拾壹

(轟と、鐵と鉛が唸る音が破れ鐘のごとく響き渡る。紅白の旭日旗の振られること波濤火焔のごとし、……やがて、何か大きなものが空を切り、群れを成して近付いてくる……。)


 一九〇二年、日ノ本は不穏な渦の直中に引きずり込まれたように、國中が変に高揚し、血と鐵の雄叫びと、ため息と嘆きの囁きに覆われていた。

 とうとう日露が戰端を開いたのである。

 美薗地家では此のだいぶん前に、智近様が蒼い顔をして、海軍の大臣が英國の無煙炭を大量に賣い付けたと云う情報を持ってきたとき、早くも戰争を確信して家中の気配が緊張した。この大量の炭は艦隊が使うものであり、日ノ本の開戰の意思を如実に示すものでもあった。

 日露開戰の宣言がなされたのは雪深い如月の頃であった。故郷では如何にせんと不安に思ったが、巷は混乱し、思うように帰省も出来ぬ始末であった。この怖しい決定から何もかもが駈け足に過ぎていった。街並みが変わる。授業が変わる。人人が変わる。翻る紅と白ばかりが数を増して大蛇のごとく日ノ本を呑み込んでいった。気焔をあげる世間の熱が高楼をすらも呑もうとしていて、僕は天辺で耳を塞いで静かに絹々の奥に隠れていた。

 そんな中、更に美薗地家を揺るがす激震が走った。

 實近が、武装偵察機で編成された航空隊に志願し、試験で合格したと言う。公爵は卒倒せんばかりだった。何も言わずに、實近は一人で鐵の嵐のなかに身を投じる覚悟を固めていたのである。實近に呼ばれ、傍らに立っていた僕も仰天した。

 確かに開戰が報された時は、皆ひとつのことを考えた。――實近は出征するのかということである。智近様は金桜であるから出征はあり得ない。美薗地家で戰場へ赴く可能性があるのは實近みだった。然し幾ら士官學校の卒業生とは云えど、航空科は修練も機体も足りていない。そう簡単に出陣は出来ぬ、とたかをくくって居たのだ。往くとするなら陸か海か――位であった。

 帝国空軍は発足し立てで、卒業學生の少いことで有名な騎兵科よりも未だ人が居なかった。更にその中で、鐵の翼を自由に操れる者となると、片手の指に足りるかどうか。實近の才が買われたのである。

「千景も選ばれました」

 實近が硬い声で告げた内容に、今度こそ公爵は言葉を失った。日高家の三男。妾腹の子だと云う話は無論、此の僕にも既に伝わって久しく、殆んど言葉も交わしたことの無い彼には、実のところ奇妙な連帯的な感情を持つ日もあった。

 航空隊は、帝国海軍の、給炭艦に飛行甲板を覆い被せただけの特設航空母艦「花嵐」の航空隊として、帝国艦隊に随行して旅順へ向かうそうだ。旅順要塞には小さくとも航空基地があるらしい。更に向うが艦隊に空母を持っているか否か情報が錯綜し、軍の参謀らは戰略を拘束された。実際には、本格的な航空母艦というものを竣工している國は英國を除いて未だ無きに等しく、杞憂であったのだが、この他国の近代的装備への不安と無知が、後の様々な作戦の妨げとなった。丁度、英國が大型の軽巡洋艦「フューリアス」に発着艦甲板を取り付けたり、米國が給炭艦を改めた空母「ラングレー」を進水させた時期でもあり、露國が何時までも此れに遅れを取っている筈はないと云うのが軍の共通見解だった。

 實近はまるで近況報告を終えただけという風に踵を返した。公爵も何も云えずに居た。出征は帝の命である、天命である、覆されることは決して無い。僕は其の瞬間、白紙に黒黒拡がる墨を幻視した。――血の耀きを持つ鐵の墨である。

 震える紅梅の女中が開けた扉を通って、實近は部屋を出ていった。僕は黙って其の後ろに附いた。

 邸の奥底から冷々した風の吹くような気配がして、廊下に生けられた南天の實が血繁吹のごとく揺らいだ。その紅が實近の雪を孕むような白き頬に映った。

「桜花」

 僕は返事をしなかった。實近も理由は判るので、何も言わなかった。彼のかんばせも敢えて見ず、チラリと寄越された視線にも気付かぬ振りをして、僕は彼の一歩後を歩行いた。

 ……隣になど。

 脣を噛んだ時、ふと、廊下の曲がり角の奥闇が蠢いた気がした。…使用人でも居たのだろうか。僕達はひたひたと冷えた音を立てて曲がり、渡り廊下に這入った。

 高楼の百段階段の真下に、影の凝ったような人が立っていた。僕ら二人は足を止める。

 國近様であった。

 彼は削がれたような輪郭のかんばせをゆらぁりと此方に向け、ざんばらの前髪の透間から切れ長の瞳を覗かせた。一歩踏み出す跣の踝の細さと乾きに、身の強張る思いがした。國近様は其のまま、實近の前までやって来た。

