツェザレーヴィチの司令塔が、戰艦三笠の、魔弾とも呼べる砲弾によって被弾し、艦隊の指揮権を握る幕僚達が皆、一瞬で粉々に吹っ飛ばされたのだ。海戰史上稀に見る、奇怪なほど運命的な一弾である。刹那で死の艦と化した此の旗艦の惨状に、けれども暫時誰も気付かなかったことが更なる不幸を呼んだ。

 操舵手の死によりツェザレーヴィチは、猛火に包まれたまま左に大きく回頭し、無論その動きに続こうとした後方の艦列に弧を描いて突っ込んできたのである。其れによって一列に進んでいた露艦隊の隊列が乱れた。上空からも判る敵艦隊の混乱に、此の機に乘じんと帝國空軍の航空隊は俄然、更なる猛攻を仕掛けんと敵の地より迫りくる嵐のごとき対空砲火を避けて爆撃を繰り返した。露艦隊の六隻の戰艦は動揺の最中であった。レトウィザン、ポペーダと、二番手三番手に附いていた戦艦は旗艦の暴走に狼狽え、四番艦ペレスヴェートはツェザレーヴィチを躱す為に迷走した。実は此の四番艦はこの時点で新しい旗艦となって信号旗を掲げていたのだが、そのことに気付いて後に続いたのは五番艦のセヴァストーポリみであり、殿艦のポルタヴァは艦列から大分離れていた。この迷蛇に、猛禽のごとく航空編隊が襲い掛かった。足の速い露巡洋艦たちは離脱の命を受け、南方へ進路を取ろうとしていたが、殲滅の使命を帯びた日ノ本はこれ等にも喰らいついた。刻一刻と夜闇が迫っている。戰艦の砲撃も空戰も限界が近づいている。自然、攻撃も遮二無二捨身になり、飛行機ごと艦橋に体当たりするような勢いで爆撃が繰り拡げられた。甲板は血と炎の海で、腕やら脚やらが宙を舞い、膓や肉片が飛び散った。薄闇の覆いかぶさってくる洋上は地獄絵図だった。或る露戰艦の対空砲火を左の主翼に浴びた一機が、そのまま機首を下に錐揉み回転して墜ちていく途中で、突然ぐっと機体を立て直したと云うのが目撃された。

 午後七時、完全に夜が辺りを支配したところで、とうとう両軍、砲撃中止と、帰投命令を出さざるを得なくなった。

 戰闘が終了し、各機離脱の後、編隊が上空で集合した。全機揃わない。行きに組んできた列は穴だらけで、撃墜されたか己の方向を見失ったか、とにかく是れは相当な被害であった。帰ってきたものの中にも、今にも火を吹いて空中分解しそうな機体を何とか持ち上げて運んできたようなのが幾つもあった。未帰還機は、全体で二十三機を数えた。

 その中に、美薗地實近の機があったのである。

 彼がどうなったのか見ていた者はいない。

 悠久の空と海の狭間で忽然と姿を消す。骨も影もなにひとつ残らぬ。無が死を証明するのである。

 飛行機乘りの最期などそんなものだ。



 邸にはさめざめと、時雨のごとき花たちの泣声が響いて居る。黙した公爵は唯一心に公報に視入り、その、息子とよく似ていて、然し年老いた白い横顔で、息子の死に向合って居た。

 僕はゆらゆらと空に幻視する墨の、美薗地實近の文字が鮮麗あざやかなのに、ふと曾て…曾て深山で受け取りし、美薗地の家の招きを思い返していた。

 鐵の汽車に揺られて帝都へ向かった七ツの春。黒黒聳ゆる鐵の門に、百段階段のきんきら錦の高楼。冷たい黒黒とした夜と、まぁるい月。そして、實近。僕の、――加賀桜花の、魂の半身。

 あの日から、今此の時、此の瞬間に、桜花の生の始まりと終端とが閉じ込められた。加賀桜花の命は、美薗地實近の死と共に終ったのだ。

 僕は、亡霊となった。散ったさくらばなの亡霊となりて、この闇と血の満ちゆく帝都で、僕は……。

 戰死公報がはたりと鳥の羽根のごとく瞬き、其れを見て、日高千景はどうなったろうと、ふと思った。此れ迄でに挙げられた戰死者の中には未だ彼の名が無いことに安堵する己れが居た。

 彼には兄が二人居る。

 其れは、死を厭うに充分なことだ。






 美薗地の邸が、門已みでなく総てが黒黒と染まり、庭や廊下には、割れた氷のような白の菊ばかりが飾られ、辺り一面に酸っぱいような、奇妙な匂いを一杯に振り撒いて居た。門の前には数台の馬車が駐められ、黒服の者が訪ねては帰って往く。

 降り續く雪に手折られた渡り廊下の莇は枯れ、黒い土だけが互の字のなかに残っていた。白く覆われた欄干に、銀の鈴が鳴る幻聴に囚われ、僕は此処を歩行く度に足を止めてしまう。

