拾参

(舞台の白い光の中に、幾つもの字が浮かび上がる。宣戰布告の詔書や公文書、戰時日誌や新聞の見出し…仮名と漢字の入り雑じった群が辺りを覆う。人びとのざわめきが聴こえる。)



 以下の殆んどの戰の流れは、智近様や公爵の得た軍からの情報に基づいている。無論戰地からの報せなので幾分間違った数字や錯綜はあるが、概ね精確なものだ。

 一九〇二年、冬。帝国艦隊は、運命の旅順要塞港に辿り着いた。

 早速空軍の偵察部隊が索敵したところ、港内に航空母艦とおぼしき姿はなかった。一先ず帝国艦隊は胸を撫で下ろした。ウラジヴォストーク――浦塩の方も密かに偵察隊が向かったが、同様の結果であった。此の結果を受け取った本陣、ひいては美薗地家も、多少何か猶予が与えられたような気になった。又た此方にとっては幸運なことに、國内の情勢の不安定な露西亜では、極東に配備された社会主義の工員が労働争議で軍機の整備を放棄し、季節も重なって満足に空軍が活動出来そうもないと云う。「制空権は我等に有り」と斥候からの報せを受け、旅順艦隊の殲滅が目的たる帝國艦隊は、日ノ本の紅白の旭日旗と櫻の紋様を掲げて、徠る衂戰の鬨の聲をあげた。

 忙しい日々の續く中、少しの間を見つけては智近様と公爵は書斎で旅順港の図を拡げて話し合っていた。軍需産業にも関わりのある美薗地家は情報が優先的に入ってきた。……部屋の前を通る時に、公爵は少し安堵した風に旅順の窄い口を指差してこう言っていた。「あすこは潜水艇は入れまい。それに、露西亜が潜水艇を持っていると云う話も聞かない」…

 飛行機に比べ潜水艇の開発は思うようにはいかず、米国が試作を所持しているらしいことと、獨逸が積極的に開発に乘り出して居ることだけが判っていた。

 文明の急流の先端で、新しい兵器ばかりが次次と造られていく。混濁しゆる未來が、武器となって幾千もの人を殺す。

「対空砲は……」

「戰争直前の情報では無いようでしたが、港内には工作艦が在るでしょう。……何時かは、とは思って居ましたが、流石に早い」智近様が書面を見つめて呟いた。

 銀の飛行機に向けられる砲台を想像して、慄とした。飛ぶ鳥を墜とす巨大な鐵の塊。

「極東艦隊はバルチックの到着を待つ心算だろうか」

「巣穴に隠った熊のようですからね。恐らくそうでしょう……早いところ引っ張り出して始末を附けなくてはならないのですが」

 帝国艦隊全軍と同等か其れ以上の火力を誇る旅順の極東艦隊は、然し露西亜海軍の二つに別けられた巨艦隊の片割れに過ぎないのである。……改めて、此の國が仕掛けている戰爭の大きさに慄える爰地がした。

 公爵が、女中にばれて書斎を出ていったのを見て、僕はそぅっと扉を開き「……申し、」と其処に立って居た智近様に声を掛けた。

 戰の容子の書かれたものを見せてほしいと頼むと、智近様は直ぐに自分の見ていた紙を手渡してきなすったので、一緒に覗き込んだ。彼がやけに鹿爪らしい顔をして讀んで居たのは、矢張海軍の進捗であった。

 旅順艦隊をバルチック艦隊と合流させないよう閉じ込める為の旅順口閉塞作戦が実施されたと云う内容で、何かと眼を通して納得がいった。結論から云うと、此の閉塞作戦はすべて失敗したのだが、その失敗による作戦上の損失より、其れに伴って援護に入った航空隊の機体が二機、戦艦ツェザレーヴィチとレトウィザンの砲火に撃ち落とされたことの衝撃が大きかったようだ。巡洋艦パラルーダも、以前は対空砲を備えていなかったのに、此のときは左舷に魚雷を受けつつも、明らかに天へ向けた砲火を放ったと云う情報がある。

