拾弐

(蝉時雨。

 まぼろしのごとく、遠く……或いは戰の音にも聴こえるような曖昧な音と、白々した夏の光。)


 實近の出征は驚くほど早く、寮住まいだったもので荷造りも殆んど向うでやってしまい、別離は余りに刹那であった。

 彼の背に縋った日に、僕らの別れは済んでしまったような気がして、實近と僕は心よりの言葉を交わすことなく、唯互いに――あの胸の裡を焦がさんばかりの熱情ばかりを反芻して居た。

 實近の旅立った日の朝に、墟の天守閣めいた高楼の天辺で、僕は立ち尽くして、月見窓から帝都を…その向こうの青空を眺めていた。部屋中の錦が褪せたように陰の染みた色合いを見せ、飛行機の模型は鈍色をしていた。

 ひとりで青空を見つめながら、来年の春迄には母を呼ぼうと決心した。其の前に、己れの身の振り方を決めねばならなかった。

 軍か、桜か。

 國か、帝か。

 ――何方も、僕には本当は如何どうでもいものだったのに。




 季節が、夏を過ぎた。實近の帰らぬ初めての夏だった。やけにべとりとした可厭な感じのする夏で、暑くとも躯の裡に如月の氷の残って居るような心持がして、空気にはいつも鐵の臭いが一筋混ざっていた。水を撒いても拭えぬ重たげな暑さが、紅白旗と戰記のめぐる帝都を蝕んでいた。

 僕は以前より数日に一度、書を借りに國近様の御部屋へ行っていた。學ぶのに要る書は大抵國近様のもので足りたので、僕は平時彼の使った癖の附いた書を繰り直して居た。其れだけがその時の僕の出来ることであり、僕は花を咲かせねば、と半ば取り憑かれたように學んでいた。

 ある午後に、本を返しに行く途中に見ると、夏も盛と云うのに、離れへ向かう渡り廊下の莇が枯れかけていた。欄干に渡された一条の紅の緒に、冥土へ導くがごとく列なった鈴ばかりが、晝光にぎらぎら白く輝いていた。裸足で離れへ渡れば、蹠の灼ける音を幻聴に感じた。

 …國近様の御部屋は風通しの為に襖が開けられて居て、隙から醤藥くすりの墨字も鮮麗あざかな紙包が畳に散らばっているのが見えた。失礼しますと云って入れば、洋風の卓の上に、桃をぶどう酒で煮たのを器に盛ったのが、手も附けられずに残っていた。僕は其れを部屋の入り口の方へ寄せた。國近様に食えと云っても聞かぬのだから、女中が下げ易い位置に置いておこうと思ったのだ。

 國近様は、横たわっていると痰や血が咽喉に詰まるというので縁の籐椅子に腰かけて居るが、死んだ人間を置いているようにその手足は草臥りとしていた。白茶けた河原の石のごとく乾いた手足は、削った枝のようだった。

「…加賀桜花」

 不意に國近様が声をあげた。その声は隙間風のように掠れて居る。返事をして傍に寄った。彼は度重なる咳で気管支が破れ、病んだ肺からの鮮血に混じった黒っぽい血も吐くようになっていた。

「あれを讀んでおくれでないかい」

 國近様の指差した先、洋風の卓の上に新聞と、智近様の得てくる実際の戦況の記された書簡が置かれていた。僕が素直に二つを手に取ると、戸惑いを見て取ってか國近様は低く呟いた。

「云ってなかったか。…俺は目が悪いのだよ」

 僕は首肯いて其れを手に取って開いた。本当に目が悪いのでなく熱でぼやけるのだろう。

 開戦から此方、大方の予想に反して、海軍の連戦連勝が紙面を賑やかし、國民を沸き立たせていた。新聞が勝利を告げる度に万歳の声が帝都のそこかしこから聴こえ、益々、人人の手や家家の窓には紅白の旗が翻るようになっていった。しかし、損害がないわけではけしてない。殊に、智近様が逐次得て来る前線の戦況によると、陸軍が捗ばかしくない。

「金山、南山で、陸軍の死傷者が三千とのことです」

「三千。…確かか」

「はい」

 僕も幾度か読み返したが、桁は間違っていなかった。確かに、一度の戦闘で死者が千の桁なのである。

 國近様は黙然としていたと思うと、不意に気だるげに頬杖を付いて囁いた。

「大変な戰になったことだ」

 僕も黙って、此の新たなる戦――文明開化の百段階段を上り詰める最中にある日ノ本が直面している、初の近代戰というものに思いを馳せた。機関砲など見慣れぬ武骨な字の踊る視界がぐにゃりと歪んだ。