 向かい合ったこの二人の背丈がそう変わらないことに気づいて僕は驚いた。國近様は元々長身であったが、實近が其れに近いほど成長して居たのである。そして、向かい合った其の面差しも。……

「話は聴いたよ。愚か者が」

 吐き捨てた言葉の乱雑さに足を縫い付けられたようになった。実際其の言葉が掛けられたのは實近だけであったのだが、僕も彼の一種凄絶な気配に身を硬くしていた。國近様は、僕が美薗地の屋敷にやってきた時分既に痩身であったのが近頃はますます痩せ細り、影か幽鬼のごとき風情を湛え、其の身に脆くもぞっとするあの世の切れ味の鋭い気配を纏っていた。

「もとより馬鹿ではないかと思ってはいたがここまでとは思わなんだ。愛されているのに死に急ぐ者は馬鹿だよ」

 いつでも飄然と、何に拘ることもなく枯柳のごとくであった國近様が、其のときだけは強情に噛み付いた。いつにない矢か銃弾のように激しい語調に、實近も凍りついたようであった。

「國なんぞの為に命を棄てるのか。お前はお前を愛した者の恩を仇で返す気かね。この父も、この兄らも、どうしてお前に傷付いて欲しいだなんて思うだろうか」

「あ、――兄様―…、俺は、……」

 國の、そして帝の為に命を捧ぐること大和男児の本懐とされる風潮があった時代である。個と云う概念の稀薄さ、自分は國と云うものの一部であり、己が死よりも國の誇り、存続の方が大切である世で、國近様の言葉は余りに率直であった。公爵も智近様も、表立ってはけして口にしない言葉であった。

「あにさま…兄様は、俺がいくさに出ることを可厭いやだと仰有いますか。…」

「…そんなことを訊かれるとはね」

 冷えた声音に身が竦む。切れ上がった眦の鋭さは刃のそれである。

「もういい。愚か者は勝手に死ぬるがいいさ」

 國近様の矢に、泣きそうに震えながら、其のときだけ子供に還ったように實近は呟いた。

「國近兄様は、僕のことが嫌いなのだと思ってた」

 國近様の、もとより白いかんばせがサアッと青褪めて、何か云おうとしたのか……その途端、体を折って激しく咳き込み、薄い脣と其れを押さえる掌から血が滴った。そのまま血の塊を幾つも吐いて、床に倒れ臥した。咄嗟に其の体を支えた實近も青い顔をして、袖で血を拭った。兄様、と云う呼び掛けに応えぬ國近様の体を抱えあげようとするのに手を貸せば、見知った實近の温もりと國近様の熱があるのに冷たい膚が知覚を刺した。僕はハッと實近の横顔を見遣って――其のかんばせの変貌、過去からずぅっと見慣れたものと思い込んでいた彼の年令の変化に初めて気が附いて息が止まった。己が兄を腕に抱く實近は、大人の男であった。

 物音を聞き付けた女中や使用人が駆け付け、直ぐに國近様は離れに連れられて医者が呼ばれた。…とは言っても、出来ることなど無いのだが。實近と僕は書見の部屋で、其の騒乱を気を揉んで見つめていたが、すこぅし國近様の容態が落ち着いたという処で不意に奴は「帰らなきゃあ。…門限が」と呟き、端座していた畳から腰をあげた。僕は其のことばに何も返さなかった。お前の帰る場所とは家ではないのか、とか、昔のお前なら倒れた兄から離れるなどあり得なかったろう、などとも。僕は褪せるということを知らぬような不気味に青い美薗地の畳を見つめて押し黙って居た。

 實近が、國近様の愛情を疑って居たことを初めて知って、僕は少なからず動揺して居た。端から見れば、屈折は有るものの、國近様は弟を彼なりに愛していると判った。然し實近は違ったのである。僕とは異なる純真そのものの眼をしていながら――実兄を疑っていたのである。骨肉の争いと云う位だから、血縁の者の方が憎しみが増すと云うのもこの世には有るだろう。然し彼はそんなものではないのだ。