 旅順艦隊は港内に潜んでいる内に、工作艦による改修が済み、簡易ではあるが対空砲を備え付けた。対空射撃の訓練も済ませておいたのである。新鋭の戦艦以外にも取り付けられた砲が間断なく火を吹き、此の後、航空隊は開戦初期とは比べ物にならない銃弾の嵐のなかを飛ぶことになった。

 戦火のなかで、實近が何を感じていたかは判らない。唯、僕の脳裏からは離れなかった。あの桜の苑で、俺は飛べればいと笑った實近の声が。



 死者が膨れ上がっていく報せを受け取り続けていた智近様が、ある晩こう呟いているのを聴いた。――桜なぞに入らねばよかった。

「私が陸でも海でも、軍人だったならば實近を独り往かせることなど無かった」

 智近様の御家族は敷地内の別の邸に住んでいるのだが、一昨年生まれた長男の眞近まさちか様のいらっしゃることが、寧ろ智近様を追い詰めていた節がある。跡継ぎは作ったから良いだろう、戦場へ赴かせてくれと公爵に喰ってかかる様子を扉の影から見た。

 智近様は、實近が幼い頃から、遠く離れていたことを悔いているようだった。愛していることに間違いは無かった、然し其れをずっと満足に伝えられずに居たことが實近の出征の決意を固めたのだと思っているようだった。その思いが痛いほど判るだろう父たる公爵の面立ちは相反する感情やら立場やらに引っ張られて歪んでいた。

 實近の部屋には、彼らのい与えた物が山ほどあって、それらは皆じっと主人の居ない高楼で帰りを待っている。僕も其のひとつのように夜の畳に坐し、かつて實近が僕に贈った種々の品をひとつひとつ思い返し、心を硬く凝った繭にする。

 國のことなど考えたことも無い。誰も皆が帝やみやこや、日ノ本のことを讃えて國じゅうを鼓舞するなか、僕だけは高楼で、もっと別のことばかり考えていた。俺は深山の獸であるのだから國のことなど心構かまうまい、と多少捨て鉢にもなっていた。

 狭い世界しか持たぬ獸の考え事とは専ら、大切な人間のことであった。母、妹、實近。直接呼び掛けることのできぬ相手への思慕が募った。

 此の三人を結び付ける小道具がひとつだけあった。日高家の園遊会を脱け出した春の日に、實近と行った骨董店でった七宝に桜の帯留である。疾うに包みは解いてしまっていて、艶々した其れを文机の上に置いて、暇なときはずぅっと眺めていた。

 ことの婚礼迄でには此の戰が終っていれば良いと思った。その時、故郷の深山に實近も連れていくのだ。一緒に。僕は此の帯留を綺麗な千代紙で包んで他の多くの贈り物と一緒に手渡そう。近頃、また体を悪くしていると云う母も、っと嬉しがって快くなるに違いないのだ。母を好く妹だから、先ず母に此の帯留めを遣わせるかも知れない。どちらが附けてもよかった。…過ぎた夢が脳裏を過るが、かぶりを振って此れを追いだした。

 日高家と云うなら、實近と同じ隊に所属していると云う若き鷹――日高千景はどうしているのだろうか。二人は共に無事、空を飛んでいるのだろうか。ふと園遊会のことを思い出した。彼にも兄らが居るのだ。どれ程彼らが心配して居るか――丁度、女流詩人の、旅順包囲網の只中に在る弟を想いてうたった詩が巷で話題になって居た。

 昔は實近がひとりぼっちだったという高楼に、今は僕がひとりぼっちで居る。

 高楼のまるい月見窓から、夜闇に身を乗り出す。呼ばわれば何処までも声が伝わっていきそうな透き通った夜である。おぅい、と僕は幽かに声をあげた。

「實近。……實近。聴こえるか」

 海のように暗い夜が満ちて、雲の向うで仄かに冬の星の光芒が瞬いていた。

「實近、死ぬなよ。…死んでくれるなよぅ……」

 声が冷たい闇へ吸い込まれていく。しゃらん、と夜の底から鈴の音がした。

「お前は、我が、半身なのだから……!」

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