拾肆
幕切れというのはいつの時代でも突然だ。
火は燃えて、消える。
花は咲いて、散る。
人は生きて、死ぬ。
境目など存在せぬ。あっけなく、終りという闇が一瞬で世界を覆いて、幕。
一九〇二年の余りに
戰況も必ずしも思わしくなかった。陸軍は相変わらず旅順の攻略に苦戰し、海軍も虎の子の戰艦二隻が触雷によって沈没した。戰死公報を受け取る家もあちこちに出てきて、紅白の旗と一緒に黒い喪のしるしも帝都には溢れていた。
美薗地の屋敷のなかは火が消えたように静かで、僕は其の何処を歩く時も何故だか此岸でない処に居るような爰地がした。
孤獨に幾何や漢文に励みながら、ふと息を吐けば、長く顔を見ぬ母と妹、そして實近のことが気に掛かっていた。
上級の學校の試験を受ける歳であったが、僕は半ば以上大學に気持ちが傾いて居た。國近様に云われたからというのも少しあったかもしれない。戰爭を、母も妹も望まない。僕が實近の出征を望まなかったがごとく。
僕は十八になる。七ツの歳より、ずっと求めていた桜の花咲く時は、もう直ぐであった。
梅莟の硬く雪に埋もれたのを書見の障子から見遣って、僕は時の過ぎ行くのを想った。
一際冷え込んだ、灰色の空に霜の重なる朝だった。水を遣ってから母屋の方へ歩いていくと、偶々行き逢った紅梅の小袖の女中が、真ッ青な貌をして飛んできた。「これを――」封の切られた手紙を見遣ると、僕宛であった。差出人は加賀家でなく蓮見の名があった。
スグカエレ
母のものでもことのものでもない字だった。
僕は
怪物のごとき鐵道も、此のときばかりは鈍く感じた。鳥になれたなら、と駅舎に停止する度窓の外を往く燕を睨んで、段々酷くなっていく雪を恨んだ。
白と枯色ばかりの故郷は、驚くほど寒寒しく、然し奇妙に慌ただしかった。帝都を脅かした伝染病は、本当は日ノ本其のものを滅ぼさんとして居たのだと、全ての戸に喪中のしるしが掲げられた板垣に僕は立ち尽くした。警官隊の大音声の無い深山の村は、啜り泣きと苦悶の呻きばかりがあるだけであった。山の方にある、夕映えの柘榴の寺から、絶えず白い煙が立ち昇っていた。やっとのことで駆け付けた生家には、粗末な位牌が一つと、薄い蒲団に横たえられた虫の息の妹だけが在った。僕に手紙を送った蓮見の家の玄太郎氏――ことを看て居てくれたそうだ――が、僕の顔を見るなり脣を噛み締めて頭を下げた。
近寄らないで、とことは呻いた。伝染るからと…僕は茫然と其の枕元に跪いた。
コレラは人から人へ容易に感染り、ひとたび悪くなれば一刻もたたないうちに死んでしまう者さえあるらしい。母の看病をしていたことが倒れたのは昨晩だったそうだ。蓮見の家の者が最初に気づいたそうだが手の施しようもない。コレラに襲われた者が村中でばたばたと斃れ、その穢物や屍が積み重なって異臭を放っていた。雪も溶けきっていない湿った道端に大量に蛆が湧き、白い浪がじゃくじゃくと音を立てて泥にさんざめいていた。曠野の枯れた白楊の木の枝には鴉が黒雲のごとく群がり、夜通し頻りに奇声を発していた。
ことは夜更けに死んだ。
最期迄、謝ってばかりの妹であった。
「にいさん、あたし最期までにいさんの足手まといね」
流す泪も涸れた虚ろの眼でことは僕の手を握って苦しみに呻いた。僕はことに覆い被さるように抱いていた。ご免なさいと絶えず聴こえる声を打ち消したかった。
ことの骸は硬くて、柔くて、温くて、冷たくて、乾いていて、土で拵えた人形のようになっていた。つまりは屍であった。母とよく似たかんばせは見知らぬもののようだった。
死に顔を見ずに母は焼かれてしまっていたから、僕には病に臥せる母の顔がことの骸に置き換わって見えた。
七宝の桜の帯留は、持ってくることが出来なかった。ことは、粗末な母の繕いの薄い着物だけをきていた。
蒼い顔でことの屍を見詰める蓮見の玄太郎氏に暫し留守を頼み、寺まで走った。
磴を上がる足はまるで死神の取り憑いたがごとく重たく、処々、壊れ崩れて、草も蘚苔もむら生えの寺を目指す。屍を荼毘に伏す臭いが目鼻を刺した。
妹の死を伝える短い間に幾人も僕と同じ立場の者がやって来た。曠野の焚き火は切燈籠のごとくちらちら、柘榴の花のように真っ赤に耀いて居た。人を喰う鬼の花の色の、炎の舌が、屍を嘗め尽くして骨を舐った。ぱちんと弾ける音がして、見遣れば誰かのされこうべであった。……