 僕の心も、疑われていたのだろうか。

 ……外から射す光が赤みを強くして、畳はほんの少し枯れたような色に近づいていた。夜になれば、奇妙に青い不思議な色みを増すその藺草の浪に、僕は手を附いて立ち上がった。肩に鉛を着たように身体が重く感じた。實近は既に障子の外で、此方を視ていた。

 立ち位置もいつも通りとはいかず、僕は彼の後に附いて、二人で歩き出した。實近の影と僕の爪先が重なる所がゆらゆら水底のごとくぼやけていた。

 實近は渡り廊下を往くとき、幾度か離れを振り返って見ていた。僕は顔を伏せて、互いの字の中にある枯れた薊を思い描いていた。

 やがて、邸に這入って、玄関までの長い道程のなかで、ぽつりと、沈黙に堪えかねたように實近が洩らした。

「桜花は――桜花は、軍へ入るのかな」

「………知らぬ」

 僕は又た脣を噛んだ。知らぬ。知らぬ。今のお前の云うことなど。

 實近はそれきり何も云わず、唯黙って歩行く已みだった。…公爵に、別れの挨拶をすると部屋にもう一度訪ったとき、僕は部屋に這入らなかった。冷えた廊下に裸足で立って、長く伸びた己が影と髪の黒が、僕自身を呑み込んでいくような気がしていた。

 軍へ入るのか、などと。

 追いかけて来いと云ったのはお前だろう。

 部屋を出てきた實近は、今までのように僕に微笑みかけるということをしなかった。蒼白いかんばせに無理に平常を貼り付けたようで、出征前には、智近兄様にも挨拶をしなけりゃならないから、もう一度来なきゃね、と彼は囁いた。僕は首肯いた。其れだけは応えた。

 黒黒聳ゆる鐵の門。外から見るのも内から見るのも変わりはせぬと気付いたのはいつ頃だろう。境界とは重く、悲しく、恐ろしいものなのだ。其れが開くときの嘆きの軋音が僕達の間に響く。實近は、開いた門の向こうから射し込む無気味に紅い耀きを浴びて、深く息を吸った後に振り返った。僕は俯いて居た顔をあげた。高い位置にある彼と目が合う。

 實近は、夜空を二つ嵌め込んだような、此処だけは昔と変わらぬと思える黒い瞳で凝と僕を見て、……深紅と煙のごとき焔燃ゆる天を見上げた。

「昔俺は云ったろう。俺は帝都が、日ノ本が、空が好きだと。

 だが空は余りに広すぎて、唯ひとりの人間が愛することは不可能なのだ。だからせめて、俺は日ノ本を愛し――其れに仇なす敵を撃滅せんと思うのだ」

 僕は、實近の声の低さや彼との背丈の差、かんばせに落つる蔭などに絶句しかけ、彼がくるりと踵を返したところで我にかえって地面を踏みしめた。

「其れが本当にお前の愛なのか」

 叫んだ僕の声は風に掻き消されたのか、實近は振り返らずに門の外へ足を踏み出した。黒黒とした鐵の閂が懸かる重たい音が淡薔薇色の無気味な夕焼けに響いた。

 時は一九〇二年の如月、血の紅と経帷子の白をした旗が、嵐近づく帝都中にはためいていた。



 職務から帰宅するなり弟の決意を聴いた明くる朝、無人のサロンで長椅子に病人のごとく坐す智近様の姿を視た。智近様が年の離れた弟のことをひどく可愛がっているのはよぅく判っていたし、實近もそのことを知っていると思っていた。

 日ノ本を愛するとて、その日ノ本の一部である兄を不幸にしているではないか。此れで、愛していると云えるのか。

 實近は、何にせよかつての彼であることをやめてしまったのだ。

 唯ひとりの人間が愛するには空は余りに広すぎる、と實近の云ったことばが思い返された。……實近は己れをひとりだと思っているのである。

 僕は脣を噛み締める。引き結んで何も溢るることなきよう、血も涙も飲み込んだ。僕の身体のなかの黒黒した闇が拡がり、しんしんと痛んだ。……これも、時代の所為なのか。勢いを増す濁流に押し流される最中、僕達の繋いだ手はこんなにも無力だったというのか。

 ――かの半身たる加賀桜花を、美薗地實近は忘れてしまったのだろうか。

 嵐の夜も傍にいようと、云ったのに。

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