 離れには幾人かの使用人と、美薗地の血を引く者が、沈痛な面持ちで影のように跫音も微かに出入りして居た。冷やりとした空気が肺を刺し、北を向いた奥の部屋にそぅっと忍び寄る。

 僕は奥の庭を廻って、雪見障子を引きて、部屋の真ん中に寝かされている人に小さく声を掛けた。

「國近様」

 応えは勿論無い。國近様は、あの晩、實近の死を報せる前にサロンで意識を失なって居るのを発見されてから、もう幾日眼を開けない。あの切れ長の、どうしてか他人の僕とすこぅし似た、刃物のような眼差しは、雪中の足跡のような蒼白い瞼の窪みに隠れて、二度とまみゆることは無いのではと思われた。

 裸足で泥に立つ僕の肩に、まぼろしのごとき雪片が降り積もっていく。其れを数える内に、彼の呼吸が微かに乱れた。咳き込む力も無く、羅にも耐えられないような薄い胸廓が慄える。

「國近様、裏の木戸を開けます」

 僕はそう云って、奥庭の生垣に潜っそりと隠れるような、吾が胸の丈程しか高さの無い木戸の閂を、そぅっと外した。積っていた雪がはらはら白椿のごとく落ち、澄んだ冬の空気がしゅるりと邸内に忍び込む。……松の枝が揺れた。ひりりと腑に凍む如月の音は、常緑の針が奏でる楽である。

「桜花」

 鈴の罅割れたような、幽かな聲で在った。僕は発条仕掛のように振り向いた。

「……實近は死んだか」

 憂わしく、ほんの一筋目を開けた國近様の枕辺に僕は駆け寄り、呼吸の調子やらを確めようとしたが、厭そうに僅に顔を背けられた。人を喚ぼうと声をあげそうになった手の甲に爪を立てられる。死に瀕した病人の渾身の力だろう其れに、僕は脣を噛んだ。

「……死にました。今ごろは、必っと、靖國に」

 僕が肯定すると、國近様は黙って瞑目した。

 切られもせず、長く襟足に纏わる細い髪を除けてやると、ふっと息を吐いた。浅く速い息遣いは此方も苦しくなって来るようだ。満足に吐けない方が苦しい、と以前呟いていたが、紫陽花のごとく蒼ざめた薄き脣は、曾てと変わらず皮肉げな笑みを湛えていた。

「お前、あれが本当に、靖國なぞに居ると思っているのかい」

 僕は微かに狼狽たじろいで、膝で畳を摺った。國近様は其の蒼白い面に燈の黄色を塗りのばしたような、死人に余りに近付いたかんばせで、尚も嘲笑に似た表情を浮かべた。けれど、そのぼんやりとした眼は、天井の板や離れの甃屋根もずぅっと越えた天を、唯やさしく見ているように思えた。

「實近が、天以外の何処へも逝く筈がないだろう……」

 僕は、不気味に青いままの畳を見て呼吸を止めて居た。國近様は、もう恐らくは何も見えない双眸で、北の海の空も越えて、雲海をも越えた向こう、星が無数にきらめく天を、気儘に翔ぶ、銀の翼を、昔と変わらず斜に構えた様子で見守っている。

 胸廓が震え、呼吸は肺腑の血の河をわたって彼の魂の残りを刻刻と吐き出させていく。

「桜花」

 僕に喚び掛ける掠れた声は、雪のうえに桜の花びらが落ちる幽世の音に…とてもよぅく似ていた。

「独りにしておくれ」

 はい、と応えた時、國近様は、初めてゆぅるりと優しく微笑んだ。



 裏の木戸が、きぃ…きぃ…と、小さな音をたてて揺れて居る。

 血のかわりに、喪と雪の匂いが、清澄に部屋を満たして居た。鈴の音も、雪の音も、しわぶきも、何一つ聴こえぬ。僕は雪見障子の前に立って居る。半刻経って、庭には又たちらちらと粉雪が降り始めて居た。高楼から、雪を渡ってきた裸足の爪先から血が滲んでいた。

「國近様」

 喚ばわった聲に答えは無い。僕は其れを理解っていて喚んだのだ。

 雪見障子は空いている。中には敷かれた蒲団と、横たえられた國近様の着物の、滲むような陰の色が、言い様の無い気配を醸していた。

 仰向いた國近様の脣の色は褪せて、夜空を一枚剥がしたように仄蒼い紗が、その體をおおって居る。瞼の上には死神の指の痕が、雪の上の翳となって、あの、何処か僕と似た切れ長の眦を寒寒しい常世の安寧で彩って居た。

 僕は縁に足を乘せ、冷えきった青い畳の上をゆっくりと、蒲団の脇までにざっていく。脚の爪がなぞった藺草の上に、血汐が疎らに点を描いた。

 血の繋がらぬ吾が義兄の、永遠の安らぎを得た胸の上には、つめたい銀細工の、蜥蜴の煙管が、手向けのごとく置かれていた。

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櫻花綺譚 しおり @bookmark0710

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