僕は気付くと、その炎の傍らに佇んでいた。病を得て、こうして誰とも判らぬ姿で焼かれる、骨……。
加賀の墓と云うものは無い。母の両親はもう少し北の村で生まれて死に、先祖の墓は土砂崩れで流されて無くなった。母の骨は、小さな石だけが目印の、賽の河原じみた曠野に埋まっている筈だった。其所に、妹も埋まる筈であった。…
其所は誰の墓でもない、骸の棄て場所に過ぎぬ。全てを失った、寄る辺無き獣の、辿りつく涯てである。
死者を焚く焔が、僕の長い黒髪を捕らえて飲もうとした。抗わずに焼かれようとしたのに、炎は其の指を引っ込めた。
僕は唯ひとり、生きたまま炎の前に立ち尽くして居た。
明くる朝、僕は、明け方に焼かれた妹の骨が冷めるのを待つ間に、あることを思い立って、寺の裏手の野へ向かった。雪深い原の中ほどに、火を焚いて雪を融かし、露出した土は掘り起こされた穴や埋め戻されて茅のごとき卒塔婆の立てられた場所などが散らばっていた。……
僕は其の中を彷徨って、蹠を血に染めたあとに、やっとのことで見付け出した母の墓を苦労して、苦労して、掘り起こした。
苔ばかりが蔓延る曠野に葬られたあまりに脆い白い骨は、小さな壷の中で、無造作に扱われたのか、其れとももう余程体が弱りきって居たのか、花びらや貝殻やらを磨り潰した白粉のようになってしまっていた。かんばせなど、欠片も残っているはずはなかった。
僕は冷えた胸に母の骨壷を抱き込んだ。
「おかあさぁん……」
骨は応えてくれなかった。
「おかあさん、俺は……」
七ツの子供に戻った気持ちで、僕は唯じいっと縮こまっていた。北風が僕達家族を、雪のように冷してしまうまで。
何もかも喪ったその朝、僕は抜けるような冬の青空の下を、かつて故郷だった所を、かつて生家だった所迄で帰った。
母と、頼んで同じ壷に納めてもらった妹の骨を懐き、ひとりきりで寺の磴を降りている最中、不意に、――己れはもう死んでしまったのではないかと感じた。だとすれば此処に居て母の骨を抱えている俺は霊魂に過ぎず、肉体は何処か深山の草蔭で今にも朽ちているのではないかと。
僕は胸に骨壷を強く掻き抱いた。ひやりと冷たい表面と自分がひとつになるほどに其れを懐いていた。
何もかも。
何もかも失ってしまった。
さねちか、と舌に登った名にハッとして脣を噛んだ。實近は今、僕の傍らに居てはくれないのだ。北の戰場で、ひとり…いつ帰るとも知れず……。半身たる桜花を、おいて……。
僕は二人分の骨を入れた壺を抱えたまま、立ち尽くした。母も妹も突然に亡くした僕には、最早今歩いている意味すら判らなかった。
例え何処で死のうとも、もう構わぬと云う気がした。
僕は家に…かつて家であった場所に戻るのを止め、半ば獣道のごとき、冬の堅き草と凍った土、凝った雪の途を、深山に登りだした。一足毎に身の削れるような寒さが沁みてくる。吐いた息の綿のように白いのが、母の得意な裁縫を思わせて歯を喰い縛った。
雪路を膝で割いた。帝都の着物が湿ってずるりと重たくまとわりつく。煩わしかった。
七ツの頃、幼少の砌に目指した崕へ、重たい骸のごとき身体を引き摺って歩くうち、白雪に隠されるように、枯れた桜の樹が生えているのが目に入った。思わず立ち止まる。北風が、枝に積もった雪を振り落とすとき、幻燈機械のごとく、薄紅の花靄のまぼろしが辺りを覆い始めた。
……あの日に戻れれば。
七ツの、孤獨で、自由だったあの日に。實近とも出逢わず、美薗地の名など知りもせぬ、母と妹だけがこの世の縁のすべてであった、深山の桜花に戻れたなら。
帰る場所など無い。
實近。
僕は……
……その時、ふと不思議なものを見た。
桜の透き間の青空を、銀の鳥…のようなものが、ヒラリと天を舞った。僕は何故だか、息が止まるほどその姿に魅入った。
其れは真っ直ぐに天の青を突き抜け、その向こう側へ、刹那で消えた残像から――瞬間、――天が爆発したように拡がり、世界を飲み込んだ。
その時、心臓が脹らみ弾け、そこから黒、それから青の、夜から明けゆく時の流れの幻影が喪われし肉体を果敢ない翼に変化させ、深山の縁を無くした己れの孤獨な身体を濁流となり押し流し千千に引き裂き、さくらばなの屍を浚って何もかも連れ去った。天の向こうへ。銀河へ。幼少の頃より胸の裡におさめていたものが溢れだした。
――おかあさん。
――こと、ことやあい……。
――實近様。
――――實近!