 實近、と心中僕は呼び掛ける。實近、お前は耐えられるのか。

 武装済とは云えど元は偵察機で編成された隊である。陸地の上も飛ぶ。

 天からのお前の眼差しが捉えるだろう、赤土の屍山血河を、辺り十里四方に血煙漂うあめつちを。その鐵の翼を駆って幾千もの屍の上を飛ぶのであろう。其の地獄を見てもなお、お前は日ノ本の為に飛ぶと云うのか。

 僕は書簡を畳みながら、學校帰りに見た光景をふと思い出して口にした。

「警官隊が通りで衛生について呼び掛けて居りました。――巷では麻疹とコレラが流行っているそうです」

「病など何時の世でも流行っているものさ」

 戰より人を殺すのは病だけだからね、と國近様は空咳と僅かな血と伴に吐き出した。僕は黙りこくって、病み續いて居る、國近様と何処か似通った母のおもてを思い出していた。

「智近はどうしている。…」

「近頃御忙しいようで、三日程機関に御泊まりになられています」

「父は」

「公爵もここ数日は。…」

 不意に國近様が笑いだした。とは云えどまるで瘧の人間が震えるような痛ましげなか弱さがあったが…

「父に公爵、か。あれは俺の父ではないし、お前にとっては歴とした実の父ではないか。呼び方が逆さだなぁ…」

 僕は思わず俯向いた。美薗地明近公爵。僕の実父――余りにも纏う空気の違うもので、未だに、僕には父親の無いような気がしていた――

 僕の気を引き戻すように國近様が咳をする。少し焦り懐紙を差し出すと脣の血を拭う乾いた爪が皹割れて居た。

「お前、士官學校に行くのかね」

「……はあ…いえ、未だ決めて居りませぬ」

「母親を此方へ呼びたいのだっけねえ」

 僕は俯向いて居た。母のおもてが浮かんだ。削げた頬の陰と潤んだ黒い眼、七ツの頃に己れを撫でた痩せた手、割れた爪。僕とよく似ていたと云う若き白百合の面差しは、貧しさと病のとり憑きひび割れた肉体の奥に埋もれてしまった。其れでも猶施しを受けぬ頑なさは、ひょっとしたら純情の成せる技だったのかも知れなかった。

 ことは母によく似ていた、其の不幸の陰も。白無垢の花嫁衣裳でも覆い隠せぬ黒黒した、北のつめたい不幸の翳が加賀の家には巣食って居った。

 國近様はずるりと体を脱力させ、溜息と共に吐き出した。

「軍學校は給与が出るけど、戰があるよ。母と妹を捨て置いてお前も戰地へ往くのかい」

 僕は答えられなかった。曾て實近を弾糾した國近様の声と膚のつめたさが未だ芯に残って居り、目の前の黒地に凌霄花の袖から覗く手首の不吉な白さがひりりと目を射った。

「……好きにしなと云っておいて、野暮なことを云ったね。……」

 お前があんまりにも無私なものだから、と國近様は囁いた。僕が呆けた眼をすれば、彼は何処か憐れんだような眸で僕を流し見た。…切れ長の眦……美薗地の血に非ざる、不思議とすこぅし僕と似た、鋭い刄のごとき眼差し……。

「巷じゃ御國の為だ帝の為だとほんに騒煩うるさいことだ。…」

 新聞にも街角にも此の日ノ本を讃える詞が溢れ、若者の出征を紅白旗で彩って送る世間に厭気が差したと云う風に、彼は邸の奥庭に面した濡れ縁の方を見ていた。其処には調えられた静寂だけが在ったから。…彼が美薗地邸の洋館を向くのは、曾て實近の居た高楼を見遣るときばかりだった。

「己れの為めにでなく生きてなにを如何しようと云うのだろう。実際國体の為め、顔も知らぬ帝の為めに、己れやら…良人おっとやら倅やら…弟やらを殺してしとする者のこんなに多いことがあるものか……」

 不敬です、と窘める声の出なかったことが、僕の圧し殺した心を物語って居た。深山の獸の、みやこなど知らぬと吠える心。…唯慕わしいものを欣求もとめる心…。

 國近様は眼を閉じ、草臥ぐったりと籐椅子に凭れた。その膝には、あの銀蜥蜴の煙管が夏の陽にぼうっと白く光っていた。

 まぼろしのように蝉時雨が降ってきていた。べとりと湿った大気を伝わって、何処か遠く、遠くから響いてくるような音だった。

「ひとが何かの為めに生きようなんて考えるとね、どうしようもなくなるのさ。誰でも、何でも、己れ以外のものに生きる価値を求めちゃあ不可いけない。

 覚えておきな、桜花。

 畢竟ひととは、孤獨なものよ」

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