十八年の人生が僕の内を駆け抜け、そして、唐突にすべてが終わった。
その瞬間、僕は、かつての深山の獣が死んだことを
加賀桜花の屍体に取り憑いた亡霊のように、僕は虚に空を見て、それでから胸元のふたつの骨の入った壷を地面に落とした。
"俺"は、加賀桜花は、美薗地の墓にはいれまい。母も妹もはいれなかったように。俺の屍は此処で朽ちるのである。苔と土が俺のされこうべを嘗め、獣や虫が肉を喰む。五臓六腑は融けて地中に沁み、深山の一部となる。
これは俺の墓所である。俺はここに、心を葬った。
俺は――僕は、膝からくずおれて慟哭した。失った名が指の隙から泪となって溢れ落ちた。
僕は桜花だ。
実を生すこともない、帝都の夜に散る花だ。最早護るものなど無い。望むものも無い。僕は故郷を、帰る場所を無くした。
己が屍と、肉親の骨を抱いて、僕は青い深山の櫻の下で哭いた。
鐵道に揺られて、幾日も掛けて雪を越えた。もう
黒黒した鐵の門はやはり
曾ての妾と、娘の死を、彼はどう受け止めるだろうか。
然し書斎や居間に公爵は居らず、僕は骨の包みを抱えて廊下を彷徨った。無気味に、無暗に
暫く彷徨いてから、やっと思い付いて行くと、サロンに人影があった。燈も点けず、長椅子に
「…御母堂は如何だった」と、苦痛の色の隠しきれない眉をさげて問う彼の前に、骨壷を包んでいた風呂敷を寛いでなかを見せたら、はっと彼は息を飲んだ。
「妹も死にました」
と続けると、彼の目は緩く細められ、閉じた。病んだ胸廓から息が溢れる。ことの絶える最期の息を思い出すような呼吸だった。
國近様は何も云わなかった。
「此処に居てはお身体に障りますよ」
お手を、と腕を差のべたが國近様は其れを取らなかった。強情な人であることは判っていたので辛抱強く待つ。しかし抑も、彼が母屋に入ることなど近頃殆ど無かった。僕の疑問を讀みとった風に國近様は薄目を開いた。
「昨夜から此処に居るのだけどね」
「何故……そんなこと、公爵も智近様もお許しにならないでしょう。養生しなくては」お戻りくださいと云うが差向けた手を一向に取らぬ。此方を向くこともせずに、「知らせたのさ。…」と掠れた声で囁く。
「何を…何が…ですか」
「何も。何もね――…虫、というやつだよ…」離れは此処から遠いものだから、と、高熱の所為か、
國近様は、僕の顔に浮かんだ表情を矢張眼だけで追って、陶器に変じたような蒼白い脣で薄っすらと笑った。
「夕べは正に這う這うの体で、何とか此方へ来たのだがね」
――勞咳が
「もう、立てぬ」
微笑む國近様の面差しは、死者の其れとよぅく似ていた。
人を呼んで参りますので、と立ち上がった僕の声は震えていた。足取りもまろぶようで、抱えた骨壷の傾いて落としそうになっていることに暫くしてから気付いた程だった。
何故こうも死は死を呼ぶのか。闇に紛れて何かが此方を窺って居る気がする。邸の静寂は死だったのだ。冥い廊下を走る裸足の踝に黒い影が触れる。曲がり角に、開いた扉の奥に、じゃくじゃくと溢れる蛆のまぼろし。邸の外の空気が蠢く。互いに警告しあって居る。捕まるな、捕まるな、それは死だ。疾うに屍のはずの両足で駆け抜ける窓の向こうで、月の光が銀色に閃いた。
逢いたい。
實近。
お前に逢いたい。
初めて、そう強く想った。何もかも此の肉体から遠ざかっていく中で、魂に寄り添うようにその想いだけが明瞭だった。
刄のごとき心の鎧が剥がれ落ちる。骨がからからと揺れた。俺の割れた心よ。逢いたい。逢いたい。我が半身よ。死んだ俺の、霊魂の呼び掛けならば届くかもしれないと思った。實近。實近。實近。
死んでも、逢いたい。
玄関の方から、人の気配がした。幾人か集まっている気がする。
女の泣く声が聞こえた。廊下に、花のように並んだ女たちがないている。其の向こうに、公爵が立っていた。妾と娘の骨を抱えた僕のことを、彼は振り返って、見つめた。
鈴の音が遠く、聴こえた気がした。
青白い月片のような紙が、ひらりと僕の手の中に落ちてきた。
美薗地實近の、戰死の報せであった。
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